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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

赦されない罪?

マタイによる福音書12章22節〜45節

(2018年1月14日)

参考資料

23節の「ダビデの子」とは、救い主の別名です。救い主はダビデの子孫として生まれるという預言があるからです(第1歴代17:10-15など)。

24節の「ベルゼブル」は「バアル・ゼブブ」のギリシャ語読みです。旧約時代にペリシテ人が礼拝していた異教の神「バアル・ゼブール」(気高き館の王)のことを、第2列王1章は「バアル・ゼブブ」すなわち「ハエの王」と軽蔑的に呼んでいます。後に、これが悪霊の一人を指す名称となりました。

29節のたとえで、「強い者」は悪霊、家財を奪い取る強盗は救い主を指しています。イエスさまは救い主だから、悪霊よりも強いということを表しています。だからこそ、悪霊追い出しは救い主登場、すなわち神の国実現のしるしなんだということです。

39節の「ヨナのしるし」とは、イエスさまの復活のことです。

イントロダクション

世の終わりに、クリスチャンはみんな(生きていても死んでいても)、栄光の体が与えられて天に引き上げられます(携挙)。そのとき、もう私たちは二度と罪を犯すことはなくなります。罪そのものから解放されるからです。しかし、地上に生きている今は、私たちは何度も何度も罪を犯し、神さまが喜ばれないようなことを考えたり行なったりしてしまいます。

それでも、私たちの罪はイエスさまのおかげですべて赦されていると思っていましたが、今回の箇所は、赦されない罪があるということを教えてはいないでしょうか。万が一、私たちが赦されない罪、聖霊に逆らう冒涜を犯してしまったら、救いが取り消されてしまい、永遠の滅びを招くことになるのでしょうか。もしそうだとしたら大変ですね。

いつも申し上げていることですが、聖書のある箇所を理解するには、そこだけ取り出して読むのではなく、前後の話の流れや、その話が書かれた目的や、聖書の他の箇所との関係など(すなわち文脈)をよく見て解釈しなければなりません。

まずは今回のイエスさまの話の背景についてお話しし、それから赦されない罪とは何なのかということについてお話しします。そして、最後に、私たちへの励ましをいただきましょう。

1.この話の背景

救い主しか行なえない奇跡

イエスさまは、「悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人」をいやされました(22節)。すると、人々は大変驚き、この人はダビデの子、すなわち旧約聖書が登場を約束している救い主ではなかろうか」と言いました(23節)。

当時、悪霊の追い出しをする人は他にもいました(27節)。ここでのポイントは、いやされたのが口のきけない人だったということです。当時行なわれていた悪霊追い出しの方法は、まず悪霊の名前を聞き出し、その名前を使って「○○よ、出て行け!」と命じて追い出すやり方でした。イエスさまも、悪霊レギオンを追い出したときにその方法を使っています(マルコ5章)。

しかし、口がきけない症状を引き起こす悪霊の場合、名前を聞き出すことができませんから、追い出すことができません。そこで、パリサイ人、すなわち当時の宗教的指導者たちは、口がきけない人を癒やせるのは救い主だけだと教えていました。ですから、人々の反応は当然のことでした。

苦肉の策

ところが、指導者たちは、イエスさまのことを救い主だとは信じたくありません。というのは、イエスさまが指導者たちを批判し、彼らの教えを否定していたからです。詳しくは、前回と前々回の学びを参照してください。

しかし、口のきけない人をいやせるのは救い主だけだと自分たちが教えていたわけですから、どうして救い主しかできない奇跡をイエスさまがなさったのか、それを民衆に説明しなければなりません。合理的な説明は、イエスさまは救い主だと認めること、もしくは、自分たちが教えていたことが間違っていたと認めることですね。しかし、プライドの高い彼らは、どちらもしたくありません。

そこで、苦肉の策として、悪霊のかしらの力を使って悪霊を追い出したのだという説明をしました。すなわち、イエスという男は、モーセの律法が禁じている魔術を行なう者であり、救い主ではあり得ないという説明です。

実は、今回とほとんど同じ出来事が9:32-34でも起こっています。また、後に成立するユダヤ教の経典タルムードにも、イエスは魔術を行なって民衆を惑わしたために死刑になったということが記されています。すなわち、「イエスは救い主ではなく魔術師だ」という見解は、そこにいた数名の指導者の個人的な意見ではなく、イスラエルの「国としての公式見解」だったということです。

イエスさまを救い主だと信じたユダヤ人はたくさんいました。しかし、ここでのポイントは、イスラエルは国としてはイエスさまを拒否したということです。「赦されない罪」「聖霊を冒涜する罪」というのは、そういう流れの中で語られた言葉だということを押さえてください。

2.赦されない罪とは

非常にユニークな罪

ここまでで分かることは、「赦されない罪」とは、イスラエルという国が犯した罪であって、個人が犯した罪ではありません。

また、「赦されない罪」とは、イエスさまが人として地上で活動なさった時期に犯された罪であって、それ以前の時代のイスラエル、あるいはそれ以降の時代のイスラエルが犯した罪ではありません。ですから、現代のユダヤ人やイスラエル国が責任を問われることはありません。

イエスさまが、繰り返し「この時代」という言葉を使っておられることに注目してください(41,42,45節)。

責任の大きさ故の断罪

ユダヤ人は世界の中でも特別な民族です。それは、彼ら自身が神さまに大いに祝福されているというだけでなく、世界の諸民族に、まことの神さまを紹介し、救いに導く使命が与えられているからです(創世記12:1-3)。

ですから、もしイスラエルがまことの神さまを忘れて偶像に走ったり、神さまの約束を信じなかったり、その命令をないがしろにしたりすると、教育的指導を受けることになります。それが旧約聖書に記されている、ユダヤ人に対する様々なさばきです。たとえば、
  • 出エジプト後、すぐにも約束の地に入れたはずなのに、カナン人を恐れてモーセに逆らったために、40年間も荒野で過ごさなければならなくなった。
  • 南北王国はモーセの律法を無視し、偶像礼拝を繰り返したために、アッシリアやバビロンに滅ぼされた。
福音書時代のユダヤ人は、いよいよ救い主が登場して、神の国が実現する場面をその目で目撃することができたはずでした。

ところが、イエスさまを救い主として歓迎せず、国として否定したために、イエスさまから厳しく断罪されて、さばきを招くことになったのです。

すでに終わった刑罰

ただし、この「赦されない罪」に対する罰というのは、火の池で永遠に苦しむ永遠の滅び(黙示録20:15)のことではありません。それは、国が滅びるということです。

43-45節で、イエスさまは前よりもひどい状態になった人のたとえを話しておられます。これは、当時のイスラエルとローマ帝国の関係が背景になっています。

この当時、イスラエルはローマ帝国に占領されており、属国として税金を納めるなど抑圧されていました。それでも、宗教的自由は与えられていましたし、ある程度の自治も認められていました。しかし、それよりももっと悪い状態になるというわけです。すなわち、今度は国が滅びてしまうということです。

23章になると、イエスさまはよりはっきりとそのことを預言なさいます。

23:36 まことに、おまえたちに言う。これらの報いはすべて、この時代の上に降りかかる。
23:37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
23:38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
23:39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
24:1 イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。
24:2 すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。


イエスさまがこの話をなさった40年後、紀元70年に、ローマ軍がユダヤ人の反乱に対する報復として、エルサレムを攻撃して徹底的に破壊してしまいます。神殿も、文字通り「どの石も他の石の上に残らない」状態になりました。神殿のうち壁には菌がかぶせてありましたが、それが火災で溶けて石と石の隙間に入ってしまったので、略奪のためにローマ兵たちがすべて崩してたからです。そして、多くのユダヤ人が殺され、生き残った人たちも世界中に散らされてしまいました。

その罰は歴史的にすでに終わりました。その結果は今も残っていますが、さらに加えて罰を受けることはありません。それどころか、紀元70年にイスラエルは滅ぼされましたが、それでも神さまはイスラエルに対する契約を忘れておられません。彼らは世の終わりにその使命を果たし、世界中に福音を宣べ伝えるようになります。そして、国を挙げて必ず救われます(ローマ11:25-26)。

3.私たちへの励まし

決して取り消されない救い

まず今回の箇所から学べることは、残念ながら(?)あなたは決してこの「赦されない罪」を犯すことができないということです。逆に言うと、私たちにいったん与えられた救いは、決して取り去られないということです。

イエス・キリストがこの自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活したと信じるなら、私たちはあらゆる罪ののろいから救われます。

聖書が教える「救い」とは、経済的に豊かになるとか、健康な長寿が約束されるとか、社会的成功とか、家内安全とかいうことではありません。「神さまとの愛に満ちた温かい関係が回復する」ということです。救われて全知全能の神さまと仲良くなったのですから、私たちは、
  • 罪を離れる努力は必要ですが、罪を犯したからといって、永遠のさばきを恐れる必要がありません。
  • 将来について、しっかり計画を立て、リスク管理をすることは大切ですが、あれこれ心配しすぎる必要はありません。
  • 人に評価されることで幸せになると思って、自分をことさら良く見せようと、無理に背伸びする必要もありません。
  • 自分の幸せのために、人と争って蹴落とす必要もありません。
  • 嘘をつく必要もありません。
  • お金に執着する必要もありません。
この話をお読みください

この祝福は、決して私やあなたから取り去られることはありません。イエスさまはこう約束しています。「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません」(ヨハネ10:28-29)。

聖霊さまに導かれて、パウロもこう教えました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)。

祝福と責任は比例する

そして、ここで私たちが学べる2つめの点は、大いに祝福されればされるほど、与えられている使命を果たす責任も大きくなるということです。

私たちはユダヤ人ではないのに、神さまの子どもとされるという、とんでもない特権を与えられました。神の民として選ばれたイスラエルに特別な使命が与えられているように、私たちクリスチャンにも使命が与えられています。それは、神さまを愛し、人を愛し、福音を宣べ伝えることです。

私たち自身が神さまの守りを信じていなければ、「神さまがついているから大丈夫」と信じてもらえません。私たち自身が神さまの命令を守ろうとしていなければ、「罪を悔い改めて、神さまが喜ばれる生き方をしましょう」と勧めても聞いてもらえません。私たち自身が、イエスさまのように人を愛していなければ、イエスさまが間ということを信じてもらえません。

私たちは不完全です。しかし、それでも前を向いて進んでいきましょう。そうすれば、父なる神さまは失敗を赦してくださいますし、聖霊なる神さまが助けてくださいます。

あなた自身への適用ガイド

  • 自分がかつて犯した罪のうち、これは赦されないのではないかと思うものがありますか?
  • 救いとは、経済的に豊かになるとか、健康な長寿が約束されるとか、社会的成功とか、家内安全とかいうことではなく、神さまとの関係が回復することであるということを学び、特に感じたり考えたり気づいたりしたことがありますか?
  • クリスチャンになる以前と以降で、何か変わったことがありますか? どんな些細なことでもかまいません。
  • 神さまの子どもとしての使命について、特に今週心を配りたいと思ったことは何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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