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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

帰ってきたサマリア人

助演男優シリーズ22

ルカによる福音書17章11節〜19節

(2022年8月7日)

ツァラアトという難病をいやされたサマリア人についてお話しします。イエス・キリストは10人いやしましたが、感謝するために戻ってきたのはこのサマリア人だけでした。

礼拝メッセージ音声

参考資料

12節の「ツァラアト」(ギリシア語でレプラ)は、モーセの律法でも取り上げられている特別な皮膚病。なお、以前はらい病(すなわちハンセン氏病)と混同されていましたが、今は違う病気だと判明しています。家の壁や布・革製品などにもツァラアトが発生しますが、そちらはカビの一種でしょう。

16節の「サマリア人」は、イスラエル北部のガリラヤ地方と南部のユダヤ地方に挟まれたサマリア地方に住んでいた民族。昔イスラエルは北王国と南王国に分れていました。そして、北王国は紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされます。アッシリアは北王国の指導者たちや有能な若者たちを自国に連れ去ると共に(アッシリア捕囚)、他の民族を北王国があった土地に強制移住させました。彼らが残された北王国民と雑婚して誕生したのがサマリア人です。その後の歴史的な経緯から、基本的にユダヤ人とサマリア人は仲が良くありませんでした。
19節の「救った」はギリシア語の「ソーゾー」で、「霊的に救う」のほか、「死・危険・貧困などから守る・救い出す」、「いやす、治す」といった意味があります。

イントロダクション

今日は、ツァラアトという病気をイエスさまにいやしていただいたサマリア人が主人公です。彼はツァラアトをいやされた10人の中の1人ですが、他の9人とは違っていました。この1人のサマリア人から、祈りが聞かれることも祝福だけれど、それ以上の祝福があることを教わりましょう。

1.サマリア人のいやしと感謝

強い願い

「さて、イエスはエルサレムに向かう途中」(11節前半)。

イエスさまはエルサレムに向かっておられます。

時は紀元30年の春頃と思われます。前の年の年末に、イエスさまはエルサレムにいました。しかし、ユダヤ人たちに殺されそうになったため、ペレア地方(ヨルダン川の東側)に非難なさいました(ヨハネ10:22-42)。友人であるラザロが死んだため、彼をよみがえらせるため、エルサレムに近いベタニアに来られましたが(ヨハネ11章)、それは一時的なものであとはペレアやガリラヤで活動をされていたと思われます。

そして、春の祭りである過越の祭りが近づいてきました。すると、イエスさまはエルサレムに向かって移動を始めました。過越の祭りのときに十字架にかかるためです。イエスさまが十字架にかかり血を流されるのは、私たち人類の罪の罰を身代わりとして追い、私たちの罪が赦されるようにしてくださるためです。


「サマリアとガリラヤの境を通られた」(11節後半)。

エルサレムを中心とするのがユダヤ地方、ヨルダン川をずっと北にさかのぼってガリラヤ湖周辺がガリラヤ地方です。そして、ユダヤとガリラヤに挟まれているのがサマリア地方です。


「ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた」(12節前半)。

10人のツァラアト患者がイエスさまに近づいてきました。ツァラアトというのは、参考資料にも書いたように特別な皮膚病のことです。「特別な」というのは、モーセの律法で診断方法や、かかった場合の患者の取り扱い、治ったかどうかの判断方法について細かく取り上げられているからです。具体的にはレビ記の13章と14章に書かれています。


「彼らは遠く離れたところに立ち、声を張り上げて、『イエス様、先生、私たちをあわれんでください』と言った」(12節後半〜13節)

十人のツァラアト患者は、声が届く距離まで近づくと、そこで大声を張り上げました。「あわれんでください」というのは、自分たちをいやして欲しいということです。

彼らが遠くで叫んだのは、当時の風習から来ています。モーセの律法では、ツァラアトにかかった人は祭司から宗教的に汚れていると宣言されます。そして、患者は次のようにしなければなりませんでした。「患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる」(レビ13:45-46)。

宗教的に汚れている人に触ると、触った人も一定期間汚れてしまい、宗教行事や社会生活に制限がかかります。ですから、ツァラアトにかかって汚れていると宣言された人は、他の人に接触しないよう町の外に住んだり、人とすれ違うときには「汚れている」と叫んで注意を促したりしなければならなかったのです。

10人のツァラアト患者がイエスさまに近づかず、遠くで叫んだのはこのためです。

いやしと帰還

「イエスはこれを見て彼らに言われた。『行って、自分のからだを祭司に見せなさい』」(14節前半)。

ツァラアトにかかっているかどうか、あるいはそれが治ったかどうかを診断するのは、医者ではなく祭司の仕事でした。ですから、「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」とイエスさまがおっしゃったということは、必ず治るという宣言と同じです。

では、それを聞いた10人はどうしたでしょうか。


「すると彼らは行く途中できよめられた」(14節後半)。

10人は祭司の元に向かいました。向かい始めたときにはまだいやされていません。いやされないまま祭司のところに行っても、門前払いを食らうだけです。彼らがまだいやされていないのに出かけていったということは、必ず祭司の元に到着するまでにいやされると信じたのです。すごい信仰ですね。


「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(15節〜16節前半)

彼らが信じたとおり、祭司の元に向かう途中でいやしが起こりました。ここでは1人のことしか書かれていませんが、17節を見ると10人全員がいやされたことが分かります。10人の中の1人だけが、イエスさまの元に帰ってきました。

この人は、大声で神さまをほめたたえながら戻ってきました。そして、イエスさまの足下にひれ伏して感謝をささげました。
「彼はサマリア人であった」(16節後半)。

この人はサマリア人だったと書かれています。言外に、他の9人はユダヤ人だったことが示唆されています。当時、ユダヤ人とサマリア人は非常に仲が悪かったので、一緒に行動することはまずありません。しかし、この場所がガリラヤとサマリアの境目でしたから、ユダヤの町から追い出されたツァラアト患者と、サマリアの町から追い出されたツァラアト患者が一緒に助け合いながら暮らしていたのでしょう。

イエスの反応

「すると、イエスは言われた。『十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか」(17節)。

イエスさまは、他の9人はどこにいるのかとおっしゃいました。おそらくイエスさまがおっしゃったとおり、そのまま祭司の元に向かったのでしょう。


「この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか』」(18節)。

イエスさまは、この他国人、すなわちサマリア人だけが神をあがめるために戻ってきたと指摘なさいました。神をあがめるというのは、救い主、すなわち子なる神であるイエスさまに感謝することも含みます。

祭司にからだを見せろと命じたのはイエスさまです。ですから、9人はイエスさまの命令に背いたわけではありません。しかし、感謝しに戻ってきてくれたのがたった1人、しかも異邦人であるサマリア人だけだったということに、イエスさまは寂しさを感じておられます。

ツァラアトがいやされたかどうか祭司が判定する際、本当にツァラアトと診断されたのか過去の記録を確認し、本当にいやされているかどうか、そして再発することがないかどうか徹底的に調べるため、調査に7日間を費やしたそうです。こうしていやされていることが確かめられると、8日目にきよめの儀式が行なわれます。

ですから、祭司の元に出かけていくと、おそらく二度とイエスさまに生きて出会うチャンスは訪れないでしょう。この1人のサマリア人だけが、イエスさまと再会し、感謝の思いを直接伝えることができました。

それだけではありません。


「それからイエスはその人に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです』」(19節)

このサマリア人は、ツァラアトという、体をむしばまれるだけでなく、様々な問題で苦しめられていました。その元凶であるツァラアトがいやされたのは大きな祝福。しかし、そればかりでなくこの人はイエスさまに信仰をほめられるという栄誉まで体験することができました。

この人のことをわざわざサマリア人、他国人だと記されているのは、この人の信仰のすばらしさを際立たせるためでしょう。

サマリア人はユダヤ人と同じ神さまを信じていました。ただし、モーセ五書だけを正典として認めていて、預言書など他の書は認めていませんでした。ですから、やがて罪を解決なさる救い主が登場するということは知っていたものの、ユダヤ人が預言書などを通して持っている非常に多くの情報は持っていませんでした。

それにもかかわらずこのサマリア人は、救い主イエスさまに対する愛を、他の9人のユダヤ人以上に持っていました。まだ体験していないいやしを信じた点では、他の9人も素晴らしい信仰者です。しかし、このサマリア人は「求めていたいやしが叶えられたら、もうイエスさまには用はありません」という態度ではなく、直接イエスさまに感謝を伝えたいと強く願ったのです。

ではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスさまと人格的に交わろう

神の感情に配慮しよう

今日の箇所から学ぶ第1のことは、父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さまにも感情があるということです。
  • 約束したことを私たちが果たさなければ、神さまはガッカリなさいます。
  • 「こちらの願いを聞いてくれさえすればいい。こちらのすることに口を出すな」という態度を取れば傷つかれます。
  • 確かにイエスさまの十字架と復活を信じるだけで、あらゆる罪が赦されます。だからといって「どうせ赦されるんだから」と平気で神さまのみこころを無視して罪を犯し続ければ、神さまは深く悲しまれます。
  • それでも、神さまは私たちを深く愛してくださっており、あらゆる罪を赦してくださっているのですから、いつ神の怒りがくだるか分からないとビクビクしながら生きていると、神さまは寂しい思いをなさいます。
神さまには感情があることを覚えましょう。そして、自分の今の生き方によって、神さまにどんな感情を抱かせているだろうかということを考えながら行動しましょう。

感謝の祈りをしよう

今日の箇所から学ぶ第2のことは、お願いの祈りをするだけでなく、かなえられたときにはしっかり感謝するということです。仕事などで誰かに便宜を払ってくれるようお願いして、その願いを聞いてもらったら、当然感謝しますね。お世話になったのに感謝しないというのは、恩知らずであり相手をがっかりさせる行為です。

昔、アメリカのミシガン湖で船が沈没しました。そのとき、1人の男性が23人の大学生たちを救出します。ところがその人自身は力尽きたのか、その後の行方不明が分からなくなってしまいました。

それから数十年後、ロサンジェルスでの教会でトーレーという牧師が説教をした際、イエスさまの犠牲の死についての例話としてこの青年の話をしました。すると驚くべきことに、その集会に大学生たちを救出して死んだと思われていたあの男性が出席していたことが分かったのです。奇跡的に救出され、生き延びていたのですね。

集会後、その事実を知ったトーレー牧師は英雄に問いかけました。「あの救出劇の中で、もっとも心に残ったのは何ですか?」 すると、もう老人になっていたその男性は目を伏せ、やがて静かに口を開きました。「助けられた23人のうち、1人として『ありがとう』と言わなかったことです」。

まして、天地万物の支配者であるイエスさまが私たちの願いを聞いてくださったのだとしたら、私たちは当然感謝しなければならないはずです。感謝は、神さまのすばらしさをほめたたえるもっとも良い方法の1つです。
感謝は私たちのためでもある
そして、感謝することは当然の礼儀だからだけでなく、私たちのためでもあります。私たちは願いの祈りをささげるときには必死になるのですが、かなえられるまでに時間がかかったりすると、かなえられたということに気づかないことがあります。

そうすると、せっかく願いがかなえられたのに喜び損ねることになりますね。願いがかなったことは祝福ですが、喜び損ねるのは残念です。ですから、私たちは意識してイエスさまに感謝をささげたいと思います。

神さまとおしゃべりしよう

今日の箇所から学ぶ第3のことは、イエスさまは人格として扱ってもらいたいと思っておられるということです。イエスさまは私たちの祈りに耳を傾け、その祈りに応えてくださいます。しかし、ただ単に願いをかなえるための打ち出の小槌や自動販売機扱いされたいわけではありません。イエスさまは道具として利用されたいのではなく、人格として愛されたいと願っておられるのです。

帰ってきた1人のサマリア人のことを喜び、帰ってこなかった9人にガッカリなさったのはそのためです。

私たちの祈りが願い事ばかりになっていなかったでしょうか。第2のポイントで学んだように、神さまのすばらしさをほめたたえる祈り、特に感謝の祈りをささげましょう。それと共に、おしゃべりの祈りも意識してみましょう。

皆さんは小さいとき、お父さんやお母さんなどに、お願いだけしかしなかったということはないはずです。きっとたわいもないおしゃべりもたくさんしてこられたことでしょう。父なる神さま、イエスさま、聖霊さまは、あなたとおしゃべりをしたいと願っておられます。だって、皆さんは神さまにとって大切な息子、大切な娘なのですから。
神とのおしゃべりの例
「おはようございます。今日もよろしくお願いします。いやぁ、今日は暑いですねぇ、神さま。でもがんばって働きますよ〜」とか、「そろそろおなかがすいてきたので、あの牛丼屋に入ります」とか、「今日、友だちにちょっと嫌なことを言われちゃって、ヘコんでます〜」とか、「うわ。今度の洗剤、よく落ちますね〜」とか、「今日の夕飯、ゴーヤチャンプルーにしましょうか、それとも餃子にしましょうか、悩んでるんですよね〜」とか……。

今週もいっぱいイエスさまとおしゃべりしましょう。

まとめ

イエスさまはご自分のことを人格として扱って欲しいと願っておられます。ですから、イエスさまの感情に配慮して行動しましょう。意識してイエスさまに感謝しましょう。いつもイエスさまとおしゃべりしましょう。

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