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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

平安

御霊の実シリーズ3

ヨハネによる福音書20章19節〜23節

(2021年5月23日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

19節の「その日」とは、イエスさまが復活した日。「週の初めの日」は日曜日のこと(ユダヤの暦では日没で日が変わりましたから、正確には土曜日の日没から日曜日の日没まで)。イエスさまが復活したのは朝ですが、もう夕方になっています。

19節の「ユダヤ人」は、この場合指導者たちやそれに従う民衆のこと。弟子たちもユダヤ人です。

20節の「手」には、十字架に釘付けされた際の傷痕、「脇腹」にはイエスさまが亡くなった後、本当に死んだかどうか確認するためにローマ兵が槍で突いた傷痕がありました。復活の体は本来傷もシミもない完全なものですが、イエスさまの場合には弟子たちがイエスさまだと認識できるようあえて傷痕を残していたのです。

22節の「息」は、ヘブル語でもギリシア語でも「霊」と同じ言葉です。

イントロダクション

現在、「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)に登場する9つの良い性質について、1つ1つ解説しています。今回は、3番目の「平安」についてです。

新改訳が「平安」と訳している箇所を、口語訳や新共同訳は「平和」と訳しています。。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、この箇所のエレーネーという言葉は、その両方の意味を持っています。

平安というと、ニュアンスとしては人の内側に生まれるものであり、平和は人間同士や国同士など、人の周りに生まれるものです

これから、心の状態を表す平安と、関係の状態を表す平和についてそれぞれ見ていきます。御霊の実を結ばせてくださる聖霊なる神さまは、私たちにどのような平安や平和を与えてくださるのでしょうか。

1.平安

平安があなたがたにあるように

今日皆さんと一緒に交読した聖書箇所は、イエスさまが復活なさって弟子たちの隠れ家に現れ、弟子たちに向かって「平安があなたがたにあるように」と声をかけられたという場面です。この言葉は、ユダヤ人の普通のあいさつの言葉です。

ただ、これが単なるあいさつではないことが分かる理由は、第1にイエスさまが弟子たちに2度この言葉を語っておられることです。これが単なる「こんばんは」というあいさつなら、しばらく弟子たちと話をして時間を過ごした後に、また「こんばんは」と声をかけたことになります。それはおかしなことですね? 

第2に、イエスさまは、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃっています。実際、この後50日目に聖霊なる神さまが天から下ってこられ、弟子たち一人ひとりを満たしてくださいます。その聖霊なる神さまが御霊の実である平安を与えてくださると、ガラテヤ書5章は教えています。

ですからこの「平安があるように」という言葉は、単なるあいさつではなく、文字通りイエスさまが平安を弟子たちに与えてくださるということを表していると考えた方がいいでしょう。

十字架後の弟子たちの精神状態

この時の弟子たちの精神状態はどうだったでしょうか。イエスさまこそ、神さまが遣わすと約束されてきた救い主、イスラエルの敵を滅ぼして理想的な神の国を作り上げると預言されてきた救い主だと彼らは信じていました。そして、仕事も故郷も捨ててイエスさまに付き従ってきました。ところが、そのイエスさまがイスラエルの指導者たちによって捕らえられ、さらに外国人であるローマ人たちによって十字架につけられて殺されてしまったのです。これまでの苦労は何だったのでしょうか。大変な無力感が彼らの心を捉えていたことでしょう。

もちろん彼らはイエスさまの人柄の敬愛していました。そのイエスさまが殺されてしまったのですから、深い悲しみの中にありました。また、自分たちもイエスさまの弟子だということで捕らえられ、殺されてしまうかも知れないという恐れもありました。そして、この先何を目当てに生きていったらいいのかという絶望感にも捕らえられていたことでしょう。

そして、彼らはみんな「たとえ他の弟子があなたを見捨てても、決してあなたを見捨てません」と語っていました。ペテロだけでなく、すべての弟子がそう約束していたのです。ところが、実際にイエスさまが逮捕されると、みんな我先に逃げ出してしまいました。そんな自分自身に対する罪責感もあったことでしょう。

旧約聖書で平安や平和を表すシャロームという言葉は、元々は欠けがない完全な状態を指す言葉です。精神的にも、人間同士や国同士の関係においても、健康の面でも、経済的な面でも、充実して満足すべき状態にあることを意味します。弟子たちは、シャロームをすっかり失ってしまっていたのです。

神が与える平安

しかし、イエスさまは弟子たちに平安が与えられるように取り計らってくださいました。
  • ご自分が復活して生きておられることを弟子たちに示し、悲しみを喜びに変えてくださいました。20節にも「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれています。
  • ご自分を見捨てて逃げた弟子たちを呪うのではなく、慈しみに満ちた態度で接してくださることによって、彼らの罪責感を取り除いてくださいました。
  • 出かけていって世界中に福音を宣べ伝えてイエスさまの新たな弟子を増やしていくよう命じ、弟子たちに新しい人生の目的と希望を与えてくださいました。
  • ペンテコステの日に聖霊さまが降ってこられ、弟子たち一人ひとりが満たされたとき、聖霊の実である平安が与えられた弟子たちは、迫害を恐れることなく人前で福音を語り始めました。
  • 多くの弟子が迫害のために命を落とすことになりますが、その直前でも、弟子たちは自分を迫害する者たちに怒りを覚えて呪うのではなく、彼らを赦すどころか祝福することさえできました。
イエスさまが弟子たちの元に送ってくださった聖霊なる神さまは、確かに平安、エレーネー、シャロームを与えてくださったのです。

同じ聖霊さまが、イエスさまを救い主として信じた私たちの内にも住んでいてくださいます。そして、聖霊さまは私たちにも平安の実を結ばせてくださいます。

平安を失って当然の状況、すなわち恐れたり、慌てふためいたり、悲しみに沈んだり、怒りに我を忘れたりしてもしょうがない状況の中で、私たちは恐れを取り除かれ、どんと構えることができ、喜びを覚え、怒りを手放すことができます。
不思議な平安
クリスチャンであるAさんは、いつも緊張して生きておられました。そのせいか夜中によく金縛りに遭いました。体がこわばり、息もあまりできなくなってとても苦しい思いをなさったそうです。そのたびに、心の中で「イエスさま、助けて!」とか「イエスさまの名によって、サタンよ出て行け!」とか叫ぶのですが、全く効果がありません。

ある日の礼拝メッセージは、祈りがテーマで、「さらに熱心に祈りましょうと」いう勧めが牧師からなされました。礼拝式が終わったあと、Aさんは隣の席にいたBさんにぽつりと愚痴をこぼしました。祈ってもなかなか問題が解決しないじゃないかと。

こういう「信じられない」「言われたとおりやってみたけど、うまくいかない」「やりたくない」というような否定的な感想も、私たちの教会では歓迎します。そして、教会の交わりは、こんな時こそ必要なのです。

一人で信仰生活を送ることができるくらいなら、別に教会は必要ありません。インターネットが発達している現代ですから、ネットにアップされている有名な牧師のメッセージを聞いて、一人で礼拝したらいいでしょう。しかし、いくら聖書を学んでも、分からない、できない、うまくいかない、やりたくない……だからこそ、私たちは教会として集まり、一緒に祈ります。一緒に考えます。そして、支え合います。

Bさんとの話し合いの中で、Aさんはこんな結論に達しました。ことが起こってからあわてて叫ぶのもいいけれど、布団に入る前に「神さま、私に平安が与えてください。そして、ゆっくりと眠ることができますように、守ってください」と祈っておいてから寝るようにしたらどうか……。Bさんも1週間毎日最低1回、Aさんの金縛りのいやしのために祈ることを約束してくださいました。

そして翌週、BさんがAさんの様子を尋ねると、この1週間は、毎晩安心して眠ることができて、途中で起きるどころか眠りすぎるくらいゆっくり眠れた。そして、日中もリラックスした状態で過ごすことができているとおっしゃったそうです。

私たちも神さまから来る不思議な平安を期待しましょう。ますますそのような平安の実が私たちの内側で成熟するよう神さまに祈りましょう。

2.平和

愛に満ちた良好な関係

聖書が教える平和とは、人同士や国同士が単にケンカや戦争をしていない状態のことではありません。より積極的な友好関係にあることを指します。

イエスさまも使徒たちも、あなたの敵を赦しなさいと教えていますが、それだけでなく敵のために祝福を祈り、実際に良いことをしてやりなさいとも語っています。言葉で語っただけでなく、イエスさまも使徒たちもそれを実際に行動に表しました。
ミリエル神父
小説「レ・ミゼラブル」に登場するミリエル神父は、実在の神父をモデルにして描かれていると言われています。一文無しのジャン・バルジャンが一夜の宿を貸してくれるよう願うと、ミリエル神父はまるで昔からの裕二が訪ねてきたかのように喜んで迎え入れてくれました。神父は給料の10分の9を貧しい人々に寄付してしまうため、ほとんど財産を持っていませんでしたが、唯一持っていた銀の食器でジャンに温かい食事を提供してくれました。

ところが、牢獄で長く暮らして心がすさんでいたジャンは、恩知らずにも銀の食器を盗んで逃げてしまいます。途中で警官に捕まったジャンは、この食器は神父にもらったものだと主張します。真偽を確かめるため警官がジャンを教会に引っ張ってくると、ミリエル神父はジャンに言いました。「あなたには銀の燭台もあげたはずなのに、どうして持って行かなかったのですか?」 そこでジャンは無罪放免となりました。神父は食器だけでなく本当に2本の燭台までジャンに手渡すと、「この食器を使って正しい人になりなさい」と諭して彼を送り出します。

お金がなかったジャンは、生活のために食器は売ってしまいましたが、燭台は生涯手元に置いて、自分の心の支えとしました。その後の彼は、紆余曲折ありながらも、神父が自分に態度で教えてくれた正しい生き方、すなわち赦しと愛を実践する人生を送ろうとし続けました。そして、18年後にジャンが亡くなる直前、お手伝いさんが「神父さんをお呼びしましょうか?」尋ねると、ジャンは「いや、ここに私の神父がいる」と、暖炉の上の燭台を指さしました。

内面の平安から生まれる赦しと愛

さて、今回の箇所に「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」(23節)と書かれていますね。それくらい、人を赦すという行為は私たちにとって大切な責任だということです。私たちは、人を赦し、赦すどころか大切にすることが求められています。

神さまはできないことをしろとおっしゃる意地悪な方ではありません。赦し愛するよう求められているということは、私たちには赦す力、愛する力が神さまから与えられるのです。

「金持ちケンカせず」ということわざがあります。この場合の金持ちとは、心に余裕がある人という意味でしょう。逆に、心に余裕がない人は、他の人に対してギスギスした態度を取ってしまいます。

聖書が教える平和、イエスさまや使徒たち、そしてミリエル神父が実践した平和、すなわち赦しや愛の実践は、私たちの内側に神さまが与えてくださる平安によってもたらされます。心に喜びや余裕や大丈夫感覚があってはじめて、私たちは自分に良くないことをする人を赦すことも、その人を積極的に大切にすることもできます。

平和を作る

さらに神さまは、私たちクリスチャンが自分と他の人との間に平和な関係を築くだけでなく、争いのあるところに平和を作り上げる働きをすることも期待しておられます。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)。

争っている人たちの間を仲介して平和を実現するには、私たち自身が内面の平安を充分に味わい、また外面の平和、すなわち赦しと愛を実践している必要があります。そうでなければ、私たちの仲介の言葉を誰が聞いてくれるでしょうか。

あるお父さんが教育講演会に出席しました。そして、子どもが成長して大人になってからも生き生きとした人生を歩むためには、小さいうちから自己肯定感を充分育てることが大切だということ、そのためには肯定的な態度や言葉で育てることが大切で、暴力や人格を否定するような暴言は厳に慎まなければならないというような話を聞いて、感激しました。

家に帰ると、息子2人がケンカをしています。そして、お兄ちゃんが弟を「お前はバカだ!」と罵っていました。頭にきたお父さんは、お兄ちゃんに向かって怒鳴りました。「バカなんて言ったら、こいつがひねくれて育っちまうじゃねぇか、このバカ!」 そして、お兄ちゃんの頭にゲンコツを落としましたとさ。

神さまが、私たちの内面に聖書が教えているような豊かな平安を与えてくださいますように、そしてそれによって赦しや愛があふれ出て周りの人たちを潤すようになりますように。そのようにこれからも祈り続けていきましょう。

3.神との平和

神との和解

聖書は、私たちの内面の平安、そして人間同士の間の平和の他に、もう一つの平安・平和について教えています。それは、私たちと神さまとの間の平和です。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5:1)。

この言葉の大前提は、元々神さまと人間の間に敵対関係があったということです。それは、人間が罪人だからです。罪は世界を支配なさる神さまの存在を認めず、神さまに従おうとせず、自分の思うとおりに生きていこうとする態度です。たとえ神さまの存在を認めたとしても、あくまでも私たちの願いをかなえる「打ち出の小槌」としての存在であって、私たちが神さまのしもべだということは認めたくありません。

罪は正義の神さまの怒りを引き起こし、恐ろしい永遠の苦しみという滅びの罰を招きます。

しかし、イエスさまが私たちの身代わりとなってくださいました。すなわち、本来さばきを受けるべき私たちの代わりに神さまの罰を受けるため、十字架にかかって血を流し死んで葬られました。ですから、私たちに与えられるはずの罰はもう完了して終わりました。私たちは完全に赦されて、神さまとの敵対関係が終わったのです。

また、イエスさまは私たちの代わりに新しいいのちに復活なさいました。ですから、私たちは神さまの子どもとして新しく生まれ変わりました。私たちは神さまに赦されているだけでなく、子どもとして愛され、大切にされ、この先永遠に祝福され続けます。

こうして、私たちと神さまは和解して、新しい平和な関係に入りました。

和解の務め

神さまと和解して平和な関係を得た私たちには、イエスさまによって神さまと和解できるというメッセージを他の人に伝える努めが与えられています。

「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい」(第2コリント5:18-20)。

でも、和解の務めって、一体何をすればいいのでしょうか。最も基本的な方法は、自分がどのようにイエスさまを信じたのか、そしてその結果どのように人生が変わったか、あるいは変わりつつあるかを他の人に語ることです。いわゆる「証し」です。

あなたはどのようにイエスさまと出会い、イエスさまの十字架と復活を信じるようになりましたか? そして、その結果どんなふうに人生が変えられていますか?

神さまの平安・平和が、私たちの教会を通して、私たちの家庭に、職場に、地域に、福島に、東北に、日本に、そして世界中に広がりますように。

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまを信じるようになって、どのような内面の平安を体験するようになりましたか? 最近の実例を挙げましょう。
  • 神さまを信じるようになって、どのように他の人との関係が改善しましたか? 最近の実例を挙げましょう。
  • 神さまを信じるようになって、他の人同士の関係改善のために役立つことができたことがありますか?
  • あなたはどのようにしてイエスさまと出会い、イエスさまの十字架と復活を信じるようになりましたか?
  • そして、その後どのように人生が変えられ、また変えられつつありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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