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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

金持ちとラザロと死後の世界

イエス・キリストの生涯シリーズ62

ルカによる福音書16章19節〜31節

(2024年1月14日)

金持ちラザロの話はイエス・キリストが語られた物語です。ここから死後の世界について、また本当の「先祖供養」がどういうものかを知ることができます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

22節の「アブラハムの懐」は、死後の世界の一つ。パラダイス(ルカ23:43、2コリント12:4、黙示録2:7)と同じ場所です。神さまによって救われた人が入れられます。救い主によって地上に神の国(千年王国)が実現するまでの待合室のような場所です。神の国が実現すると、アブラハムの懐にいる人たちは復活して神の国に招かれます。

23節の「よみ」は、ギリシア語で「ハデス」。死後の世界のうち、アブラハムの懐と対照的に苦しみに満ちた所です。ここも一種の待合室であり、世の終わりの「白い御座のさばき」(いわゆる最後の審判)が終わると、ここにいた人たちは皆永遠の苦しみの場所である「ゲヘナ」(火の池とも呼ばれます)に落とされます。

29節の「モーセと預言者」は聖書のこと。なお、当時はまだ新約聖書は書かれておらず、旧約聖書だけです。

イントロダクション

今回の箇所はよく「金持ちとラザロのたとえ」と呼ばれることがあります。しかし、これはたとえ話ではなく実話です。というのは、古代イスラエルのたとえ話では登場する人物に名前を付けないものだからです。

今回のイエスさまの話は、本当に起こったことです。金持ちやラザロが経験したことは、今私たち生きている人間が死んだらどういう体験をするかということを教えてくれます。

1.金持ちとラザロの話

金持ちとラザロの生前と死後

金持ちの生前
(19節)ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

まず登場したのは金持ちです。彼は贅沢な暮らしをしていました。
ラザロの生前
(20-21節)その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

次の登場人物はラザロという物乞いです。彼は貧しいだけではなくできものができる病気にかかっていました。つらい人生を送っていたのです。

ここで「腹を満たしたいと思っていた」という表現に注目しましょう。思っていただけです。実際には残飯を手に入れることさえできなかったということが見て取れる表現です。

神さまがユダヤ人に守るよう命じておられたモーセの律法では、貧しい人たちに親切にするよう求めています。ラザロが門前にいた家の金持ちは、その命令を無視していました。この金持ちが神さまを信じて従おうとしない、自己中心的な人物だったことが分かります。
ラザロの死後の行き先
(22節前半)しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。

ラザロが死にました。人が死ぬと物質的な部分であるからだと、非物質的な部分である魂が分離します。体の方は朽ちてしまいますが、魂は永遠に存在し続けます。

そんなわけで体を離れたラザロの魂は、「アブラハムの懐」という場所に送られました。

旧約聖書では、死んだ人の魂が行く場所のことをヘブル語で「シオール」です。日本語訳では「よみ」、ギリシア語では「ハデス」と訳されています。そのシオールの中は4つの場所に分かれていて、2つは堕天使である悪霊が幽閉される場所、残る2つが死んだ人間の魂が送られる場所です。
その人間のための場所の1つが「アブラハムの懐」です。「パラダイス」(ペルシア語で王の庭園という意味)とも呼ばれます。

このアブラハムの懐(パラダイス)は、イエスさまが復活なさった後に天に引き上げられたので、今はシオールの中にはありません(エペソ4:8-10参照)。しかし、イエスさまがこの話をなさったときにはまだシオールの中にありました。

アブラハムの懐は永遠を過ごす場所ではありません。将来救い主が地上に神の国(千年王国)を実現なさったときには、ここに住む人たちはみんな復活して神の国に招き入れられます。ですから、アブラハムの懐は待合室のような場所です。
金持ちの死後の行き先
(22節後半 -23節)金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

一方金持ちの魂は、死んだ後でよみに送られました。この場合の「よみ」は、ヘブル語では「アバドン」と呼ばれている場所です。ギリシア語では「ハデス」ですが、この場合はシオール全体を表すハデスとは違って狭い意味でのハデスです。

ここは苦しみの場所です。金持ちが苦しみの中でふと見上げると、遠くにアブラハムとラザロが見えました。

なぜラザロがいた場所が「アブラハムの懐」と呼ばれているかというと、当時の宴会はみんな椅子に座って食べたのではなく体の左側を下にして寝そべって食べたからです。あの世の宴会でアブラハムの右側の席にいたラザロは、ちょうどアブラハムの懐に抱きかかえられているように見えます。

金持ちがハデスで苦しんでいるのに対して、ラザロはパラダイスで喜びに満たされています。その様子に金持ちは気づきました。さて、彼はどうしたでしょうか。

金持ちとアブラハムの対話 その1

ハデスの苦しさ
(24節)金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

金持ちはアブラハムに大声で願い求めました。ラザロによって自分の舌を冷やすようにしてほしいと。ほんの数滴の水でいいからもらいたいと願うほど、金持ちは非常に苦しい思いをしていたということが分かります。。
死後の逆転
(25節)するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。

アブラハムはその願いを聞いてくれません。それどころかダメ押しのようなことを口にします。それは、生前良い目を見ていた金持ちと生前つらい目にあっていたラザロの立場が逆転したということです。

間違えてならないのは、金持ちは金持ちだったからハデスに落とされたわけではないし、ラザロは貧しかったからパラダイスに入れてもらったわけでもないということです。アブラハム自身が生きているとき非常に金持ちでした。

金持ちが死後にハデスに落とされたのは、金持ちだったからではなく神さまの命令を無視して自分勝手な生き方を続け、その罪を悔い改めようともしなかったからです。 この金持ちは神さまの赦しを受け取らなかったので、死後に苦しみの場所に送られたのでした。

一方のラザロがアブラハムの懐に送られた理由についてははっきり書かれていませんが、貧しかったラザロはそのことで神さまを恨む代わりに神さまに信頼する道を選んだのでしょう。そして、自分の罪についても素直に認め、神さまによる赦しを謙遜に求めました。だからこそラザロは救いを手に入れ、死後に慰めを受けているのです。
死後の再逆転は不可能
(26節)そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

アブラハムは、パラダイスとハデスとは行き来できないと言いました。すなわち、いったんパラダイスに入れられた人の救いが取り消されることは決してないし、いったんハデスに落とされた人が死後に救われることもありません。

金持ちとアブラハムの対話 その2

兄弟の救いについての願い
(27-28節)金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』

人の救いは、地上で生きている間に獲得しなければなりません。 逆に言うと、生きている限り救いのチャンスがあるということです。

自分にはもう救いの希望がないことを知った金持ちは、まだ生きている5人の兄弟には救いを受け取るチャンスが残っていると考えました。大切な兄弟が、自分と同じようにハデスに落とされるようなことになっては大変です。

そこで金持ちは、ラザロをよみがえらせて兄弟たちの所に遣わしてくれるよう願いました。ラザロが兄弟たちを説得して、救いを手に入れられるようにしてほしいということです。
聖書に任せよ
(29節)しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』

アブラハムはこの願いも退けます。そしてわざわざラザロを遣わさなくとも、金持ちの兄弟たちには聖書が与えられているのだから、それを読めば生きている間に救いを受け取らなければならないことや、救われるために何が必要かといったことは分るはずだと言います。
さらなる願い
(30節)金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』

救われるために必要なことの一つは、自分の罪を認めて悔い改めることです。その上で神さまの赦しを受け取らなければなりません。

しかし金持ちはそんなことでは兄弟たちは悔い改めないだろうと考えました。兄弟たちの性質をよく知っていた金持ちは聖書だけでは不十分だと考えて、ラザロを送ってほしいと重ねて願いました。
聖書に聞かないなら無駄
(31節)アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

金持ちの願いに対するアブラハムの回答は非情なものでした。アブラハムは、聖書の言うことを聞かない奴が、復活した人の言うことを聞くはずがないじゃないかと言います。

これは後に明らかになります。別のラザロのエピソードです。このラザロはベタニア村のマルタとマリアの兄弟です。彼は一度死にましたがイエスさまによってよみがえりました。しかし、パリサイ人など指導者たちの多くは、イエスさまを救い主だと信じようとしません。それどころか生き証人であるベタニアのラザロを殺そうと考える人さえいました。

また出エジプトの後のイスラエルの民もそうです。彼らは多くの驚くべき奇跡を見せられたのに、神さまに逆らって罪を犯し続けました。

どんな奇跡を見せられても、神さまに従うつもりのない人は信じないのです。31節のアブラハムの指摘は的を射ています。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.死後の祝福を思い描きながら今を生きよう

一喜一憂するのはやめよう

ラザロは、地上では貧しくてつらい人生を過ごしましたが、それはひとときのことでした。死んだ後、人生の大逆転を体験しました。

私たちイエスさまを信じて救いを受け取った者たちは、今がどんなに苦しくてつらい状況であったとしても、いつでも人生の大逆転を期待することができます。たとえ、この地上でその大逆転を体験することができなかったとしても、人生は死後も永遠に続きます。その死後の人生において、大逆転を体験することができます。

それを信じていたからこそ、多くの信仰の先輩たちは、苦しみの中でも平安を保つことができたし、迫害されて殉教するというような極限状態でも、喜びつつ死んでいくことができたのです。

ですから、私たちも今の状況に一喜一憂しないで、「自分は必ず幸せになれる」と信じ、安心して毎日を過ごしたいですね。

この話をお読みください。
昔々、ある宣教師が年を取り、引退することになりました。そして、任地から故郷アメリカへと船で戻っていきました。

偶然、その船には外遊を終えた大物政治家が乗り合わせていました。船がアメリカに到着し、政治家がタラップを降りる時、港に集まった人々は、大歓声で彼を迎えました。深紅のカーペット、軍楽隊の演奏、星条旗の洪水、フラッシュの嵐……。

ところが、引退宣教師は、誰にも迎えられることなく、一人寂しく船を降りました。自己憐憫と失望感が彼を襲いました。そして、彼はこのことについて神さまに愚痴をこぼしました。「何十年も故郷を離れて、あなたと外国の人々のために尽くしてきましたのに、私を歓迎し、労をねぎらってくれる者は誰もおりません」。

すると、神さまはこんなふうにお答えになりました。「そうだね。でも、愛する子よ。あなたはまだ故郷に着いていないじゃないか」。

そうです。故郷とは、もちろん天国のことです。誰も認めてくれなくても、神さまはあなたの労苦を知っておられます。いつか天に帰る時、大統領もびっくりするような大歓迎をもって、神さまはあなたを迎え入れてくださいます。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
あなたの人生は、100年前後の短い地上の時だけではありません。あなたには、永遠に続く人生が与えられています。それは先に行けば行くほど素晴らしい人生です。それを知ったとき、今の生き方がどんなふうに変わりますか?

亡くなった人の願いを知ろう

日本の宗教団体の中には、先祖のたたりをやたらに強調するところがあります。「あなたが今ひどい状況にあるのは、先祖をちゃんと供養していないから。そのたたりだ。だから、うちの宗教団体に多額のお布施をして、先祖を供養しなさい」というわけです。

そこまであからさまに言わなくても、「先祖を供養することが子孫である自分の幸せにつながる」という考え方は様々な形で語られ、私たち日本人の心に染みついていますね。

しかし、イエスさまの今回の話は、そういう先祖観とはまったく違うことを教えています。それは、すでに亡くなった人たちは、自分の死後の苦しみをまだ生きている家族や子孫のせいにして恨むのではなく、むしろ家族が死後に苦しむことがないように願っている、ということです。

本当の先祖供養は、死んだ後に冥福を祈ったり、彼らのために宗教団体に多額の寄付をしたりすることでもありません。まだ生きている私たちが、イエスさまを信じて罪の赦しを受け取り、神さまの子どもにしていただき、死んだ後も続く本当の幸せを手にすること。それこそ、本当の先祖供養ではないでしょうか。

聖書に立ち返ろう

奇跡は、すでに信じている人にとっては大きな励ましとなります。しかし信じようとしない人の場合には、奇跡が信仰を生み出すことはありません。

聖書が教えていることに耳を傾けること。それが祝福された人生を手に入れる鍵だとイエスさまはおっしゃいます。困難な状況の中で奇跡を求めることは大切ですが、それ以上に聖書の言葉によって信仰が強められ、どんな状況の中でも平安や希望を保ち続けることができるよう求めましょう。
聖書によれば、私たちは良いことをしたから救われるのではありません。良いことをしたから神さまに愛されるわけでもありません。

モーセの律法を初めとする各時代の律法、神さまの命令は、救いの条件ではなくすでに救われた人々がいかに生きるべきかを教えた指針です。

自分が神さまに無条件に愛され、赦され、救われ、守られ、祝福されていることを知ったとき、私たちは自然に神さまに喜ばれることをしたい、神さまの命令を守りたいという願いがわき上がっていきます。では具体的にどんな生き方をしたらいいか、それを教えているのが聖書の命令、律法です。

私たちが罪を犯すのは、自分がどんなに愛されているかを忘れているときです。そうではありませんか? 自分がどんなに神さまに愛されているか、イエスさまに愛されているかを自覚し、感謝しているときは、とても自発的に神さまに逆らうことをしようという気にはなれません。

「何をすべきか」「何をすべきでないか」を考えることは大切ですが、それよりもどんなに自分が神さまに愛されているかを考える方がもっと大切です。

そして、私たちが確かに神さまよって赦され、愛され、考えられないような祝福の約束をいただいているということを、聖書を通していつも学び続けましょう。決して、私たちの感覚で判断してはいけません。私たちがどう思うか、人がどう言うか、メディアがどう言っているかではなく、「聖書にそう書いてある」、それこそ私たちの信仰の土台、平安や希望や喜びの源です。

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