(2023年4月2日)
礼拝メッセージ音声
参考資料
29節の「ソロモン」は、ダビデの跡を継いだ王で、一度も戦争をすることなくイスラエルの領土を史上最も広くしました(現在に至るまでその記録は破られていません)。
32節の「異邦人」は、ユダヤ人(イスラエル人)以外の民族のことです。
33節の「神の国」は、世の終わりに救い主が地上に実現する理想的な王国です。
33節の「神の義」は、神さまのご性質としての正しさのこと。そして、正しい神さまが認める正しさのことです。神さまに義と認められた人(「あなたは正しい」と認められた人)は神さまに受け入れられ、神さまと親しく交わることができるようになり、神さまからの祝福を障害なくいただくことができます。
イントロダクション
今回のテーマは、日々の心配事です。イエスさまがおっしゃっているように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかという生活の細々したことで心が振り回されてしまうことがあります。衣食住のことだけでなく、仕事や学習のこと、将来の進路や老後のこと、災害のことなど、先々のことを考えて不安になることがありますね。
私たちはどうやってそんな心配事や不安感から解放されて平安を手に入れ、何があっても何がなくても大丈夫という確信を手に入れることができるのでしょうか。
1.心配するな
神が養ってくださるから
心配するのをやめなさい
「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか」(25節)。
イエスさまは、飲み食いのことや着るもののことで心配するなとおっしゃいました。これは、今日の献立を何にしようか考えてはいけないとか、明日着る服をどれにするか選んではいけないという意味ではありません。生活できなくなるのではないか、生きていけなくなるのではないかという不安にとらわれることを禁じておられるのです。
不安にとらわれると、ものやお金を手に入れることで安心しようとします。しかし、たとえものやお金が手に入ったとしても、「これではまだ足りないのではないか」「今持っているものを失ってしまうのではないか」という別の不安が頭をもたげてきます。
調査によれば、年収300万円の人も、年収1000万円の人も、「もう少しお金があれば生活が楽になるのに」と思っているとのこと。ものやお金を手に入れることで安心を得ようとしても、必ずしもうまくいかないようです。
空の鳥
「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」(26節)。
イエスさまは、私たちは自分一人だけの力で生きているのではなく、天の父なる神さまによって私たちは養われているのだとおっしゃいます。そのことに目を留めるとき、私たちは今置かれている状況で安心を得ることができます。
それを教えるため、鳥は働くことをしなくても、父なる神さまによって生かされているではないかとしてきなさいました。ならば鳥よりも価値のあるあなたたちのことを、神さまが養ってくださらないことがあるだろうかと、イエスさまはおっしゃっているのです。
心配したからといって
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(27節)。
イエスさまは、将来を見据えてリスクに備えることを禁じておられるわけではありません。イエスさまが良くないと指摘しておられるのは、神さまに守られていることを忘れて不安な気持ちにとらわれ、自分の力だけで何とかしなければならないと思い込んで焦ってしまうことです。
確かに、心配したからといって、それだけで問題が解決するわけではありません。
野の花
「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(28-30節)。
空の鳥のたとえに続いて、イエスさまは野の花のたとえを語られました。彼らも人間のようには働きませんが、神さまは彼らを美しく装ってくださっています。あのソロモン王、神さまから与えられた知恵を用いて、戦争によらずイスラエルの領土を史上最も広げ、贅沢三昧の暮らしをしたソロモン王でさえ、どんなに着飾っても花たちの美しさには及びません。
まして神さまがあなた方の着るものに関心を持っておられないということがあるだろうか。イエスさまはそのようにおっしゃいました。
神が知っている
「ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」(31-32節)。
衣食住のことを考えることはもちろん必要なことであり、大切なことです。イエスさまはそういったことに無頓着でいいとおっしゃっているわけではありません。また、将来に備えて貯蓄したり、保険に入ったり、より条件のいい会社に転職したりといったことをしてはならないとおっしゃっているわけでもありません。もちろん、鳥や花たちのように働かなくていいとおっしゃっているわけでもありません。
ポイントは、「心配」「不安」を原動力にしてそのようなことを考えてはいないかということです。そして、その心配、不安が神さまの守りを忘れたことによって生まれてはいないかということです。
父なる神さまは、私や家族に必要なものを全部知っていてくださいます。そして、その神さまは私たちが不幸になればいいと思っておられるのではなく、幸せにしたいと考えておいでです。だから、何があっても、何がなくても大丈夫なのです。
その絶対的な安心感の上に、私たちはさまざまなことを計画していきましょう。
優先順位
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(33節)。
食べ物や着るものは大切ですが、優先順位があります。まず私たちが求めなければならないものは、神の国と神の義だとイエスさまはおっしゃいました。
神の国
神の国とは、救い主イエスさまが再臨なさったときに地上に建設する理想的な王国です。そこでは誰も飢えることなく、みんなが安心して暮らすことができます。そんな神の国が、早く地上に実現するように私たちは祈り求めなければなりません。
ただ、神の国が物理的に地上で実現するのは、世の終わりの時、イエスさまが再び地上に帰ってこられたときです。しかし、イエスさまは
「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)とおっしゃいました。イエスさまが再臨なさるまでの間、神の国は私たちの中に生まれ、成長します。世の終わりの神の国に入る前、今この時も、私たちはまるで神の国に住んでいるかのような平安、安心感を味わうことができます。そしてそれはあふれ出て、周りの人たちのことも励まし、慰め、平安と確信へと導きます。
神の義
そして、神の義とは、神さまの正しさです。神さまこそ正義であり、何が正しくて何が間違っているかをお決めになることができます。では、その神さまの正しさを求めるとはどういうことでしょうか。私たちが求めなくても、神さまが正しいことは変わりないはずです。
神さまの義、神さまの正しさを求めるとは、神さまの正義を私たちが喜んで受け入れることに他なりません。神さまが正しいとされることを、私たちもそれが正しいと心から受け入れます。そして、神さまが正しくないとされるなら、どんなに私たちにとって魅力的でもそれを退けます。
神の国では、神さまのみこころが完全に実現します。そんな神の国が私たちの心の中から始まっているとお話ししました。であれば、私たちの心も神さまのみこころに添っていなければなりません。私たちは喜んで神さまのみこころに従わなければなりません。
神さまの側でどんなに私たちを守り、支え、養おうとしていらっしゃったとしても、私たちの心が神さまから離れてよそを向いていたのでは、その祝福を私たちが受け取ることができません。
何があっても、何がなくても大丈夫、最後には必ず祝福されるという安心感を得るには、神さまと私たちがいい関係でなければならないのです。
その日その日の苦労
「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」(34節)。
私たちと神さまとの関係が良いものだと知れば、私たちは安心です。明日のことを必要以上に不安に思うことがありません。
よけいな不安から解放されると、私たちは心配しても仕方のないことに時間とエネルギーを取られることなく、今本当にしなければならないことに集中して取り組むことができるようになります。
その結果、人生に実を結ぶことができるようになります。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神との関係向上を第一に考えよう
心配しなくていいという励ましを受け取ろう
先日も申し上げましたが、神さまの命令は約束と表裏一体です。神さまはできないことをしろとおっしゃる意地悪なお方ではありません。何かを命令なさるということは、私たちにそれをする力がすでにあるか、実践しようとしたときに与えられるということです。また、私たちがその命令を守ることができるよう、必要ならば環境も整えたり、協力者を与えてくださったりします。
イエスさまは「心配するな」とおっしゃいました。ならば、そこには「心配しなくていいようにしてあげる」という約束と、「だから心配しなくてもいい」という励ましがこめられているということです。なぜなら、私たちの幸せを願ってやまない父なる神さまが、私たちを子どもとして守り、導き、あらゆるものを整えてくださるからです。
内なる神の国の成長
衣食住のことも、将来設計も、仕事も勉強も大切です。しかし、イエスさまは優先順位を整えるよう私たちに勧めておられます。まず私たちが求めなければならないものは、ものでもお金でも資格でも地位でもなく、神の国と神の義です。
イエスさまを信じたとき、私たちの内側に神の国が宿りました。そして、それは日々成長しています。ますます成長して、まるで物理的な神の国に住んでいるかのような平安や将来に対する確信に満たされるよう祈り求めましょう。
そして、確かに神さまが付いていてくださり、祝福へと確実に導いてくださっているのだということを折に触れて確認し、「あなたにお任せします」と祈りましょう。
わたしがついているのにね
この話をお読みください。
以前働いていた職場での話です。250人規模のセミナーと500人規模の講演会が行なわれることになりましたが、私が準備の総合リーダーを務めることになりました。セミナーと講演会は毎年行なわれていて、それまで私もスタッフの一人として何度も関わっていましたが、リーダーになるのは初めてです。私は不安感でいっぱいいっぱいになり、毎日落ち着かない気分で過ごしていました。そこで、自分の「心のつぶやき」を紙に書き出してみたのです。
「絶対失敗するに決まっている」。
「何か重大なことを抜かしていて、当日は大混乱になる」。
「講師の先生も、受講生の皆さんも、上司も同僚たちも、みんな怒り出す」。
「これが元でクビになる」。
よくもまあ、ここまで否定的に考えられるものかと、自分でもあきれるくらい否定的な言葉が出てきます。しかし、とにかくそう思っているのですから、次々と紙の上に書いていきました。
やがて、一つの言葉が紙の上に書き出され、その言葉にハッとさせられました。それは「やっぱりね」という言葉です。何か物事がうまくいかない時、心の中に「やっぱりね」という言葉が響くのです。どうやら私の中には、「自分は絶対に幸せにはなれない」と決めつけている部分があるらしい。
そのとたん、「私がついているのにね」と、イエスさまがにこにこしながら見つめておられるような気がしました。それでも、当日まで不安感はなくなりませんでしたが、不安感を抱えたままでも、どこかで「ま、それでもいいか」と開き直れるようになりました。
当日のセミナーは、ほとんど大きな問題もなく、それどころか大成功に終わりました。そのこともさることながら、私は「やっぱりね」という言葉に出会えたことを、とてもうれしく思います。
神さまは、あなたの人生も守り、導き、必ず本当の幸せへと導いてくださいます。 いつも神さまからの励ましを受け取りましょう。
神との関係を整えよう
私たちがまず求めなければならないのは神の国と神の義です。神さまの義を求めるとは、神さまの正義を私たちが喜んで受け入れることだと申し上げました。私たちが神さまのみこころを喜び、神さまのみこころに従う生き方をしているとき、私たちは自分が神さまに喜ばれているという確信を得ることができます。そして、どんなときも神さまがついていてくださるから大丈夫だという平安を得ることができます。
逆に、神さまとの関係がおかしくなると、私たちは途端に平安を失います。悪魔や悪霊たちも、私たちと神さまの関係がおかしいところにつけ込んで、不安感で揺さぶりをかけてきます。
ですから、自分が神さまのみこころを無視していたり、逆らったりしていたということに気づいたなら、すぐに神さまにそのことを告白して悔い改めましょう。
この話をお読みください。
ある所に小学校4年生と2年生の姉妹がいました。ある日、妹がおねしょをしてしまいました。お母さんに見つからないように、急いで押入に布団を隠そうとしましたが、お姉ちゃんに見つかってしまいました。
「またやったな」
「お姉ちゃん、お母さんには言わないで」
「そのかわり、お姉ちゃんの言うこと何でも聞く?」
「……分かった」
それ以来、おやつや小遣いは取り上げられるし、家事の当番は全部押しつけられます。「いやだ」と断ろうとすると、お姉ちゃんは「あのことお母さんに言うからね」と脅すのです。妹は、いやいやながらも従うしかありませんでした。
しかし、ついに我慢できなくなって、妹は勇気を出してお母さんにおねしょのことを白状しました。お母さんは優しく赦してくれました。そうとは知らないお姉ちゃんは、いつものように妹に言いました。
「おやつ半分よこしな」
「やだ」
「ばらすよ」
妹はふふんと鼻を鳴らして言いました。「どうぞ」。
罪を自覚したときには、自分がイエスさまのおかげで完全に赦されているということを思い出し、神さまに罪を告白して、関係が回復していることを確認する。それは、あなたに自由な生き方をもたらします。
イエスさまの十字架の血潮は、どんな罪でも完全に赦します。赦されない罪はありません。ですからすぐに告白して、改めて神さまに従う生き方を再開しましょう。そして、神さまが自分の味方だという平安、だから大丈夫だという確信を取り戻しましょう。
今やるべきことに取り組もう
イエスさまは、「苦労はその日その日に十分ある」とおっしゃいました。心配してそれで未来が何とかなるのであれば、いくらでも心配すればいいでしょう。しかし、ただ心配だけしていても、未来を変えることができるわけではありません。
また、将来に対する心配だけでなく、過去にやってしまったことへの後悔も同じです。昔、「反省だけなら猿でもできる」というコマーシャルがありましたが、どんなに後悔しても、自分を責めて傷つけても、それで過去が変わるわけではありません。
むしろ、心配したり後悔したりすることに時間とエネルギーを使い果たして、その日その日にしなければならないことを行なうことができなくなってしまいます。そうするとかえって生産的な生き方ができなくなってしまいます。
たとえるなら、試験に落ちたらどうしようと心配するあまり、あるいはこれまでもっと勉強しておくんだったと後悔するあまり、今しなければならない受験勉強が手に付かず、結局本当に試験に落ちてしまうようなものです。どんなに不安だろうが、罪責感が湧いてこようが、試験に受かりたいのなら、とにかく今すぐ勉強を始めなければなりませんね。
神への信頼をベースに
積極的な未来を思い描いていたら、その未来を引き寄せるというような、自己啓発セミナーで学ぶようなことを申し上げているわけではありません。神さまが共にいてくださり、未来に責任を負ってくださっていて、最も良い結果に導いてくださるという信頼の思いを抱きつつ、今やるべきことを見つけてそこに全力を注ぎ込むのです。
ただし、どんなにがんばっても、最初に望んでいたのとは違う結果を刈り取ることもあります。さまざまな準備を整えて挑戦したことが失敗に終わってしまうこともあります。しかし、その残念に見える結果も、長い目で見れば必ず最善です。また、結果が出るまでに費やした努力や工夫や出会いは決して無駄になることはなく、必ず私たちの宝物となります。
この話をお読みください。
アメリカのラルフ・シャワーズ氏は、小学生の時に、軽度の知的障がいと判定され、これ以上勉強を続けても無駄だと宣言されてしまいました。しかし、彼の両親はこう言って彼を励ましました。「お前は神さまによって造られ、神さまによって命を与えられた、神さまの素敵な作品なんだよ。神さまは、お前が素晴らしい人生を送ると定めておられるのだから、私たちもお前のことを信じているよ」。
それを聞いたラルフ少年は、人一倍努力して、ついに大学を卒業しました。さらに、神学校に進み、牧師となって、各地で優れた働きをしました。
その後、彼は知的障がい者の自立支援のための農場建設を始めました。ところが、作業のために、納屋の屋根に上っていた時、誤って高圧電線に触れてしまい、大やけどを負ってしまいます。命は助かったものの、両腕を切断しなければなりませんでした。
彼は、それでもこの働きをやめませんでした。彼はこう語っています。「私は、この事故が神さまからの恵みであると確信しています。この障がいによって、私は他の障がいを持っている人々と心を合わせて働くことができますし、心を分かち合い、愛することができるようになったからです」。
こうして、自立支援のための農場は、全米各地に広がっていき、しかも公的な援助を受けなくても経営が成り立っているそうです。
神さまの守りと導きを信じ、今日しなければならないことに全力を注ぎましょう。そのためには、私たちと神さまとの関係が良好でなければなりません。
もしも、いくつかの選択肢の中で迷ったときには、どれを選べば今よりもっと神さまとの関係が良くなるだろうかということを考えて決めましょう。神さまとの関係が良好であり、その神さまが見守り導いてくださっているのだということを確認すれば、私たちはどんな状況の中でも平安と希望を味わうことができます。