(2023年1月8日)
ナザレはイエス・キリストの故郷ですが、ほとんどの人はイエスが救い主だとは信じませんでした。イエスは2回ナザレの人たちに拒絶されますが、ここでは最初のエピソードを取り上げます。
礼拝メッセージ音声
参考資料
マタイ13:54-58とマルコ6:1-6にも、イエスさまがナザレを訪問したのに人々がイエスさまを救い主と信じなかった記事が出てきます。ただ、こちらは2回目の訪問での別のエピソードです。
16節に「それから」とありますが、直前には次のように書かれています。
「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された」(14-15節)。そしてカナでは、30km離れたところで寝ていた王室の役人の息子をいやしました(
2023年12月17日のメッセージ)。
18-19節は、イザヤ61章1節と2節前半の引用です。
なおそれに続くイザヤ61章2節後半は
「われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために」ですが、ここや3節以降の箇所は再臨の時に実現する預言なので、イエスさまはあえて朗読しなかったと思われます。
25-26節のエピソードは、第1列王記17章に記されています。
26節の「シドン」は地中海沿岸にあった都市国家で、今のレバノン共和国第3の都市サイダ。「ツァレファテ」はシドンの少し南にあった町で、今のサラファンド。
27節のエピソードは、第2列王記5章に記されています。「ツァラアト」は、モーセの律法で特別に取り上げられている皮膚病です。以前は「らい病」と訳されていましたが、らい病すなわちハンセン氏病とは違う病気です。
イントロダクション
クリスマスと新年のメッセージを挟みましたが、またイエスさまのご生涯を時系列で追っていくシリーズに戻ります。今日は、イエスさまが故郷であるナザレに立ち寄られた箇所です。
今日はナザレの人たちを反面教師として、ぐんぐんと成長して実りある人生を送るために必要な心の姿勢について学びます。
1.イエスのナザレ訪問
ナザレの会堂での礼拝
会堂での礼拝
「それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた」(16節)。
参考資料にも書きましたが、イエスさまはカナにおいて、ヘロデ王に仕える役人の息子をいやしました。そして、ガリラヤ中にイエスさまの評判が広まっていきました。拠点はカペナウムです(マタイ4:13-16)。こうしてイエスさまは、ガリラヤ伝道の一環として、故郷であるナザレに行かれました。
安息日、すなわち土曜日になると、イエスさまは会堂に行かれました。会堂(シナゴーグ)は、13歳以上のユダヤ人男性が10人以上住んでいる場所に作られたコミュニティセンターです。そこでは、いけにえはささげませんが礼拝が行なわれたり、律法を教えたりしました。イエスさまが会堂に行かれたのは、礼拝に参加するためです。
当時、安息日に行なわれていた会堂での礼拝では、モーセ五書(トーラー)を3年サイクルで朗読していました。そして、その箇所と関連のある預言書が読まれ、その後「奨励」と呼ばれるメッセージが語られます。
朗読や奨励の担当者は、会堂司(会堂の管理者)が指名しました(使徒13:14-15参照)。ガリラヤ一帯で有名になっていたイエスさまが久しぶりにナザレに帰省してきたので、会堂司はイエスさまを指名したのでしょう。
イザヤ書の朗読
「すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。『主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために』」(17-19節)。
イエスさまが朗読したのは、イザヤ61章1節と2節の前半部分です。ここで「わたし」と言われているのは、預言者イザヤのことではなく救い主です。イザヤ61章には、救い主が来たらこういうことをしてくださるという約束が書かれています。
人々の注目
「イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた」(20節)。
会堂での礼拝では、聖書朗読の際は立って行なわれ、奨励のメッセージは座って語られました。イエスさまが座ったのは、これから奨励が語られるということです。
この当時は、ローマ帝国によってイスラエルの国が支配されていました。そこで、救い主が現れてローマ人たちを滅ぼして、イスラエルを解放してくれることをユダヤ人たちは切望していました。
イエスさまが朗読なさったのは、人々が待ち望む救い主に関する預言でした。この箇所から一体何が語られるのでしょうか。礼拝に参加している村人たちは、期待を込めてイエスさまを見つめました。
では、イエスさまが語られたメッセージの内容を見ていきましょう。
イエスのメッセージ
今日実現した
「イエスは人々に向かって話し始められた。『あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました』」(21節)。
強調されているのは「今日」です。すなわち、イエスさまはイザヤ61章で預言されている救い主はこの私であると宣言したのです。
この大胆な宣言に対して、人々はどのように反応したでしょうか。
驚きと反発
「人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、『この人はヨセフの子ではないか』と言った」(22節)。
イエスさまの宣言を聞いた人々は、まず驚きました。待ち望んできた救い主が現れて目の前にいるというわけですから。そして、そんな素晴らしい宣言をなさったイエスさまを、人々はほめました。
ただし、だからといってイエスさまのことを救い主だと信じたわけではありません。人々はすぐに我に返ります。 後半の人々のつぶやきの箇所を、リビングバイブルは次のように訳しています。
「いったいどうなっているのだ。ただのヨセフのせがれではないか」。イエスさまのことをバカにしている感じがよく伝わる訳ですね。
「自分のことを救い主だと主張するこの人は、聖書の専門教育を受けたわけではない。小さいときからこの村で育った、たかが大工の息子じゃないか。そんな普通の奴が救い主なんかであるものか」。ナザレの人々はそう結論づけたのです。
ナザレの人々の内心
「そこでイエスは彼らに言われた。『きっとあなたがたは、「医者よ、自分を治せ」ということわざを引いて、『カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ」と言うでしょう』」(23節)。
ナザレの人々は、大工の小せがれであるイエスさまが自分のことを救い主だと主張するのなら、奇跡を見せて証明してみろと思いました。イエスさまはそのことを言い当てました。
郷里では歓迎されない
「そしてこう言われた。『まことに、あなたがたに言います。預言者はだれも、自分の郷里では歓迎されません」(24節)。
私たちは救い主ではないし、預言者でもないでしょう。それでもイエスさまがおっしゃっているのと同じように、伝道するのが一番難しいのは自分の家族だったりしませんか?
そしてイエスさまは、旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの例を挙げます。
エリヤとエリシャの例
「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました」(25-27節)。
エリヤとエリシャが活躍した時代は、イスラエルは南北の王国に分裂していました。彼らは北王国で活動しましたが、当時はあの悪名高いアハブ王やその息子たちが北王国を治めていて、偶像礼拝・異教礼拝がはびこり、イスラエル人の信仰は地に落ちていました。
そんな時代に、神さまの祝福はイスラエル人ではなく、異邦人である
ツァレファテの未亡人や
将軍ナアマンに届けられました。イエスさまはそのことをここで持ち出します。
すなわち、「アハブ王家の時代の北王国と同じように、あなたたちは極めて不信仰だ。だから、神さまはあなたたちではなく異邦人を祝福なさるだろう」と宣告しているのと同じです。
さあ、それを聞いたナザレの人々の反応はどうでしょうか。
ナザレの人々の反応
怒りと殺意
「これを聞くと、会堂にいた人たちはみな憤りに満たされ、立ち上がってイエスを町の外に追い出した。そして町が建っていた丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとした」(28-29節)。
イエスさまの話を聞いたナザレの人々には、2つの反応の可能性がありました。1つは自分たちの不信仰を悔い改めて、イエスさまを救い主だと認める道。もう1つはイエスさまに対して反発する道です。
そして、実際には反発の方を選びました。自分たちを不信仰なアハブ王家や当時のイスラエルの人々と同じだという主張、そしてよりにもよって祝福が異邦人に向かうという話が受け入れられなかったのです。この時代のユダヤ人はことのほか異邦人を軽蔑していました。ユダヤ人は生まれながらにして救われていて、異邦人は神さまに呪われているとさえ考えていました。
イエスさまが自分たちのことを異邦人以下だと見なしたと感じたナザレの人々は、怒りに燃えてイエスさまを殺そうとします。崖の上からイエスさまを突き落とそうとしたのです。
無事生還
「しかし、イエスは彼らのただ中を通り抜けて、去って行かれた」(30節)。
イエスさまは難を逃れました。そして、人々の真ん中を堂々と通ってナザレを去って行かれました。どのようにしてかは分かりません。後にゲツセマネの園でイエスさまが逮捕された際、イエスさまが「それはわたしだ」と言っただけで捕り方の人たちがみんな倒れてしまいました(ヨハネ18:6)。そのときと同じように、イエスさまの威厳に圧倒されてしまったのかもしれませんね。
イエスさまは後に十字架にかかって亡くなりますが、死にたくないのに無理矢理殺されたわけではありません。イエスさまは自発的に十字架にかかる道を選ばれました。イエスさまには、ご自分がいつどのようにして死ぬかを選ぶ権威が与えられていました。
「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)。
救い主は、過越の祭りの時に、エルサレムで十字架にかけられて死ななければなりません。ですから、過越の祭りでないときに、ナザレで転落死するわけにはいきません。そこで、このとき天の父なる神さまはイエスさまの命を守られました。
では、ここから私たちはどんな教えを受け取ることができるでしょうか。
2.学ぶ姿勢を忘れないようにしよう
我以外皆師
「我以外皆師」(われ いがい みな し)という名言があります。これは作家吉川英治が、小説「宮本武蔵」の中で主人公の武蔵に語らせた言葉です。自分以外はみんな教師。すなわち、自分はどんな人からも、またどんな状況からでも学ぶことができるという意味です。
謙遜と言い換えることもできるでしょう。
ところが、実際にはなかなか謙遜に学ぶことができないのが人間の性。自分がすでに手に入れた知識や経験や常識に囚われて、学ぶ姿勢を忘れてしまいがちです。
特に相手が自分より年下だったり、社会的な地位が低かったりすると、相手のことを先生だとはなかなか思えません。むしろこちらが教えたり指導したりしたくなるものです。ナザレの人々がイエスさまを救い主だと信じられなかったのは、自分たちと同等、いやそれ以下だと思っていたからです。
吉川英治だけでなく、聖書もこう教えています。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)。
ですから、どんな人からも、どんな状況からでも成長の糧を手に入れることができる。そんな思いで生活しましょう。
人からのレッスン
以前私がカウンセリングの仕事のために出入りしていた別の教会には、たくさんの人たちが集っていました。そこの主任牧師が、外様である私、しかも当時は30代の若造だった私によくおっしゃった言葉があります。
それは「増田先生。教えて欲しいことがあるんだけど」「知恵を貸して欲しいことがあるんだけど」です。こんなふうに、分からないことについて尋ねられたり、発生した問題についてどう対処したらいいと思うか相談されたりしました。
今から思うと、そうやって質問することで私の考える力を育てようという意図があったのでしょう。頼られると悪い気がしませんから、やる気も引き出されますし。
しかし、それでもこの主任牧師はこの業界ではかなり名の知れた方です。それなのにいつでも、どんな人や状況からでも学ぼうとする姿勢には心を打たれました。いや、だからこそ大きな働きができるのだろうなと感じました。
状況からのレッスン
そして、神さまは様々な状況を通しても、私たちを教え育てようとしてくださっています。
何か嫌なことが起こったとしましょう。これを神さまからのレッスンだと受け取ることなく、ただ嫌な気持ちになって終わらせることもできます。あるいはこんな目にあわせる神さまに対して怒りを感じて、不平不満をぶちまけることもできるでしょう。
しかし、この問題を自分が成長するために神さまがくださった教材だと捉えることもできます。人によってまた状況によって変わりますが、たとえば、
- 今のやり方や心の姿勢は間違っているよという警告
- あるいは、どんな困難があっても、最終的には神さまが自分を祝福してくださると信じるようにという促し
- または、自分の知恵や力だけでなく、もっと神さまに祈りながらやりなさいという教え
などです。
良かったことだけ書く日記帳
以前、東京時代のクリスチャンの友人からこんな話を聞きました。その人は、生活の中で様々な悩みを抱えていました。そんなとき、別のクリスチャンから勧められて、良かったことだけを書く日記を付けることにしたそうです。
最初は興味本位で始めたことでしたが、毎日書いているうちに、だんだんと気持ちが前向きになったと言います。これまでは悩みの種のことばかり考えて落ち込んでいたけれど、気づかずにスルーしていたいろいろな嬉しいできごとに意識が向くようになり、喜びや感動が湧き上がってきたというのです。
たとえば、散歩しているときに美しい花が咲いていたとか、見知らぬ人が微笑みながら歩いていたとか、リンゴの皮を上手に剥くことができたとか。この人は、自分の周りに神さまの祝福がすでに満ちあふれていることに気づきました。そして、日記に書くための喜びの種を、積極的に探すようになったとか。
こうして、まだ悩みの種そのものは解決していないのに、この人の心には平安や希望がわき上がってきました。
どんな状況にも、私たちを成長させ、喜びや感動や平安や希望に導くための神さまのレッスンが隠されています。それを積極的に探しながら、毎日の生活を送りましょう。
まとめ
私たちはいくつになっても、どれほど教会生活が長くなっても、人としてクリスチャンとして成長し続けることができます。
そのために、「教えてください」「助けてください」、そんなふうにどんな人からも謙遜に学ぶ姿勢を大切にしましょう。そして、順境であれ逆境であれ、そこから神さまのレッスンを受け取っていきましょう。