僕はキリスト教が嫌いでした

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(2016.2.21)

「僕は、キリスト教が嫌いでした」。その高校生の男の子は言いました。彼は、クリスチャンホームに育ち、小さいときから神さまの話、イエスさまの話を聞いて育ちました。お祈りも、礼拝も、献金も、奉仕もしていました。しかし、聖書の命令を読み、「こんなの自分には守れない」と思いました。そして、そういう無茶な命令をする神さま、聖書、教会から、だんだん心が離れていったのです。

しかし、その聖書が、ある時彼に語りかけてきました。「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4)。「なんだ、ここに書いてあるじゃん!」 彼は思わずそう叫びました。

律法を守ることによって神さまに愛されるという生き方なんか必要ない。聖書はそう宣言しています。神さまの選びによって、神さまから一方的に愛されているんだと。そして、それをただ信じるだけで、神さまとの愛の関係を回復することができる、と。そして、彼は洗礼を受ける決心をしました。

この話を聞いたとき、私の心、いや、「霊が」と言った方がいいでしょう。霊が喜びに満たされ、躍り上がっているのが分かりました。どんなに心の表面が立ち騒ぎ、イライラし、平安を失っていたとしても、です。私たちの霊は、神さまの恵みのすばらしさを知っているのです。恵みの中こそが、私たちのいのちの安らぐ場所だと知っているのです。

「恵みとは、神にもっと愛されるために、私たちにできることは何もないということであり、神にもっと愛されなくなるために、私たちにできることは何もない、ということである」(フィリップ・ヤンシー)。

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