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聖書の豆知識:中通りコミュニティ・チャーチ

今の時代

歴史の流れ 10

今の時代の救い

恵みと信仰による救い

救いとは、神さまとの関係回復と、それに伴う永遠に続く祝福です。そして、アダムの時代から黙示録の時代まで、救われるための方法はたった一つです。

救いは、神さまの恵みのゆえに人類に提供されました。神さまからの無償の一方的なプレゼントとして差し出されているということです。そして、その救いを個人的に自分のものとするには、神さまを喜ばせるような行ないをすることによってではなく、ただ信仰によってです。信仰とは、恵みにより約束を与えてくださる神さまへの人格的な信頼のことです。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2:8-9)。

この原則は、どの時代であっても変わりません。ただし、救いをもたらす信仰の内容、すなわち「何を信じるのか」は、時代によって異なります。

漸進的啓示と信仰

神さまは、人間に知って欲しいと思われた真理を、様々な方法で情報提供なさいますが、これを「啓示」と呼びます。神さまは、すべての真理をいっぺんに啓示されたのではなく、時代が進むにつれて少しずつ明らかにしていかれました。これを「漸進的啓示」と言います。

たとえば、アブラハムは、後の時代になって明らかになった、「救い主は、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死んで葬られ、復活する」というようなことを知りませんでした。まだ啓示されていなかったからです。ですから、アブラハムが救われたのは、イエス・キリストの十字架と復活を信じたからではありません。彼がそれまでに啓示されたこと(この場合には、アブラハム契約の内容)を信じて救われました。

「そして主は、彼を外に連れ出して言われた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる』。アブラムは【主】を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15:5-6)。

モーセの律法が有効だった時代でさえ、救いは律法を守る行ないによって与えられたのではありませんでした。彼らもまた信仰によって救われました。そして、救われた感謝の応答として律法を守るよう求められたのです。

恵みの福音

それでは、今の時代の私たちが信じるべき内容は何でしょう。それは「恵みの福音」と呼ばれていて、イエスさまが福音書の時代に語られた「御国の福音」とは内容が異なります。それは以下の箇所に要約されています。

「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです」(第1コリント15:1-5)。

「イエスさまが十字架にかかって復活してくださったので、この罪深く不完全な私は、今あるがままの姿で神さまに赦され、受け入れられ、子どもとして愛され、祝福され、永遠の幸せを手にすることができる」。この図々しいことを信じることが、今の時代に求められていることであり、唯一の救いの条件です。

あなたはこの図々しいことを信じますか? もし「はい、信じます」と言えるなら、今日からあなたはクリスチャン、すなわち神さまの子どもとして、神さまの祝福をいただき、永遠の幸せを約束された人です。

大宣教命令

教会は、世界中にいるまだ救われていない人々に福音を宣べ伝え、できるだけ多くの人々を救いに導く使命が与えられています。伝道はクリスチャン生活のオプション(してもいいし、しなくてもいいもの)ではなく、どうしてもしなければならないことです。

「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:19-20)。

信じた信者の生きる指針

キリストの律法

上述のように、アダムやノアやアブラハムたちの時代も、モーセの律法の時代も、救いは信仰によって与えられました。そして、信じた者たちが、救ってくださった神さまに忠実に従いたいという思いで守ろうとしたのが、各時代に与えられた律法(神さまの命令)です。

「モーセの律法」は、出エジプト後のユダヤ人にのみ与えられた指針であり、しかも十字架以降は無効となりました。今の時代の私たちクリスチャンを導く生活の指針は、「キリストの律法」とか「いのちの御霊の律法」とか呼ばれています(第1コリント9:21、ガラテヤ6:2、ローマ8:2)。

「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです」(第1コリント9:20-21)。

具体的には、イエスさまが十字架後の信者に向けて語られた教え(前述の通り、当時のユダヤ人に向けての教えもありますから、文脈をよく考えて読み取る必要があります)と、新約聖書に書かれた使徒たちの教えです。

モーセの律法の一部が生きているわけではない

モーセの律法と同じ命令
キリストの律法の中には、モーセの律法と同じものがあります。たとえば、十戒のうち安息日規定以外の9つまではキリストの律法の中にもあります。

だからといって、モーセの律法の一部が今も生きているということではありません。モーセの律法は、いったんすべて無効となりました。そして、新しく定められたキリストの律法の中に、たまたま昔のと同じ規定があったということです。

江戸時代に徳川幕府や各藩で定められた法体系で、殺人は罪でした。そして、明治維新以降に新しくできた刑法でも殺人は罪です。といっても、明治以降も江戸幕府の法が存続したというわけではありません。モーセの律法とキリストの律法の関係も、これと同じです。
モーセの律法よりさらに高い基準の命令
キリストの律法の中には、モーセの律法よりもさらに高い基準を求めているものがあります。

たとえば隣人愛について、モーセの律法では「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。これに対し、キリストの律法では「キリストがあなたを愛したように愛しなさい」と命じられています。
モーセの律法に矛盾する命令
また、キリストの律法には、モーセの律法と矛盾する教えもあります。たとえば、モーセの律法の時代には、イスラエルの神さまを信じて霊的な祝福を味わいたいと思う異邦人は、ユダヤ人と同じように割礼を受け、モーセの律法を遵守する誓いを立てなければなりませんでした。しかし、キリストの律法においては、信じた異邦人に割礼を要求することは、むしろ罪になります。

なお、イエスさまを信じたユダヤ人クリスチャン(いわゆるメシヤニック・ジュー)は、今でも息子が生まれて8日目に割礼を授けます。これはモーセの律法を守ってということではなく、アブラハム契約のしるしとして、すなわち生まれた息子が肉体的にユダヤ人であるということのしるしとして行なっていることなので、問題ありません。

罪との戦い

永遠の赦し

繰り返しますが、救いは信仰によって与えられます。モーセの律法であれキリストの律法であれ、律法を守る行ないへの報酬として救われるわけではありません。私たちが神さまの命令を守るのは、そうすることによって救われるからではなく、救われた喜びの故に、感謝の応答としてそうするのです。

いったんイエス・キリストを信じて神さまの子どもにしていただいたなら、その救いは永遠に有効です。残念ながら、不完全な私たちは、この地上に生きている限り、たとえクリスチャンになったとしても罪を犯し続けます。しかし、たとえ救われた後に罪を犯したとしても、それで救いが取り消されることはありません。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)。

昔の人々が、神さまの命令に違反したと自覚したとき、あるいは神さまに礼拝をささげようとするとき、自分の罪を赦していただき、神さまとの交わりを回復するために、血の犠牲をささげました。昔は不完全な動物犠牲でしたから、毎回ささげなければなりませんでしたが、イエスさまはただ一度で、完全な血の犠牲をささげてくださいました。

ですから、私たちの過去の罪ばかりでなく、現在進行形の罪や、これから死ぬまでの間に犯すであろう未来の罪も、すでに完全に赦されています。そして、神さまの愛は、私たちがどういう状態にあっても私たちに注がれ続けています。それをいつも忘れないようにしましょう。

従順

では、どうせ赦されるのなら、好き勝手に生きていけばいい、ということにならないでしょうか。いいえ、そんなことにはなりません。

「では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ6:15)。

それはなぜでしょうか。
不可能
まず、それは不可能だと言われています。

「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。……神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(第1ヨハネ3:6,9)。

これは、クリスチャンは決して罪を犯さないとか失敗しないとかいう意味ではありません。現段階では、罪は赦されているだけで、まだ罪の性質は私たちの中に残っています。ですから、クリスチャンだって、どんなに気をつけていても罪を犯してしまいます。

しかし、自分が神さまに一方的に愛され、考えられないような祝福を約束され、しかもこの自分のためにイエスさまが命をささげてくださったということを知って感謝しながら、なおも神さまが悲しまれると分かっていることを積極的に行なおうとすることは不可能だ、と言っているのです。私たちが意識的に罪を犯せるのは、神さまのあふれる愛を忘れているときです。
天における報い
また、救われた人は、永遠の刑罰を免れて、神の国(天の御国)に入れるという希望は与えられていますが、その神の国においてどんな祝福を受け取るかということについては、まだ確定していません。それは、生きている間にどのような生き方をしたかによって決められます。

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2:6)。

「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです」(第1コリント9:24-27)。

ですから、どうせ救われているんだから、あとは好き勝手に生きようというのは、長期的に見れば非常にもったいない生き方です。

日々の悔い改め

それでも、不完全な私たちは罪を犯してしまいます。そんな時、聖書は神さまに罪を告白して、悔い改めの祈りをするよう命じています。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。

なぜ赦されているのに、悔い改めの祈りをするのでしょう。それは、私たちのためです。悔い改めの祈りをするとき、私たちは少なくとも以下の3つのことを行なっています。
  1. 自分のこの行ないや思いは神さまのみこころに反しており、それは間違っているということを、神さまの前で認めている。
  2. 代わりにどういう生き方をしなければならないかを知っており、これからはそうしようと決意している。
  3. 今回の失敗は、イエスさまのおかげで完全に赦されているから、神さまに罰せられるとか、捨てられるとか、祝福を取り上げられるとかいうことを心配しなくていいと認めている。
これらは、みな私たち自身のためになることです。神さまに罪を告白し、謝罪し、正しい生き方をしますと決意するとき、私たちは堂々と神さまと交わることができるようになります。そして、「自分は本当の幸せに至る正しい道を歩んでいる」という、生き生きとした希望や確信を取り戻すことができます。

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(第1ヨハネ3:21-22 新改訳第3版)。


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