罪を赦したまえ

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(2014.9.14)

先日、仏式の通夜式に参列しました。

葬儀で僧侶が唱えるお経は、昔のインドの言葉をそのまま音にしたものですから、通常は何を言っているのかさっぱり分かりません。しかし、今回の葬儀では、お経の前に日本語の古語で祈りの言葉を述べておられたのが印象的でした。さすがに全部は理解できませんでしたが、「我々人間は、地上では様々な罪を犯す。たとえばむさぼったり、嫉妬したり、殺生したり。しかし、今故人の罪を赦し、極楽に迎え入れたまえ」といった内容の祈りです。

この祈りは、キリストの教えに通じるところがあります。人は神さまのみこころのままに生きることはできず、むしろ神さまが嫌われる罪を犯してしまうものです。そして、神さまは完全に聖なる存在であり、正義を貫かれるお方ですから、罪を犯した人間をそのままで受け入れることはできません。ですから、罪あるまま死んだなら、聖なる神さまのおられる天国に行くことはできないのです。本当だったら。

だからといって、人間は自分の力で罪を取り除くことはできません。仮に今後いっさい罪を犯さなかったとしても(そんなのは不可能ですが)、過去の罪を取り消すことはできません。ですから、私たちに希望があるとしたら、神さまに一方的に赦していただくことだけです。

そして、私たちクリスチャンは、神さまによって罪が赦されたと信じています。私たちは不完全な存在ですから、クリスチャンになったとしても、やっぱり失敗してしまいます。それでも、私たちは赦されており、神さまに愛され、受け入れられていると信じることができるし、たとえ今この瞬間死んだとしても天国に迎え入れられると安心していられます。

極めて図々しい話ですが、それを信じることが、聖書が求めている信仰なのです。

ちょっと似ているところがある仏教(の一派)とキリスト教の罪の赦しについての教え。違いがあるとすれば、なぜ自分の罪が赦されていると信じることができるか、その根拠をどこに置いているのかということです。仏教の希望の根拠がどこにあるか、私は知りませんが、自分の信仰については説明できます。

今から2千年前、イエス・キリストが私の身代わりとして十字架にかかり、私が受けるべき罪の罰を全部引き受けて、死んで葬られた。そして3日目によみがえり、今は私のために父なる神さまに取りなしをしてくださっている。この「歴史的事実」に、私たちクリスチャンは希望を置いています。

そして、人がいったんイエス・キリストによる罪の赦しを信じたなら、その人の罪の赦しは完了します。過去の罪も、現在の罪も、死ぬまでの間にこれから犯す罪も完全に赦されます。ですから、キリスト教の葬儀では、遺族や友人が故人の「冥福」を祈ることをしないのです。あの世での祝福はもう確かなものだからです。そして、故人を救ってくださった神さまを礼拝し、やがて自分も天に迎え入れられて、故人と再会することができるという希望を確かめます。

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