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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

金持ちの青年との対話

イエス・キリストの生涯シリーズ69

マルコによる福音書10章17節〜27節

(2024年3月3日)

金持ちの青年が、永遠のいのちを得るため(すなわち救われるために)に何をすればいいかとイエス・キリストに質問した場面です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

17節の「一人の人」は、ルカ18:18では「指導者」(新共同訳「議員」、口語訳「役人」)と呼ばれています。またマタイ19:20や22では「青年」と呼ばれています。

17節の「永遠のいのち」について、イエスさまは次のように語っておられます。
(ヨハネ17:3)「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」。
永遠のいのちを持っているとは、神さまと仲良しであること。すなわち「救われている」という意味です。

24節の「神の国」とは、救い主が地上に実現する理想的な王国のことです(天の御国、千年王国)。神の国に入るとは、救われるという意味です。

イントロダクション

永遠のいのちを持つとは、参考資料に書いたように神さまと仲良しであるということです。全知全能の神さまと仲良しだということは、私たちにとってどれほどの安心材料でしょうか。

ただ、今回取り上げるのは、カルトに悪用されそうな箇所です。カルトの教会なら、今回のイエスさまの教えを使って「全財産を教団に献金しなければ救われない」と教えることでしょう。しかし、今回の箇所はそういうことを教えているわけではありません。

そこでカルトに騙されないために、そして私たち自身が「何があっても大丈夫」という平安をいつも保ち続けられるために、今回の箇所の意味をしっかりと学びましょう。

1.永遠のいのちを得るには

青年とイエスの対話

青年の質問
(17節)イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

イエスさまは十字架にかかるため、エルサレムへの最後の旅を続けておられます。そこに一人の人が近づいてきました。この人については、ルカ18:18では「指導者」と呼ばれています。またマタイ19:20や22では「青年」と呼ばれています。また、後で出てきますが大変なお金持ちでした。つまり、若くして社会的成功者だったのです。

そんな青年が、イエスさまの前にひざまずいて質問しました。

まず青年は、イエスさまのことを「良い先生」と呼びました。「尊い先生」とも訳せる言葉で、イエスさまに対する深い尊敬が表れています。

青年の質問は、永遠のいのちを受け継ぐために何をすべきかと言うことでした。永遠のいのちを受け継ぐというのは、別の表現を使えば「救われる」という意味です。救われるために自分がしなければならないことを尋ねたのです。
良い方は神おひとりのみ
(18節)イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。

本当の意味で「良い」と呼べるお方は神さましかいない。これは聖書が教える真理です。では、「なぜ、私を『良い』と言うのか」とイエスさまはおっしゃったのでしょうか。ご自分のことを神ではないとおっしゃったのでしょうか。そうではありません。

18節の言葉は、青年から信仰告白を引き出すためのものです。「良い先生」という呼びかけが、イエスさまのことを人となられた神、救い主だと信じての言葉なのか、それとも単に人間の中ですばらしい存在だという意味の言葉なのか、どちらなのかという問いかけです。

もちろんイエスさまは、彼がイエスさまのことを人となられた神、救い主だという信仰を持ってほしい、それをはっきりと告白してほしいと願っておられます。ところが、この青年はイエスさまの問いかけに答えることができませんでした。

そこでイエスさまは言葉を続けます。
モーセの律法を守れ
(19節)戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」

イエスさまはモーセの律法の中で、6つの命令を取り上げて青年に語りました。これはこの6つだけ守ればいいという意味ではなく、モーセの律法すべてを守れということです。
青年の自負
(20節)その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」

青年は子どもの頃からモーセの律法に従って生きてきたと言いました。

さらに、マタイ19:20では次のように続けています。「何がまだ欠けているのでしょうか。」この青年が、熱心に救いを求めていたことが分かります。
イエスの命令
(21節)イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

イエスさまは、この青年を愛情深く見つめ、また優しく語りかけました。この熱心な青年に、何としても救われてほしいという願いがこめられたまなざしと語り口です。

しかし、イエスさまが語られた内容はかなり厳しいものでした。語られたのは、2つの命令です。
  1. 全財産を貧しい人たちへの施しに用いること。
  2. イエスさまのフルタイムの弟子となって従ってくること。

立ち去る青年とイエスの嘆き

立ち去る青年
(22節)すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

イエスさまの言葉を聞いた青年は悲しみながら立ち去りました。その理由は、イエスさまが全財産を施しに用いろとおっしゃったからです。彼は大金持ちだったので、それを手放すのが惜しいと思ってしまいました。そして自分にはそんな条件をクリアするのは無理だと考えたのです。
イエスの嘆き
(23節)イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」

イエスさまは弟子たちに「金持ちが救われるのは難しい」とおっしゃいました。
弟子たちの驚き
(24節前半)弟子たちはイエスのことばに驚いた。

弟子たちはイエスさまの言葉に驚きました。というのも、当時のユダヤ人の常識では、お金持ちというのは神さまに祝福されている存在だと考えられていたからです。
ダメ押し
(24節後半-25節)しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

イエスさまは金持ちが救われることの難しさを、ラクダが針の穴を通るより難しいと表現なさいました。それは捨てなければならないものが多すぎるからです。
弟子たちのさらなる驚き
(26節)弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

神さまに祝福されているはずのお金持ちがそれほど救われにくいというなら、一般人が救われるのはもっともっと困難です。弟子たちの驚きの声はそんな思いの表れでした。
人にはできないが神にはできる
(27節)イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」

イエスさまは弟子たちをじっと見つめました。これから語る言葉が、非常に重要だということを示しています。

その重要な言葉とは、人は人を救うことはできないけれど、神さまにはそれが可能だということです。

あの金持ちの青年は、「救われるためには何をしなければなりませんか」と尋ねました。すなわち、救いを自分の力で獲得することができると考えていたということです。そこでイエスさまは、神さまが行ないを救いの条件になさるならどれほど厳しい要求をなさるかということを、「全財産を売り払え」という命令によってお示しになりました。

あの青年は、モーセの律法を完璧に守っているという自負がありました。しかし、それは表面的な行ないの部分だけであって、内面も完璧だということではありませんでした。あの青年は、イエスさまの命令によって、神さまよりもお金の方に執着していることを示されました。

自分の行ないによって救われると考えているうちは、あの青年は救いを手に入れることはできません。この出来事の後、青年がどうなったかは記されていません。熱心に救いを求めていた青年ですから、いつかどこかで自分の間違いに気づいて救われていて欲しい、やがて私たちが天国に召されたときにそこで彼の魂と出会うことができるようにと願います。

では、行ないによって救われるのでないなら、いったい救いに何が必要なのでしょうか。

それを知るために、直前の箇所に注目しましょう。

直前の箇所

13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。


この当時、子どもはもちろん親に愛されていましたが、同時に人間としては不完全で劣った存在だと考えられていました。弟子たちが子どもたちをイエスさまに近づけさせないようにしたのも、劣った人間は偉大なイエスさまにはふさわしくないと考えたからです。

しかしイエスさまは、むしろ神の国は子どもたちのような存在のためのものだおっしゃいます。そして、子どものように神の国を受け入れないと決してそこに入れない、すなわち救われないとおっしゃいます。
では「子どものように神の国を受け入れる」とはどういう意味でしょうか。

古代の子どもは劣ったものと考えられていたため自然に謙遜さが身についていました。自分を大人より偉いとは思っていません。ですから、子どもは大人が「贈り物をあげるよ」と言えば、素直に信じて喜びます。

それと同じように、神さまが救ってあげようとおっしゃる約束を信じて受け入れなければならないとイエスさまはおっしゃっています。

それは、救われるために必要な条件はすべて救い主が代わりにクリアしてくださるからです。救い主であるイエスさまは罪人の身代わりに罪の罰を受けて十字架で血を流してくださいます。そして、死んで葬られますが、3日目に復活なさいます。それによって、神の敵である罪人としての私たちは死んでいなくなり、新しく神さまの子どもとして生まれ変わるのです。

そして、そのことをただ信じるだけで、私たちは本当に救われて神さまの子どもにしていただけます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の恵みの中を生きていこう

謙遜であり続けよう

今回の箇所は、私たちが傲慢ではなく謙遜さを身に着けることを勧めています。といっても、謙遜であるということは、自分はダメ人間だと自分で自分のことを叩くことではありません。謙遜とは、自分の現在の実力を素直に認めることです。

私は昔から自分に自信がなくて、ちょっとしたことで「自分はダメだ」と落ち込んだり、「自分には無理だ」とチャンスに飛び込んでいけなかったりしました。そんな自分についてある牧師先生に相談したところ、その先生はおっしゃいました。「うん、それは増田くんが傲慢だからだよ」。

「たとえば君が10点の実力だとしよう。10点の実力の人が10点取れたら満点じゃないか。そして、次は11点目指してがんばればいいだけだ。なのに君は本当の自分は80点だと思っている。だから、失敗や挫折によって10点の実力だということを見せつけられると、「こんなはずはない」と思って落ち込むんだ。そして、失敗して自分の本当の実力が自分や周りの人にばれるのが怖いから、引っ込み思案になって何もしない道を選ぶんだ」。

まさにその通りです。その言葉を結構忘れてしまって、今でも落ち込んだり躊躇したりすることもあります。しかし、それでも気づいたときには思い出して、「11点目指してがんばろう」と自分に語りかけています。

あなたはいかがでしょうか。どこか傲慢になってはいなかったでしょうか。本来の自分よりも自分を高く見せようとして、落ち込んだり引っ込み思案になってしまったりしていなかったでしょうか。あるいは人に対して偉そうな態度になったり、他の人を見下す気分になったりしていませんでしたか?

そして、あなたにとって「11点を目指してがんばる」とは具体的に何をすることでしょうか。

本当の謙遜は、自分の力では達成できません。私たちは何よりも偉大な神さまと出会って、本当の謙遜を身につけることができます。聖霊なる神さまが私たちの傲慢を打ち砕いてくださって、本当の謙遜を身につけさせてくださいますように。

一方的な赦しを信じ続けよう

聖霊さまによって謙遜にさせられた人は、イエスさまの十字架と復活を信じることで、一方的に救われるという約束を素直に信じるようになります。
人間の行ないの正しさ、立派さによって救われるとどこかで考えていると、失敗をしたときに救いを失うのではないか、神さまに見捨てられるのではないかと感じて不安になります。

また、何かすごいことを成し遂げると、鼻高々になって他の人たちを見下すようになるかもしれません。

あるいは、カルトに引っかかって、全財産を教団に献金しないと救われないというような嘘に引っかかってしまうでしょう。今回の箇所は、全財産を献金すれば救われるというような行ないによる救いを教えていません。むしろ、行ないによっては誰も救われることはなくて、イエスさまの十字架と復活を信じることによってのみ救われるのだということを教えています。

あなたはいかがですか? 自分は本当に救われているのだろうかと不安になったり、それほど神さまに愛されていないのではないかと感じたりすることはありませんか?

私たちは信仰によって救われました。その救いは私たちの行ないによらないのですから、決して私たちから取り去られることはありません。いつも一方的に赦され、愛されているのだということを忘れないようにしましょう。

神以上の希望を手放そう

この青年は、神さま以上にお金の方を愛していたこと、神さま以上にお金の力に信頼していたことが明らかになりました。それを後になって認めて悔い改めたかどうかは分かりません。

私たちは彼がどうなったかではなく、私たち自身はどうかということを考えなければなりません。私たちには神さま以上に愛しているもの、神さま以上に依り頼んでいるものがないでしょうか。

それは財産かもしれません。それは自分の社会的な地位かもしれません。それは人間関係かもしれません。体力かもしれません。知恵かもしれません。人々からの賞賛の声かもしれません。

もちろん、それを全部捨てないと救われないということはありません。ユダヤ人の先祖だったアブラハム、イサク、ヤコブは金持ちでした。イエスさまを信じるようになったパリサイ人ニコデモも金持ちでした。彼らは金持ちのまま救われています。人間関係も、体力も、知恵も、仕事も大切ですからないがしろにしていいわけではありません。

しかし、もしも自分が持っているものや求めているものが神さま以上になっているのなら、すぐに認めて悔い改めましょう。そして、神さまを一番にしますと宣言しましょう。

この話をお読みください。
十二国記というファンタジー小説のシリーズがあります(小野不由美著)。その本編第1作目「月の影 影の海」では、高校生の女の子が古代中国によく似た異世界に飛ばされ、訳も分らないまま魔物に狙われたり、人にだまされたりしながら苦労し、最終的に12ある国のうちの一つの女王になるというファンタジー小説です。

主人公の中嶋陽子は、旅の途中で魔物に襲われ、死にかけていたところを、ネズミの姿をした人間、半獣である楽俊(らくしゅん)に助けられます。楽俊は陽子の傷の手当てをしてくれただけでなく、その世界のことをいろいろと教えてくれました。

あるとき、陽子が楽俊に、この世界の人は神に願い事はしないのかと尋ねました。たとえば豊作を願ったり、試験で良い成績を出せるように祈ったり、お金が儲かるように願ったり。

すると楽俊は答えます。「作物なんてのは天気が良くて、ちゃんと世話をすれば勝手に豊作になる。天気は天の具合だから、祈ってどうにかなるもんじゃない。試験なら勉強すれば受かる。金なんてのは稼げばたまる。神さまに何をお願いするんだ?」
(当サイト「ショートエッセイ」より)
神さま以外のものを手に入れたり増やしたりするために、しかも楽をしてそれを手に入れるために、神さまを利用するような人生になっていなかったでしょうか。私は十二国記を読んでそんな自分の姿に気づかされ、悔い改めさせられました。

神さまを一番に信頼すること、神さまを一番に愛すること、神さまとの交わりを一番に求めること。そういう私たちでありたいですね。

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