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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

本当のきよめとは

マタイによる福音書15章1節〜20節

(2018年2月25日)

参考資料

ここで問題にされている「手を洗う」という行為は、衛生的な目的ではなく儀式的な汚れからのきよめが目的です。当時、手を洗わずに食事をすると、汚れや悪霊が体内に入り、内面も汚れてしまうと考えられていました。ただし、そのようなことは聖書に書かれておらず、人間が勝手に作り出した戒律「言い伝え」(6節)に基づく習慣です。

パリサイ人、律法学者は、この「言い伝え」を作り上げていった学者たちの流れをくむグループです。

8-9節は、イザヤ29:13の引用です。

イントロダクション

今年は特にインフルエンザが猛威を振るっています。インフルエンザ対策はうがいと手洗い。特にインフルエンザは接触感染で広がりますから、手洗いは大事です。……ということを、今回の箇所でパリサイ人たちが主張していたわけではないし、神さまがインフルエンザから守ってくださるから手洗いは不必要だと、イエスさまが主張しておられるわけでもありません。

今回の箇所は、宗教的にきよいということ、あるいは信仰的に立派であるということがどういうことかを教えています。

1.パリサイ人との対立

言い伝え

旧約聖書の時代、北イスラエル王国はアッシリア、そして南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、多くの民が捕囚されました。バビロンがペルシャに滅ぼされ、約束の地に帰還したユダヤ人たちは、神の民である自分たちが捕囚されたのは、モーセの律法をないがしろにしてきた報いだと悟りました。そこで、これからはモーセの律法に忠実に生きていこうと決意します。

そのためには、どのような行動をし、どのような行動を避けなければならないか、具体的に知る必要があります。たとえば、「父と母を敬え」という命令は、どういう行動をし、どういう行動を避けなければならないということなのでしょうか。

そこで、エズラを中心とした律法学者たちが、モーセの律法を研究し、律法が求めている本質的な精神を明らかにしながら、具体的にどのような行動をすればいいか解釈し、民衆に分かりやすく教えました。

ところが、時代が下るに従って、この律法遵守運動が形骸化していきます。律法を守るために解釈を研究するはずが、いつの間にか律法そのものを離れて、解釈が次の解釈を生み、その解釈がまた新しい解釈を生んでいくようになりました。そして、聖書には書かれていないような膨大な数の規則が作られていきます。聖書に書かれていないどころか、今回の箇所でイエスさまが指摘しておられるとおり、聖書の教えに反するような規則もたくさん生まれました。イエスさまの時代には、神さまがユダヤ人に与えたモーセの律法そのものよりも、人間が作り上げた解釈の方が重視されるという逆転現象が起きていました。

このようにしてできあがった新しい規則のことを、福音書では「言い伝え」(ヘブル語でミシュナ)と呼んでいます(6節)。パリサイ人や律法学者たちは、言い伝えを作り上げていった学者たちの流れをくむグループの人々です。
手を洗う儀式
今回パリサイ人たちが問題にした、食前に手を洗うという規則も、言い伝えに基づいています。もちろん、これはばい菌を洗い流すという衛生的な目的ではなく、儀式的な汚れからきよめられるためです。

モーセの律法には、何かに触ることによって儀式的な汚れを受けるということについて教えている箇所があります。たとえば、人や動物の死体、重い皮膚病の人や出血が止まらない人、悪性のカビが生えた壁や食器などに触れると、儀式的に汚れてしまい、他人との接触や宗教行事への参加などが制限されます。そして、汚れを受けた人が体や衣服を洗わなければならないという規定や、祭司が聖所に入る前に手足を洗うといった儀式についても書かれています。

手を洗う儀式はそこから派生して作られた言い伝えです。当時のパリサイ人たちは、以下のように教えていました。
  • 生活していると、異邦人が触ったものに知らず知らずのうちに触れてしまう可能性がある。そうすると、手が汚れてしまう。
  • だから、手を洗わないで食物に触ると、その汚れが食物に移り、食物を通して汚れが体内に入り、内側まで汚れてしまう。
  • そこで、食前には必ず手を洗ってきよめなければならない。
「食前に手を洗わないと、神さまの祝福を失って貧しくなる」とか、「食事する場所に水がないなら、6〜7キロ歩いてでも水のある所に行き、手を洗え」とか教えるラビ(教師)もいました。あるラビは、「手を洗わないで食事をすると、手にくっついていた悪霊を体内に入れることになり、取り憑かれる」とさえ言っています。

イエスさまは、モーセの律法そのものは完璧に守っておられましたし、当時のユダヤ人にも守るよう指導なさいました。しかし、言い伝えに関しては全く無視したり、時にはそれに反するようなことをわざと行なったりすることもありました。そういうわけで、イエスさまも弟子たちも食前に手を洗う儀式を実行していなかったのです。

コルバン規定

さらにイエスさまは、パリサイ人たちの偽善を批判なさいました。モーセの律法は、両親を敬うよう命じています。その一つの方法として、年老いた両親を子どもが経済的に支え、養わなければなりません。これは正しい解釈です。ところが、パリサイ人たちは別の言い伝えを持ち出して、両親を養わなくてもいい抜け道を作り出しました。

それはコルバン規定と呼ばれていた規則です。自分の財産に向かって「コルバン」(ささげものという意味)と言えば、その財産は他の人の必要のために用いることができなくなります。すなわち、神殿にささげるか、そうでなければ自分自身のために使うかです。どんなにお金があっても、いったん「コルバン」と宣言してしまえば、両親を養うためには使えないのです。

エズラたちは、モーセの律法を守るために解釈を研究し始めました。しかし、パリサイ人たちは、モーセの律法をかえってないがしろにし、人間の自己中心的な罪深い生き方を助長するような研究をしてしまっていました。

しかし、パリサイ人たちは、自分たちは神さまのみこころにかなう、きよい生き方をしていると自負していました。イエスさまは、このようなパリサイ人たちの生き方を偽善として激しく非難なさいました。

口から出るものが人を汚す

イエスさまは11節の言葉を語り、それを弟子たちに解説なさいました(17-20節)。それによれば、人の外にあるものが人を汚すのではなく、人の心の中にあるものが人を汚すのだということです。

モーセの律法が、汚れについて事細かに定めているのは、何がきよい生き方で何が汚れた生き方かを決めるのは、人間の感覚や文化や常識ではなく、神さまだということを教えるためです。そして、汚れた人がきよめられ、神さまとの祝福に満ちた交わりを回復する方法もまた、人間がどう考えるかではなく、神さまがお決めになることです。ユダヤ人は、モーセの律法に従い、徹底的に汚れを避けることによって、本当の汚れを避けることを学ぶことが期待されていました。

本当の汚れとは、人間の内面にある罪の性質です。神さまが何を望むかなんて関係ない、自分の好きなように生きていきたいという自己中心的な性質ですね。それが、19節にあるような悪い考えや行動となって表に出てきます。ですから、本当のきよめは、手を洗うことによってはもたらされません。心の内側を洗わなければならないのです。

パリサイ人たち宗教的指導者は、表面的には宗教的で、敬虔で、立派に見えます。しかし、その内面は汚れたままでした。ですから、自分のためだけに財産を使いながら、表面的には「両親を敬え」という律法には違反していないという体裁を整えるために、コルバン規定のような抜け道を作ったのです。

では、ここから、今の時代を生きる日本人である私たちは、何を学ぶことができるでしょうか。

2.本当の汚れからのきよめ

モーセの律法と私たち

まず押さえておかなければならないのは、もともとモーセの律法はユダヤ人にのみ与えられたものであって、異邦人に与えられたものではないということです。そして、イエスさまが十字架にかかって復活して私たちの罪の赦しを完成されたとき、すなわち完全な犠牲としてご自分の血をささげてくださったときに、モーセの律法は完了して、役割を終えました。

「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました」(エペソ2:14-15)。
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ10:4 新改訳第三版)。


ですから、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、今はもうモーセの律法に従う必要はありません。代わりに与えられているのが「キリストの律法」です(第1コリント9:21)。具体的には、使徒たちが書簡の中で教えていること、そして福音書の中でイエスさまが教会時代の信徒たちに向けて教えておられることです。
※イエスさまの場合、まだモーセの律法が有効だった時代のユダヤ人に向けて語られていることも多いので、それを今の私たちが文字通り守るべきかどうかは、文脈をよく見て判断しなければなりません。

キリストの律法でも、19節に挙げられているようなことは避けるべき悪いことです。

心を見張る

イエスさまは、人の口から出るものが人を汚し、口から出るものは心の中から出てくるとおっしゃいました。問題は、私たちの心の中にあるものだということです。

表面的な行動も大事ですが、それ以上に大事なのはその行動を生み出す動機、心の中にあるものです。実際、イエスさまも動機を重視なさいました。たとえば、貧しい人に施しをすることは良いことですが、その人に対するあわれみの心からではなく、自分が目立ってほめられたいという思いからするのであれば、そんな行為を神さまは評価なさらないとおっしゃいました(6:1-4)。

私たちは、いつも「なぜ今これを自分はしようとしているのか」ということを自問し続ける必要がありますね。もしも動機が正しくないなら、正しい動機で行なうよう、心を入れ替えましょう。

といっても、バランスが大事です。いくら動機が正しくても、方法がキリストの律法に反する間違ったものではいけません。たとえば、アメリカでは、胎児の命を中絶から守るために、産婦人科の病院に放火したり医師を殺したりしたクリスチャンがいたそうです。殺人をさせないために殺人を犯すなんてナンセンスですね。

また、いくら子どものことを愛していて、苦労させたくない、失敗させたくないと思っても、親がいつも転ばぬ先の杖をついてやり、自分で考えさせたり、自分で行動させたり、失敗した尻拭いを自分でさせたりしなければ、その子を自立した大人に育てることはできないでしょう。それでは「愛情たっぷりの動機で、愛に反する行為をする」ことになってしまいます。

心の中と表の行動、どちらにも気を配ることが大切です。もちろん、判断材料は、聖書です。

きよめられる方法

罪の汚れからきよめられ、神さまとの祝福に満ちた交わりを回復するための方法は、人間が考え出した方法ではなく、神さまがお決めになった方法でなければならないと申し上げました。

モーセの律法が有効だった時代には、定められた犠牲をささげ、きよめの儀式を行なうことによってきよめられました。そして、今の時代に定められたきよめの方法は、第1ヨハネ1:9です。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」。

なぜなら、すでにイエスさまが十字架にかかって復活し、罪の赦しが完了しているからです。神さまの側では、いつでも私たちとの愛の関係を望んでおられ、手を差し伸べてくださっているということです。罪とは、私たちの側が神さまに背を向けることですから、私たちが罪の状態にあったということを認めて、神さまの方に向き直るだけで、いつでも関係は回復するのです。

自分の動機や行動の間違いに気づかされたとき、すなわち罪を自覚したとき、私たちがすべきことは、これ以外に必要なものはありません。一定期間謹慎したり、自分の体を痛めつけたり、食事やお菓子や楽しいことを我慢したりするのは、一見敬虔に見えるかもしれませんが、必要ありません。むしろ、人間的な努力によって罪を消すことができるという、間違った考えに基づく方法です。

もちろん、他の人を傷つけたり損害を与えたりした場合には、その人に謝罪をしたり、損倍を賠償したりしなければなりません。ただし、そうすることで余計に相手を傷つける場合には、謝罪してすっきりしたくても我慢する必要があります。

Aさんが、同じ教会のBさんのことをどうしても好きになれないでいました。あるとき、それをBさんに直接謝りました。しかし、自分が嫌われているなんて夢にも思わなかったBさんは、かえって嫌な思いをしました。

謝罪はあくまでも相手のために行なうものであって、こちらの自己満足のために行なうものではありません。

神さまとの関係回復に限って言えば、罪を告白するだけで十分であり、それ以上は必要ありません。どんなに「こんなことくらいで、罪が赦されたり、神さまに祝福されるようになったりするはずがない」と感じても、それでも罪を告白するだけで、神さまとの温かい愛の関係が回復します。

そして、私たちが神さまと良好な関係にあるということを確認できたなら、私たちは喜びや希望に満ち、心が自由になり、どんな状況にあっても大丈夫だと思えるようになります。

この話をお読みください

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」(第1ヨハネ3:21-22)。

まとめ

私たちは、聖書に記されたキリストの律法を学び、それを動機の面でも実際の行動の面でも守るよう努めましょう。その点で失敗したときには、躊躇しないですぐに神さまに告白して、関係が回復していることを確認しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 1週間の行動を振り返ってみましょう。実際の行動と動機と、両方が大切だということを学びましたが、この点で間違いがあったと気づいたことがありますか?
  • 罪だと気づいていながら、告白してこなかったことがありますか?
  • 告白だけでは神さまとの関係が回復している感じがしないで、それ以外のことをしなければと思ったことがありませんか?
  • 神さまに罪を告白したことで、勇気づけられたり、自由を感じたりした経験がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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