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ショートエッセイ:中通りコミュニティ・チャーチ

幸福主義の罠

(2017年6月11日)

明治大学教授の諸富祥彦先生は、現代人が、ものが少なかった昔に比べてはるかに豊かになったはずなのに、慢性的に欲求不満である理由を解説しておられます。それは、現代人が「幸福主義」に囚われているからだとか。幸福主義とは、「誰もが自分の幸福を求めるものだし、また当然そうして良いのだという考え」のことです。

幸福主義にとらわれた人は、たとえ一つの欲求が満たされても、次々と欲求がエスカレートしていきます。人間の欲求には際限がないからです。そこで、延々と欲求不満状態が続くことになります。
「いったん欲望ゲームの虜になった人間は、絶えず『何かが足りない』という欠乏感につきまとわれることになる。欲望ゲームの虜になり、自分の幸福を追い求め始めた人間は、心の底から充たされることがない。物質的には満たされているはずなのに、心はどこか、渇ききっている」(諸富祥彦著「カウンセラーが語る自分を変える<哲学>」教育開発研究所より)。
聖書が約束する救いとは、私たちの病気が治ることでも、お金が儲かることでも、仕事で成功することでもありません。もちろん、祈った結果、いやされたり儲かったり成功したりすることはあります。しかし、時に神さまは、私たちの願いとは全く逆の境遇に私たちを置き、しかも、祈っても祈っても、いつまでもそのまま放置しておられるように見えることがあります。

私たちの願いがいつもその通りにかなうとしたらどうでしょう。私たちの欲望はますます肥大していき、いつも欲求不満を抱えて生きなければならなくなります。「蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ』と言わない」(箴言30:15)という言葉の通りです。

一方、クリスチャンであるパウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)と宣言しています。

聖書が教える救いとは、神さまとの平和(ローマ5:1)、すなわち神さまとの親密な良い関係です。全知全能の神さまが、この私を子どもとして愛し、導いてくださっているという確信が深まれば深まるほど、私たちはパウロのようにどんな境遇に置かれても平安や喜びや希望を保つことができますね。

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