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ショートエッセイ:中通りコミュニティ・チャーチ

健忘症の神さま

(2011年12月18日)

フィリピンの教会にいるあるおばあさんは、夢の中で時々イエスさまに会ってお話をするんだそうです。今日も教会の人たちに「わたしゃ、またイエスさまにお会いしましてなぁ」なんて話しています。

ところで、この教会の牧師は、あまりその手の話を信じられないタイプの人でした。そこで、ちょっと試してやろうと思い、おばあさんにこう言いました。「なあ、おばあちゃん。今度イエスさまに会ったら、聞いて欲しいことがあるんだが。それは私が神学生の頃に犯した罪についてなんだ。それがどんな罪だったか尋ねてもらいたい」。

もし、おばあさんが牧師の罪を言い当てられなければ、夢を見たなんて嘘っぱちでしょう。牧師は公然とおばあさんを「指導」することができます。でも、そんな牧師の思惑など知らぬ風で、おばあさんは快く承諾しました。

次の週、おばあさんが礼拝にやってきました。そして、いつものようににこにこしながらこう言うのです。「先生、昨日の夜、イエスさまにお会いしましたワ」。「それで、例の件、尋ねてくれたかね?」 信じちゃいませんでしたが、それでも牧師の心臓はドキドキと高鳴りました。もし、万が一、言い当てられたら……。

おばあさんは答えました。「はいはい、もちろんですとも。イエスさまに『なんでも、うちの牧師が神学生の頃に罪を犯したらしいんですが、それはいったいどんな罪だったんでしょうか?』とお尋ねしましたら、イエスさま、『そんなこともあったかなぁ。私は忘れてしまったよ』とおっしゃいましたワ」。

すると、牧師は突然ぽろぽろと涙を流し始めました。「ああ、主よ。私は今の今まで、あなたの赦しを疑って参りました!」 実はこの牧師、神学生の頃に犯した罪のことが、ずっと心に引っかかって、密かに苦しんでいたのです。しかし、牧師は知りました。神さまの赦しが完全であることを。罪のリストに赤線を引っ張るような赦し方ではなく(それなら、いつでも読み直すことができます)、罪の記録帳そのものを焼却処分にし、完全に忘れてしまうのが、神さまの赦しだということを。

その日から、この牧師のメッセージはすっかり変わりました。社会の矛盾や人々の罪を指摘して責める代わりに、それらの罪を命がけで赦してくださったイエスさまの愛を強調するメッセージに。