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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

失望に終わらない祈り

イエス・キリストの生涯シリーズ67

ルカによる福音書18章1節〜14節

(2024年2月18日)

不正な裁判官とやもめのたとえと、パリサイ人と取税人の祈りのたとえは、イエス・キリストが弟子たちに祈りの極意を教えたものです。

礼拝メッセージ音声

参考資料

2節の「人を人とも思わない」というのは、他人を尊重しない、敬わないという意味です。

8節の「人の子が来るとき」とは救い主が再臨なさるときです。再臨の救い主は神の敵を滅ぼし、理想的な王国(神の国、天の御国、千年王国)を建設して信者をそこに住まわせると預言されています。

10節の「パリサイ人」は、ユダヤ教の一派パリサイ派に属する人です。モーセの律法以外にたくさんの戒律を作って、民衆に守るよう教えていました。

10節の「取税人」は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国に納める税金を徴収するため、ユダヤ人の中から選ばれた役人です。ほとんどの取税人が規定よりも多く徴収して差額を懐に入れていたので、一般のユダヤ人たちから忌み嫌われていました。

14節の「義と認められ」るとは、「神さまに受け入れられるための基準を満たしたと認められた」という意味です。ただし人間はすべて罪人なのですから、誰かが神さまに義と認められたということは、その人の罪が赦された、すなわち「救われた」ということを意味します。

イントロダクション

私たちクリスチャンは、神さまに祈ることができます。うれしいときも、苦しいときも、私たちは全知全能の神さまに近づき、自由に話をし、交わることが許されています。それは何という安心、何という喜び、何という素晴らしい特権でしょうか。

今回の箇所でイエスさまは、2つのたとえ話を通して祈りについて大切なことを教えてくださっています。それを学ぶことによって、私たちがますます神さまと近づき、どんな状況でも平安や希望を味わうことができるようになります。

1.祈りに関する2つのたとえ話

不正な裁判官とやもめのたとえ

教えの目的
(1節)いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

聖書の意味を解釈する際には、どうしてこの言葉が語られたのかという目的を押さえることです。そうすれば、間違った私的解釈を施す危険を回避できます。

イエスさまはこれから語る教えの中で、いつも祈るべきであって、失望してやめてしまわないようにということを、信者である弟子たちに(そして私たちに)教えようとなさっています。
ひどい裁判官
(2節)「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

まず裁判官が登場します。この人は神を恐れない人でした。すなわち神さまを信じず、神さまの教えなど無視して生きていたということです。そして、「人を人とも思わない」とも書かれています。

おそらく裁判に臨むに当たって当事者に賄賂を要求し、賄賂をくれたらその人に有利な判決を出してやるというような、とんでもなく不正な裁判官だったのでしょう。
やもめの訴え
(3節)その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

2人目の登場人物はやもめ、夫を亡くした未亡人です。この人があの不正な裁判官のところにやってきて、自分を守ってくれるよう願います。身に覚えのない借金の取り立てを受けていたのかもしれません。
裁判官の独白
(4-5節)この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」

この当時は女性が働く場はほとんど無く、福祉も充実していません。ですから、夫を失った未亡人は、成人した息子がいなければ経済的に非常に苦しい生活を強いられました。

この裁判官は彼女から賄賂をもらうことが期待できないということで、面倒がってやもめの願いを無視していました。

しかし、やもめはひっきりなしにやってきて「自分の権利を守ってください」と叫び続けます。それがあまりにもしつこくうるさいため、ついに裁判官は根を上げてしまいました。そして、裁判を開いて厄介払いをしてやろうと考えました。

これが1つめのたとえ話の内容です。
まして神は
(6-7節)主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

イエスさまがおっしゃっているのは、不正な裁判官であってもやもめがあきらめないでしつこく願い続けたら、その願いを聞いてくれたのだから、神さまに対して祈るときも途中であきらめないで祈り続けなさいということです。

ただし、神さまは私たちのしつこさに負けて祈りを聞いてくださるわけではありません。私たちが大声で祈るから、「うるさいな」と思ってしぶしぶ聞いてくださるというわけでもありません。

「まして」という言葉に注目しましょう。あんなにひどい裁判官でさえやもめの話を聞いてやったのだから、正義と慈愛に満ちた神さまがあなたたちの祈りを面倒がって聞かないなどということがあるはずがない。イエスさまはそうおっしゃっているのです。

そしてその祈りとは、特にさばきを求める祈りです。これは地上に神の国が実現することと関連しています。

聖書の預言によると、救い主が来られると地上に理想的な王国である神の国(天の御国、千年王国)が実現します。そしてその前に、救い主はすべての神の敵を滅ぼしてしまいます。その神の敵は、イスラエルを滅ぼそうとしますから、敵が滅びるということはイスラエルに平和がもたらされるということでもあります。

福音書の時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にあって、様々な苦しみを味わっていました。そこで、特に救い主の到来と神の国の実現、そして神の敵へのさばきが待ち望まれていたのです。

ところが、イスラエルの民が祈っても祈っても神の敵は滅ぼされません。それでも必ず神さまが約束を果たしてくださると信じ、あきらめないで祈り求め続けなさいとイエスさまはおっしゃっています。
信仰が見られるだろうか
(8節)あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

神さまは神の民の祈りに応えてくださいます。しかし、とイエスさまはおっしゃいます。救い主が神の敵を滅ぼし、理想的な神の国を作って信仰者を招くその時、地上に信仰者がいるや否やと。

神さまと救い主に対する信仰がなければ、神の国に招かれる側ではなくさばかれる側、すなわち永遠の滅びを招く側になってしまいます。

そして、そのことを教えるために、イエスさまは2つめのたとえを語られました。

パリサイ人と取税人の祈りのたとえ

2つ目のたとえが語られた対象
(9節)自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

2つめのたとえが語られた対象は、自分のことを正しいと思い込んでいて、他の人のことを正しくないとして見下している人たちです。

具体的にはパリサイ人のことだと考えられます。というのも、2つ目のたとえ話にはパリサイ人ともう一人が登場しますが、パリサイ人の方は傲慢で他人を見下し、神さまに受け入れられなかった人物として描かれているからです。

2人の登場人物

(10節)「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

パリサイ人とは、ユダヤ教の一派であるパリサイ派に属する人のことです。彼らは神さまがユダヤ人に与えた命令体系であるモーセの律法を忠実に守ろうという人たちの流れを汲みます。

パリサイ人たちは律法を守るために律法のそれぞれの命令を詳しく研究しました。そして、そこから派生する何万という細かい規則を作り、それを守るよう人々を教えました。この規則を福音書では「言い伝え」と呼んでいます。

ところが、パリサイ派が教える言い伝えはモーセの律法に矛盾したり、モーセの律法の精神に反したりするものも数多くありました。たとえば、「安息日には仕事をせず休みなさい」という律法の教えから、「安息日に病気や怪我で苦しんでいる人をいやしてはいけない」というような言い伝えが作られています。

もう一人の取税人は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国に仕えるユダヤ人の徴税係です。取税人たちのほとんどは、本来納めるべき額以上に税金を取り立てて、差額を自分の懐に入れていました。

ですから取税人は裕福でしたが、民衆からは盗人同様に忌み嫌われていました。パリサイ人たちは民衆に対して、取税人とは付き合ってはいけないと命じていたほどです。

そんなパリサイ人と取税人が、祈るために神殿にやってきました。
パリサイ人の祈り
(11-12節)パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

パリサイ人の祈りは、自分のすばらしさを神さまにアピールするものでした。しかも、他の人たちと比較して自分が立派だと祈っています。特に、一緒に神殿にやってきた取税人を引き合いに出して、あんな奴と自分では比べものにならないと主張しています。

確かにパリサイ人はとても道徳的で真面目でストイックな生き方をしていました。そして、対する取税人はローマ帝国の権威を使って人々から搾取する悪者です。民衆に彼らのどちらが立派かと尋ねたら、まず全員がパリサイ人の方に軍配を上げるでしょう。
取税人の祈り
(13節)一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』

パリサイ人に見下された取税人はというと、まず礼拝する場所の後ろの方に立ちました。神殿の真ん中に聖所という建物があって、その中に神さまが臨在なさる至聖所と呼ばれる場所があります。ここは大祭司だけが、しかも年に1回だけ儀式のために入ることが許された、非常に聖い場所です。

取税人は、そんな聖い場所に自分のようなひどい罪人が堂々と近づくことなどできないと感じて、物理的に離れた場所にしか立てなかったのです。天を見上げることなくうつむきながら祈ったのも、同じ理由です。普通は顔を上げ、両手を天に差し伸べながら祈りました。

しかし、そんな彼が神殿に入ることそのものをあきらめなかったのはなぜでしょうか。それでもどうしても神さまに祈りたいこと、聞いていただきたいことがあったからです。

取税人は神さまに祈りました。「罪人の私をあわれんでください」。自分の胸を打ちたたきながらそう祈ったのは、彼の悲しみを表しています。自分が神さまのみこころに反する生き方をしていること、そしてそれを自分の力では改めることができないほど自分が弱くてひどい存在だということ、それに対する悲しみです。

パリサイ人と違って、取税人は自分自身に絶望していました。神さまに受け入れられ、神さまとの関係を回復するために、自分の正しさやきよさを示して「だから祝福してください」と求めるなんてとてもできません。

ただただ神さまのあわれみにすがるしか彼には残されていませんでした。すなわち、神さまが一方的に彼の罪を赦してくださるという道しかなかったのです。
神に受け入れられたのは
(14節)あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

イエスさまは、神さまに義と認められたのは、パリサイ人ではなく取税人の方だとおっしゃいました。義と認められるというのは、きよい神さまによって「あなたは私に近づき自由に交わりを持つことができる」というふうに受け入れられるという意味です。

どうして道徳的に立派なパリサイ人が退けられ、人を苦しめてきた取税人が受け入れられたのでしょうか。それは、パリサイ人が自分の罪を認めず、結果として神さまに赦しを求めなかったのに対して、取税人は自分の罪を認めて赦しを求めたからです。

人間はみんな罪人です。パリサイ人のように人々から尊敬されている人であっても、聖くて完全な神さまが要求なさる水準には遠く及びません。罪とは神さまの存在を認めなかったり、そのすばらしさを値引いたりすることです。そして、神さまの命令を無視して自分勝手な生き方をすることです。

罪人は、そのままでは聖い神さまと交わることができません。神さまは罪を憎まれるからです。罪人と神さまとは敵対関係にあって、本来なら親しい交わりや祝福を期待することはできないはずです。

だから神さまに受け入れられ、神さまと親しく交わり、神さまからの祝福を余すところなく味わうためには、罪を取り除く必要があります。しかし、人間は自分の力では罪を取り除くことができませんから、神さまによって一方的に赦していただく必要があるのです。。

そして、なんと聖書の神さまは赦しの神です。罪を認めて赦しを求める人には、喜んで手を差し伸べて関係を回復してくださいます。

パリサイ人は自分は立派だと思っていましたから、罪を認めず、当然赦しも求めませんでした。一方の取税人は自分のどうしようもなさに絶望していましたから、罪を認めて赦しを求めました。その結果、パリサイ人は赦されずに退けられ、取税人が赦されて受け入れられました。

そして、取税人は将来救い主が神の国を打ち立てた時にはそこに招かれる権利を手に入れました。しかし、パリサイ人は少なくともその時点ではその権利を受け取ることができませんでした。まだ神さまの敵の立場のままです。

これが「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という意味です。

それではここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神は私たちの祈りを聞いてくださる

神はいやいやながらではなく喜んで聞いてくださる

私たちクリスチャンの強みはどこにあるのでしょうか。お金をたくさん持っていることではありません。さまざまな才能に恵まれていることでもありません。政治的な力を持っていることでもありません。

私たちの強みは、全知全能の神さまの子どもだということです。私たちは神さまの子どもにしていただき、神さまに愛され、守られ、本当の幸せに向かって着々と導かれています。私たちは自分一人だけの力でこの世の荒波を乗り越えていくのではなく、全知全能の神さまと一緒に乗り越えていくことができます。
喜んで
親が子どもの話に喜んで耳を傾けるように、神さまは私たちの祈りに喜んで耳を傾けてくださいます。あの不正な裁判官のように、いやいやながら仕方なくという態度ではありません。喜んで、です。
私たちは自分一人だけの知恵や力ではどうしようもない事柄に関して、神さまに祈り神さまが働いてくださることをお願いすることができます。すると、神さまはその祈りに応えて、最も良い状態にしてくださいます。
神は成長を望んでおられる
といっても、私たちは何もしないで神さまに丸投げしていいということではありません。たとえば、神さまが私たちの生活を支えてくださるよう祈って、あとは仕事もしないでゴロゴロしていいということではありません。

神さまは私たちのことを子どもとして愛し、神の子どもとしてふさわしい存在、御子イエスさまに似た存在になるまで成長していってほしいと願ってくださっています。ですから、聖書を学び、神さまが私たちにどんな生き方、行動をすることを求めていらっしゃるかを知って、それを実行していかなければなりません。
不完全だから祈る
それでも私たちは不完全ですから、完璧に神さまのみこころ通りの生き方ができるわけではありません。だからこそ、神さまに祈り、神さまの助けを求めながら生きていく必要があるのです。

そして、そんな私たちの祈りに、神さまは耳を傾けてくださいます。そして、全知全能の力で私たちにとっても世界にとっても最も良いことをしてくださいます。

いつでもどこででも祈っていいという権利が与えられているのは、何という幸いで名誉なことでしょうか。

傲慢さは神との関係を邪魔する

しかし、今回の2つ目のたとえ話は、傲慢さは神さまとの親しい関係を邪魔することを教えています。

私たちは自分の正しさ、自分の行ないの立派さによって、ごほうびとして神さまに受け入れられるわけではありません。一方的に罪を赦していただいて、初めて神さまと交わることができるようになりました。

私と家内の母教会の牧師夫人がこんなことをおっしゃいました。「私たちの問題は、私たちが弱いことではありません。むしろ強すぎることです。私たちはいつの間にか神さま抜きでも大丈夫になっていなかったでしょうか?」と。
人力車の上で
あるいは、まったく神さまに祈ったりゆだねたりしていないわけではないけれど、肝心なところでは頼らないということがなかったでしょうか。

この話をお読みください。
ある時、人力車の人夫さんが空の車を引いて坂道を登っていると、大きな荷物を背負って歩くおばあさんに出会いました。

人のいい人夫さん、おばあさんに声をかけました。「ばあちゃん、乗っていきなよ。なあに、同じ方向だ、車代なんぞいりゃしねえ。出血大サービスでぃっ!」ってなもんで、「いえいえ、そんなもったいない」と遠慮するおばあさんを、半ば無理矢理車に乗せました。

走り出してふと振り返ると、おばあさん、相変わらず大きな荷物を背負っています。「ばあちゃん、せっかく車に乗ってるんだ。荷物、降ろしなよ」と人夫さんが言うと、「いえ、せめてこれだけでもあんたさんの荷を軽うせにゃ、バチがあたるぞなもし」。

でも、私たちも神さまに対して、このおばあさんと同じようなことをしてしまうのですよね。神さまを信じていると言いながらも、いろいろなことについ一喜一憂してしまう私たちです。せっかく神さまの御手の中にいるのですから、重荷も全部ゆだねたいものです。

(当サイト「ショートエッセイ」より)
どこまで行っても私たちは不完全です。それを素直に認めて、神さまの赦しと助けを求めましょう。

神の恵みに期待し続けよう

そして今回のイエスさまの話は、神さまは私たちを赦し、受け入れてくださることを教えています。しかも神さまは、私たちの罪が赦されるために、ご自分の方から大変な犠牲を払ってくださいました。

罪のないお方、御子イエスさまが十字架にかかって血を流し、命をささげてくださったのです。それによって、本来私たち人間が罪の報いとして受けるはずだった罰が、私たちではなくイエスさまに注がれました。

そして、「自分の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかけられた。それから死んで葬られ、3日目に復活した」と信じるだけで、本当に罪が赦されて神の子どもにしていただけます。その代価として何か立派な行ないをする必要も無いし、献金も必要ないし、特別な修行も必要ありません。ただ信じるだけです。

自分の不完全さ、罪深さにがっかりして、「こんな自分が神さまに愛されているなんてとても思えない。こんな自分が神さまに守られ、導かれ、幸せになれるなんて思えない」。そんなふうに感じることがないでしょうか。

しかし、そんなときはイエスさまの十字架の愛を思い出しましょう。聖書の神さまが赦しの神、恵みの神であることをどんな時も忘れないようにしましょう。そして、いつも感謝しながら生きていきましょう。

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