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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

いけにえではなく、あわれみを好む

マタイによる福音書12章1節〜8節

(2017年12月31日)

参考資料

1節の「安息日」とは土曜日(ユダヤの一日は日没で切り替わりましたから、正確には金曜日の日没から土曜日の日没まで)。モーセの律法では、この日は一切の仕事をせず、休息を取ることになっていました(出エジプト20:8-11)。神さまがイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放なさったことを記念するためです。バビロン捕囚以降は、ユダヤ人たちは安息日に居住地の会堂(シナゴーグ)に集まって律法を学び、礼拝するようになりました(イエスさまの時代もそうです)。

2節の「パリサイ人」は、ユダヤの宗教的なグループの一つであるパリサイ派に属する人。モーセの律法以外にもたくさんの戒律を作り、それらを守るよう民衆を教えていました。

3節の「ダビデ」は、紀元前10世紀に活躍した、イスラエル統一王国2代目の王。

4節の「備えのパン」は、幕屋や神殿の聖所に毎日供えられた12個のドーナツ型のパンで、新しいパンと入れ替えられた古いパンは、祭司が食べました(レビ24:5-9)。

イントロダクション

ユダヤの信仰的伝統の中で、土曜日は安息日と呼ばれました。一切の仕事を休む日です。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と、イエスさまはおっしゃいました。イエスさまは、休むということについて何を教えてくださっているのでしょうか。

1.安息日論争

パリサイ人の批判

イエスさまの弟子たちは、麦畑の横を通ったとき、道沿いの穂を摘んで実を食べました。

それ自体は違法ではありません。鎌を使って刈り取るのは禁止ですが、手で摘んで食べるのは、ユダヤの律法でも保障されている権利でしたし、その場で食べるならば、他人のブドウ畑のブドウを食べるのもOKでした(申命記23:24-25)。そして、農夫たちには、実った穂の一部は収穫しないで残しておき、落ち穂も拾うなと命ぜられています(レビ23:22)。それは、貧しい人たちや旅人たちが空腹に苦しまないようという、あわれみから出ている教えです。ちなみに、現在でも、イスラエルの多くの農園でこの教えが守られているそうです。

問題は、その日が安息日だったということです。早速、パリサイ人たちが批判しました。ユダヤの律法によると、安息日には一切の仕事をしてはいけないことになっています(出エジプト20:8-11)。

聖書には何が安息日に禁止されている仕事に当たるかということは、細かく規定してありません(具体的に禁じられているのは、食事を用意する、火をおこす、薪を集めるなど数例です)。しかし、パリサイ派の人たちは、聖書をいろいろと研究する中で、律法本文には書かれていないような細かい規定をたくさん設けていました。これを福音書は「昔からの言い伝え」と呼んでいます。たとえば、安息日の規定だけで、1500もの「言い伝え」が作られました。

「言い伝え」によれば、穂を摘み、それを揉んで籾殻を取り除く行為は、収穫や脱穀の仕事に当たるので、安息日にはしてはいけないことになっています。ですから、パリサイ人が弟子たちを非難し、それを黙認しているイエスさまを非難したのです。

今回の事件の後、イエスさまは安息日に手の動かない人をいやしていますが、そのときもパリサイ派の人たちは、イエスさまが「言い伝え」に違反したと見なしました。彼らの考えによれば、人を治療するのは仕事に当たり、今すぐ命に関わるような急性の病気やケガの場合には仕方ないけれど、別に次の日まで待ってもいいような緊急でない病気や障害を治療するのは、安息日にしてはいけないことだったのです。

イエスの反論

これに対して、イエスさまは聖書を用いて反論なさいました。
祭司が食べるパンを食べたダビデ
まず、イエスさまはダビデのエピソードをお話しになりました。ダビデ王が、まだ将軍としてサウル王に仕えていた頃の話です。ダビデの人気に嫉妬したサウルは、ダビデの命を狙いました。ダビデは、サウルの嫡男ヨナタンの助けによって、都を脱出しました。

逃避行の途中で、ダビデは空腹になり、祭司アヒメレクのもとを訪れて食べ物を求めました。ところが、普通の食べ物がなかったために、アヒメレクは、昨日供え物にし、新しいものと取り替えたばかりの、古いパンをダビデに手渡しました。これは本来祭司が食べるためのパンですが、空腹で困っているダビデをあわれんで、アヒメレクはそうしたのです(第一サムエル21:1-9)。

イエスさまはなぜこの話を持ち出したのでしょうか。「聖なる日なんだから、おなかがすいて死にそうでも、そんなのは関係ない。とにかく我慢しろ」と言うパリサイ人に対して、聖書はあわれみを大切にしているじゃないかとおっしゃりたかったのです。
安息日に働く祭司
それからイエスさまは、「祭司たちは、安息日であっても神殿で働いているではないか」とおっしゃいました。安息日だから、とにかく何もしてはいけないんだというなら、これをどう解釈するんだと。

するとパリサイ人は、「祭司たちは、神さまに仕える特別な人たちで、神殿で働くのは神さまへの奉仕なんだから、他の仕事とは違うんだ」と主張することでしょう。

それを見越したイエスさまは、「ここに神殿よりももっと偉大な存在がいる」とおっしゃいました。「わたしの弟子たちは、そのわたしに仕え、わたしと共に神の国の奉仕をしている。祭司が特別だから働いてもいいと言うなら、弟子たちだっていいということになるだろう」とおっしゃっているわけです。
ホセア書
そして、イエスさまは「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という聖書の言葉を引用なさいました。これは、ホセア書6:6からの引用です。

新改訳第3版、口語訳、新共同訳で「あわれみ」と訳されている言葉は、ホセア書のヘブル語原文では「ヘセズ」という言葉です。ヘセズというのは、契約に関係する用語です。契約の当事者が、契約によって生じた義務を行なうに当たって示す、熱心さ、誠実さ、優しさ、忠実さなどを表しています。

すなわち、契約を遂行するに当たっては、何をするかも大事だけれど、どういう心、どういう態度で行なうか、それも大事だということです。

ホセア書で語られた「わたしはヘセズを好む」ということばは、いけにえをただ形式的に捧げるなら意味はない。心を込めて、すなわち神さまへの愛、感謝、喜び、畏怖の念などを込めて捧げるのでなければ、そんな捧げ物は神さまの心を動かさないというメッセージなのです。そこで、新改訳2017ではホセア6:6やマタイ12:7を「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」と訳しています。

安息日の定めに対しても、イエスさまはヘセズを要求なさいました。「安息日なんだから、ただ形式的に仕事を休めばいい」ってもんじゃないよと。休むとすればなぜ休むのか、すなわちどういう心で安息日を守るのか、それが大事なんだよと。

安息日の理由

では、なぜ神さまはイスラエルに安息日の規定を与えられたのでしょうか。

申命記5:15にはこう書かれています。「あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は安息日を守るよう、あなたに命じたのである」。

すなわち安息日は、ただ休む日ではなく、イスラエルを解放し、守り導いてくださっている神さまのことを思う日なのです。

また、出エジプト23:12にはこう書かれています。「六日間は自分の仕事をし、七日目には、それをやめなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や寄留者が息をつくためである」。

古代においては、家畜はもちろん、奴隷たちも主婦たちも、休みなく働かされるのが常でした。しかし、イスラエルでは週に一度、性別や身分にかかわらず全員が休みを取ることができました。こんなことは、古代社会においては考えられないことです。立場的に弱い人たちに対する、神さまのあふれる愛情が感じられますね。

ユダヤ人にとっての安息日は、自分たちを愛し、自分たちの弱さに配慮を示してくださる神さまを思い、喜び、賛美し、感謝する日です。そのために、休むのです。安息日は、「休まなければならない日」なのではなく、「愛と恵みに満ちた神さまのことを思いながら、心と体と魂をリフレッシュするための日」です。

私は、1992年にイスラエル旅行に行かせていただきました。安息日(金曜日の夜)にホテルで夕食を取っていたとき、ユダヤ人の一族と一緒になりました。彼らは、楽しそうに食事をし、祈り、歌ったり踊ったりしながら神さまをほめたたえていました。実に喜びに満ちた様子が印象に残っています。本来、ユダヤ人にとって、安息日は神さまを中心にした、うれしい楽しい交わりの時なのですね。

しかし、パリサイ人はその目的を見失って、「休め」という教えだけを強調していました。そのために、おなかをすかせている人に食べるなと言い、病気や障害で苦しんでいる人をいやすことを禁じたのです。そして、安息日が、なんだか窮屈な日になってしまっていました。

2.解放のメッセージ

わたしたちはどうか

では、私たち現代のクリスチャンはどうでしょうか。知らない間に、信仰生活が窮屈なものになってしまってはいないでしょうか。

イエスさまが十字架にかかり、完全な犠牲となってご自分の血を流されたとき、モーセの律法の役割は終わりました。ですから、私たちクリスチャンには、旧約聖書に書かれているモーセの律法を、文字通りに行なう義務はありません(エペソ2:14-15など)。それは、安息日の教えについても同様です。

しかし、いつの間にか新しい「言い伝え」を作って、それを自分や他の人に押しつけ、縛られてはいないでしょうか。たとえば……
  • 日曜日には礼拝に行かなければならない。
  • 水曜日の夜は祈祷会に参加しなければならない。
  • 毎日、最低30分は聖書を読み、祈らなければならない。
  • 教会が求めるいろいろな奉仕作業に、積極的に参加しなければならない。
  • 収入の十分の一以上を献金しなければならない。
  • 酒、たばこをやってはならない。
  • カラオケやダンスなんてとんでもない。
  • ジャスやロックは悪魔の音楽だから聴いてはいけない。
  • おしゃれや派手な化粧をしてはいけない。
  • 信仰書以外の本を読んではいけない。
  • 年に最低一人は教会に誘わなければならない。
  • クリスチャン以外の人とおつきあいしてはいけない。
これらはすべて、ネット上で出会ったクリスチャンの方から、私が実際に聞いた発言です。

もちろん、クリスチャンとして、人間として、こういう生き方をしようと自分で決断し、、納得ずくで、そして喜んでその決まりを守っているならいいし、ぜひそうありたいと思います(ローマ14:5)。

しかし、もしもそれによって窮屈な思いを味わい、喜びを失っているとしたら、また、その決まり事を守らない人を非難するとしたら、ちょっと考え直す必要があるでしょう。それは、ヘセズを失った状態だからです。

してもいいよのメッセージ

何度かセミナーで教えていただいたことがある故・古川第一郎牧師が、聖書の中の様々な禁止命令について、こんなことをお話しされています。それは「〜するな」ではなく、「もう〜しなくていいよ」という意味なんだと、古川先生はおっしゃるのです。

たとえば、聖書は異教や偶像礼拝を禁じています。それは、「もう本当の神さまを捜さなくていいよ、偶像なんて拝まなくていいよ。あなたを造り、あなたを愛しているこのわたしが、あなたを救い、あなたを我が子とし、あなたを必ず幸せにするのだから」という意味です。

同様に、盗みや殺人や姦淫を禁じているのも、「もうそういう自分や他人を粗末にするようなやり方で、幸せになろうとしなくていいよ。なぜなら、まことの神さまがあなたを守り、導いてくださるのだから」という意味です。

罪から解放されたことを覚える

安息日の命令も、すでに学んだように、「働いてはいけない日」なのではなく、「仕事を休んで体と心と魂をリフレッシュしていい日」です。

今は安息日の命令を文字通り守る義務は、私たちクリスチャンにはありません(ですから、金曜日の日没後から土曜日の日没まで働いても、さばきを受けることはありません)。しかし、神さまが、どうして安息日の命令をイスラエルにお与えになったのか、その理由についてはいつも覚えておきたいものです。

というのは、私たちは「エジプトの奴隷」だったわけではありませんが、かつてはみんな「罪の奴隷」の状態にあったからです。そして、イエス・キリストの十字架と復活を信じたとき、すべての罪が赦され、神さまの子どもとされ、永遠に祝福される身分となりました。ですから、私たちは、土曜日だけでなく、また日曜日だけでもなく、毎日、嫌一瞬一瞬、そのことを思い巡らせ、感謝と喜びを新たにしていきましょう。

週に一度、こうやって集まって公の礼拝をささげているのも、それが決まり事だからではなく、イエスさまが私たちを罪から解放してくださったことを思い起こすことで、体と心と魂をリフレッシュするためです。

まとめ

知らない間に、すべし・すべからずの窮屈な教えを自分や他の人に押しつけて、喜びや平安を失ってはいませんでしたか? イエスさまはあなたを解放してくださいます。新しい年を迎えるに当たって、もう一度聖書の教えをとらえ直しましょう。そして、神さまへの感謝にあふれて、神さまのみこころを学び、喜んでそれを実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • クリスチャンでいることに、喜びや平安を十分味わっていましたか?
  • 律法的に他の人を責める思いになったことが、最近ありましたか?
  • 知らない間に「ヘセズ」を見失っていたなあと思い当たることがありますか?
  • 「ヘセズ」を見失った命令を、解放のメッセージとしてとらえ直すとどうなりますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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