(2022年2月9日)
マルタはベタニア村に住んでいた働き者の女性で、きょうだいと共にイエス・キリストと親しくしていました。ここではマルタの信仰がどのように成長したかを見ていきます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
17節の「四日」について。この当時のユダヤ教の教師は、人が死ぬとその魂は3日間は遺体のそばを漂っており、まれに肉体に戻ってきて蘇生すると教えていました。死んで4日たったということは、ユダヤ教の教えによればもう蘇生の可能性は無いということです。
18節の「十五スタディオン」は約3km。
イントロダクション
今日はベタニア村に住んでいたマルタという女性を取り上げます。この女性は新約聖書の3箇所に登場します。それを順に見ていくことで、マルタの信仰の成長の過程を見ると共に、私たちがどのようにしてイエスさまに信仰を成長させていただくのかを教えていただきましょう。
1.いらだち
妹への怒り
最初にマルタが登場するのは、ルカ10:38-42です。
エルサレムの東約3キロほどの所に、ベタニアという村があります。そこにマルタは住んでいました。マルタにはマリアという姉妹とラザロという兄弟がいました。この頃イエスさまはエルサレムを中心としてユダヤ地方で活動しておられました。そして、ベタニア村にも訪問なさいました。そして、マルタたちの家に招かれます。おそらく、これまでもよく彼らの家で食事をしたり泊まったりしていたのでしょう。
マルタはイエスさまや弟子たちをもてなすために、部屋の準備や食事の準備などを始めます。そして、忙しく立ち働きました。ところが、妹のマリアはちゃっかりイエスさまの足下に座り込んで、イエスさまの話に耳を傾けているではありませんか。マルタはそんなマリアの態度に怒りを覚えました。
逆効果の行動
そしてイエスさまに向かって愚痴をこぼしました。
「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」(ルカ10:40)。
他の人の家を訪問したとき、そこで家族喧嘩が始まると、非常に居心地が悪くなりますね。マルタはイエスさまを歓迎したかったのに、かえってイエスさまの居心地を悪くするような行動を取ってしまいました。
イエスの対応
イエスさまはマルタの不機嫌に対して不機嫌に応じるのではなく、「マルタ、マルタ」と優しく声をかけました。それから優しく諭されます。
「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(ルカ10:41-42)。
これを別の言葉で言えば、「私が一番に望んでいることは、あなたもマリアのようにここに来て、一緒に私の話を聴いてくれることだよ」ということです。
イエスさまは、食事の準備や寝床の準備なんか不用だとおっしゃっているわけではないし、それらを一生懸命準備していたマルタの働きを無視しておられるわけでもありません。ただ、忙しさのあまり心の余裕を失っていたマルタに、平安と喜びを与えたいと願われました。そのために、イエスさまはご自分の話をマルタに聴いて欲しいと願われたのです。
イエスさまと天の父なる神さまと聖霊さまが、どれほどマルタたちのことを大切に思っているか。そして、大切なマルタたちのためにどれほどの素晴らしい計画を立てておられるか。そして、マルタたちを愛し、その祝福の計画を立てて実行する神さまが、どれほど素晴らしい存在なのかということを、イエスさまは語っておられたからです。
イエスさまの言葉を聞いて、マルタがどう反応したのかについては聖書に書かれていません。しかし、私はマルタがもてなしの準備を置いて、マリアと肩を並べてイエスさまの話に耳を傾けたに違いないと考えています。それは、その後しばらくして、マルタはとても信仰深い発言をすることになるからです。それについては後ほど第2のポイントで触れます。
静まって聞こう
マルタは、最初の動機はイエスさまをもてなそうという良い動機でもてなしを始めましたが、忙しさのあまりイライラしてマリア、さらにはイエスさまに対してもとげとげしい態度を取ってしまいました。
考えてみれば、夫婦喧嘩を始めとする他の人との喧嘩の最たる原因は、「私の方があなたより苦労している(でもあなたは私のがんばりのおかげで苦労していない)」「私はあなたの理不尽な態度にずっと我慢している(でもあなたは私のがんばりのおかげで我慢しなくて済んでいる)」という一種の競争心ではないでしょうか。
何てかわいそうな私症候群
さらにその背後には、「私の方が我慢している」「私の方ががんばっている」「私ばかりが損をしている」「ああ、何てかわいそうな私!」という被害者意識があります。これを私は「何てかわいそうな私症候群」と呼んでいます……というか、今呼ぶことに決めました(笑)
この「何てかわいそうな私症候群」が発動すると、マルタと同じように、私たちは他の人たちと平和で建設的な関係を築きにくくなってしまいます。
そんなマルタにイエスさまは優しく声をかけ、イエスさまの話に耳を傾けるよう促されました。それによりマルタは神さまの愛と守りの中に自分がいることを再確認しました。
私たちもまた、他の人と平和で建設的な関係を築くために、聖書を読み、神さまの語りかけを聞く祈りを捧げ、神さまの愛と守りを再確認しましょう。そして、それによって平安と喜びを手に入れ、心に余裕を持ちましょう。
2.不完全ながらも信仰告白
マルタの信仰告白その1
次にマルタが登場するのはヨハネ11章です。ここでマルタにとって大変なことが起こりました。それは、兄弟であるラザロが病気になって死にかけていたのです。
このときイエスさまは、ヨルダン川の東側の地域に渡ってそこに滞在しておられました。そこで、マルタと妹のマリアは、イエスさまに使いを送って、ラザロが死にかけていることを伝えました。もちろん、イエスさまにいやしていただきたかったからです。
しかし、マルタたちはイエスさまに対してあれこれ細かいお願いはしていません。ただ「あなたが愛しておられる者が病気です」(ヨハネ11:3)とだけ伝えました。それだけ伝えれば、きっとイエスさまが良いようにしてくださると信じていたからです。
イエスさまがラザロや自分たち姉妹のことを大切に思ってくださっているということを、彼らが深く信頼していたことが分かりますね。
イエスの遅刻
使いから事の次第を聞いたイエスさまですが、なんとすぐには出発なさいませんでした。これはわざとです。このあと死者の蘇生というとんでもない奇跡を行なうためでした。そして、イエスさまが滞在地を離れたのは、連絡をもらって2日後でした。そしてようやくベタニア村に着いたときには、すでにラザロは亡くなっており、死後4日がたっていました。
イエスさまが到着なさったと聞いたマルタは、すぐにイエスさまを迎えに出ていきました。家はラザロの死を悼む人たちでごった返していたでしょうから、イエスさまと個人的に話をするためです。
しかし
そしてイエスさまを見つけると、マルタは言いました。
「マルタはイエスに言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています』」(ヨハネ11:21-22)。
前半だけ見ると、イエスさまの到着が遅れたことに対して恨み言を言っているように聞こえます。自分の思い通りのことが起こらないと、この世に神などいるものかと思ってしまいがちです。それでもマルタは「しかし」と言います。それでもマルタはイエスさまに対する信仰も愛も失っていません。
マルタはあのローマの百人隊長のように、遠く離れていても言葉一つでいやしを行なうことができるという信仰は持っていませんでした。それでもイエスさまが神さまから遣わされた特別な存在だということを、マルタは信じ続けていました。
マルタの信仰告白その2
そんなマルタにイエスさまはおっしゃいました。
「あなたの兄弟はよみがえります」(ヨハネ11:23)。
これに対してマルタは答えます。
「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています」(ヨハネ11:24)。旧約聖書は、人が死んでも世の終わりには復活すると教えています。ですからマルタもこのように答えました。
もちろんそれは間違いではありません。しかし、イエスさまがおっしゃっているのは、今のこの時代、この後すぐにラザロがよみがえるということです。マルタは自分が現在理解し、信じている精一杯を口にしました。イエスさまはその不十分さを責めることをなさいませんでした。
よみがえりです。いのちです。
続けてイエスさまはマルタに語りました。
「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか』」(ヨハネ11:25-26)。
ユダヤの文化で、死という言葉は分離するという意味があります。肉体から魂が離れると人の肉体が死にます。そして、魂が神さまから離れると人は霊的に死にます。霊的な死というのは、祝福の源である神さまと切り離されるということです。
イエスさまは「わたしを信じる者は死んでも生きる」とおっしゃいました。それは、イエスさまを信じるならば神さまとの関係が回復して親子となり、霊的に生まれ変わり、さらに将来世の終わりには、新しい栄光の体が与えられて復活するからです。
またイエスさまは「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがない」とおっしゃいました。これは肉体的に死なないと言うことではなく、霊的に死なないということです。一旦イエスさまを信じて救われたならば、その後決して救いを取り消されて、神さまから見捨てられ、永遠のさばきを受けるなどということがありません。
そして、これらのことが口先だけの約束では無く確かな約束だということを証明するため、これからイエスさまはラザロをよみがえらせようとしています。それによってイエスさまは霊的な死にも肉体の死にも打ち勝つお方だということを示そうとしておられます。
不十分な信仰告白
この素晴らしい宣言が語られ、「あなたはこのことを信じますか」と尋ねられたマルタは、次のように答えました。
「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」(ヨハネ11:27)。
ほとんどのユダヤ人がイエスさまを救い主キリストだと信じなかったのに、マルタのこの信仰告白はとても素晴らしいものです。ただし、この直後にラザロをよみがえらせることができるという意味で、そう信じ告白したわけではありません。
それが明らかになるのは、イエスさまがラザロの墓の前に立ち、墓穴を塞いでいた石を取りのけるよう命じたときです。マルタは
「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから」(ヨハネ11:36)と言って止めようとしました。
暑い地方ですから、死後4日もたてばかなり腐敗も進んでいるはずです。イエスさまに不快な思いをさせたくないというだけでなく、自分も愛する兄弟の変わり果てた姿を見たくないという思いもあったかもしれません。
するとイエスさまはマルタに言いました。
「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか」(ヨハネ11:40)。
イエスさまがマルタにこのように教えている箇所はありません。かつてイエスさまが彼女に語られた言葉なのでしょう。以前のマルタは忙しく働くことにばかり気を使っていましたが、イエスさまの勧めによってマリアと同じようにイエスさまの教えに耳を傾けるようになっていたのでしょう。
そしてイエスさまは、ご自分が語ったとおり、ラザロを墓の中から呼び出されました。死んで腐敗していたはずのラザロは元通りの体でよみがえりました。どんなにかマルタもマリアも驚き、また喜び感謝したことでしょうか。
不十分でも今信じていることを告白しよう
マルタはイエスさまの力強さをすべて把握しているわけではありませんでしたし、神さまのご計画の全体像が見えていたわけでもありません。しかし、彼女が理解していたところに従って、イエスさまに自分が信じていることを告白しました。
イエスさまは、そんなマルタの不十分な理解や信仰を責めたりしませんでした。むしろ彼女の信仰告白を喜び、ていねいに彼女と語り合いながら理解と信仰を引き上げようとなさいました。
私たちもイエスさまの素晴らしさをすべて知っているわけではありません。神さまのご計画のすべてを見通しているわけでもありません。しかし、今の自分が信じていることを口に出して告白することはとても大切です。それにより、イエスさまが私たちをさらに教え導き、信仰を引き上げてくださいます。
3.喜びの奉仕
十字架の6日前
ラザロがよみがえって数ヶ月がたちました。いよいよイエスさまが十字架にかかるためにエルサレムに入るときが近づきました。イエスさまが十字架にかけられたのは紀元30年の春であると考えられます。ユダヤの祭りの1つである過越の祭りの日でした。この年の過越は金曜日です。
その6日前、すなわち1週間前の金曜日、イエスさまはエルサレムに入る前にベタニア村を訪問し、マルタたちの家に宿泊なさいました。その時の様子が、ヨハネ12章に書かれています。
「さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた」(ヨハネ12:1-2)。
え? またマルタは忙しく働いていたの? 前にイエスさまに教えられたことはどうなったの? 元の木阿弥?
マルタの変化
いいえ。以前マリアにイライラしていた頃のマルタとはまったく精神状態が違います。かつては余裕を無くし、自分だけが苦労をしている、損をしているという被害者意識にさいなまれていました。しかし今のマルタは、喜びに満たされていました。
これまでもイエスさまは素晴らしいお方だということを知っていましたし、旧約聖書が登場を約束してきた救い主だということも信じていました。しかし、自分が信じていたよりもはるかにはるかにこのお方は偉大であり、死んだ人間を今すぐよみがえらせることさえできるのです。しかも、そのよみがえらせていただいたのは、自分の大切な兄弟です。
マルタは大変な感動と感謝と喜びに満たされ、喜んで給仕をしていました。他の人のために裏方の働きを進んで行なうのは、マルタの持ち味でした。それまではその持ち味を実践するのが必ずしも喜びでは無く、時に不平不満に繋がっていました。しかし、イエスさまとの交流により、マルタは自分の持ち味を喜んで使うことができるようになりました。
イエスさまに聞いて引き上げられよう
イエスさまの話にじっと耳を傾けることを学んだマルタは、イエスさまの言葉によってその信仰が引き上げられ、喜びと感謝に満たされて他の人に仕えることができるようになりました。
増田の悔い改め
私自身の体験を告白しましょう。
かつて私は、家族がうつ病の患者さんにどのように対応するかを解説した本を出版しました。そして、買ってくださった方々を、メールやインターネット上に開設した自助グループサイトなどでサポートさせていただいていました。
私は、その読者の一人の方に、あることを気づいてもらおうとして、一生懸命にメールを送っていました。ところが、その方は、なかなか理解してくれず、同じような問題を繰り返し起こしてしまうのです。そして、あるとき、その方に対して、私自身がイライラしていることに気づきました。
私も、これまで何度も同じような体験を繰り返してきましたから、すぐに気づきました。これは、私が、自分が仕事の成果によって自分の価値を証明しようとしているんだということです。
私の関わりによって問題が見事に解決し、「さすが増田はすばらしいカウンセラーだ」と言ってもらいたい。そういう願いが私の中にあったということですね。ところが、私の願い通りに、問題が解決していかない。そこで、なかなか私の提案を受け入れて変わってくれないその人に対して、私は怒りを覚えたのです。
「いかん、いかん」。さっそく、聖書に書かれている神さまの約束に立ち返ることにしました。
聖書は、神さまが私を、行ないによらず、今あるがままの姿で愛し、受け入れてくださっていると約束しています。私は、神さまにとって、このままで大切な宝物なのです。ですから、すごいことをやって、自分がすごい人間なんだということを、わざわざ証明する必要はないはずです。
そこで、私は肩から力を抜くことができました。そして、その方に何が何でも分かってもらおう、変わってもらおうと無理強いすることをやめました。すると不思議なもので、しばらくたった後、ご自分で気づかれて、行動が変わりました。
マルタのように
私たちもマルタのように、イエスさまの愛のみことばに耳を傾けましょう。聖書に親しみ、お願いの祈りはもちろん大事にしながら、じっと神さまの語りかけを待つ傾聴の祈りにも時間をかけましょう。
そして、今自分が神さまや神さまのご計画について知っていることを、積極的に口に出して告白しましょう。
そうするなら、神さまは私たちに新しい真理を示してくださり、それによって私たちを慰め励ましてくださり、その信仰を引き上げてくださいます。
あなた自身への適用ガイド
- 最近他の人にイライラしましたか? それはどんな状況でしたか?
- そのイライラの背後に、「何てかわいそうな私症候群」が隠れていませんでしたか?
- そんなあなたに対して、イエスさまはどんな慰めや励ましを与えておられると思いますか?
- 最近あなたが新たに気づいたイエスさまの素晴らしさは何ですか?
- 以前と比べて他の人との関係がよくなったと感じる部分がありますか? どのようにしてその変化がもたらされたと思いますか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?