初演を演じる

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(2015.1.25)

友人のHさんが、ご自分の教会の集会で初めて証しをなさったということで、その音声を聴かせていただきました。証しというのは、ちょうど法廷での証言のように、神さまが自分にどんなことをしてくださったのかということ、特に自分がイエスさまによってどのように人生を変えられたかということを、他の人の前でお話しすることです。

内向的なHさんは、当日はとても緊張したとおっしゃっておられました。確かに、音声を通してもそれが伝わってきます。原稿を読む声は震え、何度もつっかえていました。実際、手足は震え、頭の中は真っ白だったそうです。ですから、あとでちょっぴり落ち込んだとおっしゃいました。

しかし、聴かせていただいた私は、とても励まされました。生で聴いた方にも感想を聞きましたが、大変感動したとおっしゃっていました。その話は、Hさんの、飾ることのない真実の言葉でした。イエスさまによって、Hさんが本当に造り変えられたんだなあということが伝わってくるお話でした。そして、Hさんご自身とか、Hさんの経験のすばらしさとかというよりも、Hさんを造り変えたイエスさまのすばらしさが、生き生きと伝わって来るお話でした。だから、聞く人に「ああ、私もまた、このイエスさまによって変えられるんだ」という希望を与えるのです。

いわゆるクリスチャン用語と美辞麗句に満ちあふれ、立て板に水のごとく語られる証しが悪いと言っているわけではありません。しかし、そのような証しを聴いていて、ちょっぴり鼻につくことも、ないわけではありません(もちろん、めったにありませんが)。聴く私自身の心のフィルターがゆがんでいるということもあるかもしれませんが、何か装飾された嘘っぽさというものを感じてしまいます。

ディズニーランドでは、たくさんのダンサーやミュージシャンが働いています。新しい企画が出るたびにオーディションをするわけですが、経験があるからとか、以前からディズニーランドで働いているからというだけでは採用されないそうです。採用判定の最大のポイントは、「初演を演じられる」ということ。たとえ100回目の公演であっても、初演の時の新鮮な生き生きとした感動を、観る人々に与えられるということです。

Hさんの、初演の感動に満ちた証しを聴きながら、私は説教者として「初演を演じて」いるだろうかと思わされました。イエスさまに救われた時のあの感動、聖霊さまに触れられた時のあの感動、天の父なる神さまに愛されているということを知った時のあの感動、それを今も生き生きと体験し、言葉にしていただろうかと。それとも、単に私の知識や哲学を、慣れた言い回しで語り、私のすばらしさを印象づけようとするだけの話になってしまってはいなかったかと。

うまい話、感動的な話、泣ける話を語るということよりも、私のつたない話を聴いた方が、「イエスさまって、すばらしいお方だなあ!」と思っていただけることを……。今、そんなことを願いながら、聖書のメッセージを準備しているところです。

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