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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

地の塩・世の光

新年2024

マタイによる福音書5章13節〜16節

(2024年1月24日)

「あなた方は地の塩世の光である」とイエス・キリストは弟子たちに言いました。それはどういう意味でしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

15節の「升」は、粉や穀物など容量を量るのに使った器です。家庭で使われるものは9リットル弱の大きさでした。

イントロダクション

自分が何者であるのかということを知ることは、私たちの生き方を決めていきます。聖書は、様々な表現で、私たちが何者かを教えてくれています。ここでイエスさまは、私たちのことを「地の塩」「世の光」と呼んでおられます。それはどういう意味でしょうか。

1.地の塩と世の光のたとえ

地の塩

(13節)あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

イエスさまは弟子たちを「地の塩」にたとえました。
防腐剤としての塩
古代においては、塩は食べ物を長期保存するのに必須のものでした。塩には腐敗防止効果があります。イエスさまが私たち弟子に期待しておられることの一つは、この世の防腐剤となることです。

この世に住む人の多くはまことの神さまを信じず、従おうとしません。人間の心は基本的に神さまのみこころに逆らう方向に傾いています。その結果、道徳的に腐敗していきます。
  • 拝金主義の横行
  • 人の命や尊厳の軽視
  • 差別
  • 性的な奔放・倒錯
  • 自己中心的な言動
  • 他者の傷みへの無関心
  • 刹那的な快楽主義
この世を変える弟子たち
これまでの歴史を振り返ると、人種や性別や身分による差別の撤廃、普通教育や女子教育の普及、公害問題、経済格差の是正など、社会の問題の解決にクリスチャンの先輩たちは尽力してきました。

私たちが神さまのみこころにかなう行動の仕方や考え方をし、この世がほんの少しでも神さまのみこころにかなう方向に進むよう働きかけるなら、かえって私たちに触れた周りの人たちの行動や考え方が変えられていきます。イエスさまは、地の塩のたとえでそのことをおっしゃっています。

世の光

山の上にある町
(14-15節)あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。

古代の中東では、水源が限られていることから長年にわたって同じ場所に町が作られ続けました。家が経年劣化や戦争などで壊れると、その上に新しい家を建てていくということです。家の材料はレンガや石です。そこで長い時間がたつうちに朽ちたレンガや石が積み重なって、その場所がだんだんと丘のように高くなっていきます(この遺丘のことをテルといいます)。

丘の上にある町は、その明かりが遠くからでもよく見えるよねとイエスさまはおっしゃいます。

また家の中のランプは、升の下に隠すのではなく燭台の上に置いて、家全体を照らすようにするよねとイエスさまはおっしゃいます。

これは何を意味しているのでしょうか。
世の光のたとえの意味
(16節)このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

イエスさまがおっしゃる「光」とは、私たちの良い行ないのことです。そして光を丘の上や燭台の上に置いて高く掲げるというのは、私たちの良い行ないを他の人たちに広く知らしめよということです。
地の塩のたとえで解説したように、この世の価値観に染まらず聖書が教える良い生き方をすること。そして、それによってこの世の中を良い方向に少しでも変革することです。

といっても、それは私たちがほめたたえられるためではありません。私たちが信じる天の父なる神さまがほめたたえられるためです。

イエスさまは罪人を罪人だという理由で責めたりはなさいませんでした。ただし、パリサイ人たちに対してはかなりきつい調子で批判しておられます。それはパリサイ人の多くが傲慢で偽善的な態度を取っていたからです。すなわち、
  • パリサイ人は、自分たちが神さまによって赦されなければならない罪人だということを認めていませんでした。
  • パリサイ人は自分たちが他の人に賞賛されるために、良い行ないをわざと人前で行ないました。
イエスさまの弟子が良い行ないをするのは、自分たちがほめられるためではなく神さまのすばらしさが明らかになり、神さまがほめたたえられるためでなければなりません。

地の塩・世の光として生きるとは

まとめると、イエス・キリストの弟子である私たちが地の塩、世の光として生きるとはどういうことでしょうか。それは、
  1. 私たち自身の行ないによって、この世に対して良い影響を与えること
  2. それによって、私たちの父なる神さまがほめたたえられるようにすること
です。

では、そのために私たちが心がけるべき事は何でしょうか。

2.地の塩・世の光として心がけるべきこと

この世との分離

塩は食べ物に混ぜられます。しかし、塩気は失いません。それと同じように、私たちクリスチャンはこの世から離れて暮らしているわけではありません。この世の中で、この世の人たちと一緒に生活しています。

しかし、それでも地の塩である私たちはこの世とは違う一面を持っていなければなりません。塩が塩気、すなわち塩ならではの性質を失ってしまったら役立たずだとイエスさまはおっしゃいました。
イスラエルの分離
イスラエルの歴史を見ると、神さまによって選ばれ祝福された後、いったんこの世と分離した生活を求められています。たとえば、
  • アブラハムが跡継ぎであるイサクの妻を探す際、異教徒であるカナン人の中からではなく同じ神さまを信じる親戚の中から選ぶようにしました。
  • ヨセフに招かれたヤコブ一家は、一般のエジプト人が住む地域ではなくゴシェンという離れた場所に住むことになりました。
  • 出エジプトの奇跡を体験したイスラエルは、モーセの律法を守ることを求められました。それによって、まことの神を信じない異邦人との接触を規制されました。
  • バビロン捕囚が終わってイスラエルの人々が約束の地に戻ってきたとき、律法学者エズラは外国人の配偶者を離縁するよう民に求めました。
これは外国人差別ではありません。まだ霊的に幼いイスラエルの民を、異教徒の悪影響から守るための措置です。

実際、イスラエルが異教徒との分離の命令を守ったときは祝福を受け、自分たちもそして周りの民族も幸せになりました。しかし、この世の民と交わり彼らと同化して、その生活様式と変わらない生き方をするようになると、イスラエルは祝福を失い国が滅びるほどの苦しみを味わいました。
この世との分離を意識しよう
人は触れた者に似ますから、気をつけていないとだんだんとこの世の価値観に染まっていって、行動や考え方が同じになってしまいかねません。

私たちはそのことを警戒し、聖書が教える生き方へといつも軌道修正をし続けなければなりません。私たちはこの世の中に住んでいますが、この世と全く同じであってはいけないのです。この世と違うというのは、行動や考え方が違うということです。

いつもこの世の常識を疑いましょう。そして、聖書の価値観に立ち返りましょう。 それを意識した一年となりますように。

この世の変革

しかし、この世と分離することそのもの、この世の価値観と私たちの価値観が違うことを明確にすることそのものが私たちの人生の目的ではありません。
イスラエルが選ばれた理由
イスラエルの先祖であるアブラハム・イサク・ヤコブに対して、神さまは彼らとその子孫であるイスラエルを祝福するとおっしゃいました。しかし、彼らだけが祝福されるのではありません。神さまは次のようにもおっしゃっています。(創世記12:3)地のすべての部族は、あなたによって祝福される。

イスラエルが神さまによって選ばれたのは、彼らだけが祝福されるためではありません。彼らの存在と行動によって全世界の民族が神さまと出会い、神さまを信じ、神さまによって祝福されるためです。
私たちが選ばれた理由
私たちイエスさまの弟子であるクリスチャンも、全世界の人たちが神さまと出会い、神さまを信じ、神さまによって祝福されることを求めなければなりません。そのために私たちはこの世と自分が違うことを明確にします。

この世が神さまのみこころにかなっていないのをただ嘆いたり恐れたりして、傍観するだけであってはなりません。ほんの小さな変化であったとしても、この世が神さまのみこころにかなう方向に変化するよう働きかけること。それをイエスさまは願っておられます。
小さな一歩
この世の中すべての矛盾を解決することはできません。しかし……

この話を読みましょう。
福島県に入水洞という鍾乳洞があります。すぐそばにあるあぶくま洞は、中が広々していて歩いて楽に見学できますが、入水洞は大変狭く、人がすれ違うのも大変です。しゃがんだり四つんばいになったりしながら通るところもたくさんあります。

ほとんど体の幅くらいしかない隙間を通るところもあり、恰幅の良い男性が途中でつかえて先に進めないでいました。また、奥の3分の2は冷たい地下水が15センチほどの深さで流れており、半ズボンと草履に着替えて入らなければなりません。見学というより、探険という名がふさわしいひとときでした。

そして、入り口近くまでは電気が来ていますが、奥には全く照明がありません。ですから、自分でランタンなどを持ち込むか、受付でろうそくを買って入ることになります。

奥まで入ったあと、試しに明かりを全部消してみました。その時、真の闇というものを初めて経験したように思います。闇夜でさえ空気が太陽光を乱反射して空は薄ぼんやりとしていますが、 明かりを失った洞窟の中は上も下も全くの闇でした。一瞬、上下の感覚さえも失ってしまい、そのまま闇の中に自分がとけ込んでしまうような恐れを味わいました。

急に、闇の中に光が差しました。岩の陰から後続の人が現れたのです。その手にあったのは、小さなろうそくが1本。しかし、とたんに周りの岩肌も、自分の手足もくっきりと浮かび上がりました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
この世に塩味を付けるために、この世の闇にかすかな光を届けるために、私たちにできることが何かあるはずです。できないことではなく、できることを考えて実践しましょう。そんな一年になりますように。

神の栄光

そして、私たちがいつも意識していなければならないことは、私たちの行動の目的です。それは、私たち自身のすばらしさではなく神さまのすばらしさが明らかになることでなければなりません。
バッハとマザー・テレサ
ヨハン・セバスチャン・バッハは多くの宗教曲を書きましたが、その楽譜の最後にはSDGと記されています。それは「Soli Deo Gloria」の略で、訳すと「神にのみ栄光があるように」です。

クラシック音楽の基礎を確立し、後に「音楽の父」と呼ばれるほどの偉大な作曲家であるバッハですが、彼は自分自身が作曲家として名声を博すことよりも、自分が書いた曲によって神さまのすばらしさが人々に伝わることを望んでいました。

また、インドにおける慈善事業によってノーベル平和賞を与えられたマザー・テレサも、最初から世の中の人たちに認められるような活動をしていたのではありません。その活動は、誰にも世話されることなく道端で死んでいこうとする一人の人を看取ることから始まりました。
日常生活のあらゆることを通して
私たちは音楽家ではないかもしれません。この世に多大な影響を与えられるような活動家ではないかもしれません。しかし、どんなに小さな行動であったとしても、神さまのすばらしさが明らかになることを願いながら行なうなら、それは「地の塩」「世の光」としての行動だとイエスさまは認めてくださいます。

むしろ、聖書は些細な行動を大切にするよう勧めています。

(第1コリント10:31)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
  • 何をすれば、神さまのすばらしさが明らかになるだろうか。
  • 何を語れば、神さまのすばらしさが明らかになるだろうか。
  • どんな表情をすれば、神さまのすばらしさが明らかになるだろうか。
そんなことをいつも考えながら生活する一年でありますように。

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