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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

後の者が先になり、先の者が後になる

イエス・キリストの生涯シリーズ70

マタイによる福音書19章27節〜20章16節

(2024年3月10日)

後の者が先になり、先の者が後になる」とは、「ぼやぼやしていると後から来た人に追い越されるから、気を抜かずがんばれ」という意味ではありません。

礼拝メッセージ音声

参考資料

19:27の「そのとき」とは、前回取り上げたエピソードを指しています。「全財産を貧しい人に施し、自分についてきなさい」と言われた金持ちの青年は、イエスさまの前から立ち去りました。

20:2の「デナリ」(デナリオン、デナリウス)は、ローマ帝国とその属国(ユダヤもその一つ)に流通していた銀貨です。1デナリは労働者1日分の給料に相当しました。
下の写真は、第2代皇帝ティベリウス(在位:AD14-37年)時代のデナリ銀貨です。表にがティベリウス、裏に母リウィアの肖像がかたどられています。

(画像引用:ティアラ・インターナショナル

イントロダクション

「後の者が先になり、先の者が後になる」という聖書の言葉を読むと、「水戸黄門」のテーマソングの歌詞、「後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け」という言葉を思い出します。

ただし、イエスさまのこの言葉は、進歩の遅い人を責めたり、叱咤激励したりするためのものではありません。イエスさまは、「この世の原則と神の国の原則は違う」ということを、教えてくださっているのです。そして、それによって私たちを励まそうとしておられます。

1.気前のいい主人のたとえ

ペテロとの対話

ペテロの問いかけ
19:27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

今回のエピソードは、金持ちの青年とイエスさまが対話して、青年が立ち去った後の出来事です。青年はイエスさまから「全財産を売って貧しい人たちに施しをし、その上でわたしについてきなさい」と言われました。しかし、そうすることができず悲しみながら立ち去ってしまいます。

前回解説したとおり、これは全財産を手放さないと救われないという意味ではありません。人間の行ないによっては救われず、神さまの恵みとそれを信じる人間の信仰によって救われるということを教えるため、イエスさまはあえてあのような厳しいことをおっしゃいました。

ところが、ペテロはイエスさまのおっしゃることがあまり理解ができませんでした。いつものことですが。そして、自分たちはあの青年と違ってすべてを捨ててイエスさまに従ってきたと言います。確かにその通りです。そして、ついてはどんな報酬が与えられるのかと尋ねました。

この問いかけの背後には、自分たちは多くのものを犠牲にしてきたのだから、当然たくさんの祝福を報酬としていただけるはずだという期待があります。
弟子たちへの報酬
19:28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。


イエスさまは、救い主が地上に建設する神の国(天の御国、千年王国)が実現したとき、すべてを捨てて従ってきた弟子たちに報酬が与えられるとおっしゃいました。救い主イエスさまが全世界を治める大王です。そして、イスラエルは12の部族に分けられて、それぞれの部族をペテロたち十二使徒が導きます。すなわち族長になるという約束です。

十二使徒だけでなく、何かしらの犠牲を払ってイエスさまに従った人たちにも、神の国が実現するとそれぞれすばらしい報酬が与えられます。
しかし
19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。

「しかし」という言葉に注目しましょう。「確かに犠牲を払ってイエスさまに従う者にはすばらしい報酬が待っている。けれど、注意しなければならないことがある」というニュアンスです。

ここでイエスさまは「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉を語られます。そして、続けてぶどう園の主人のたとえ話をなさいました。

気前のいいぶどう園の主人

労働者を求めるぶどう園の主人
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。

神の国についてのたとえ話が語られます。イエスさまは神さまのことを、ぶどう園の主人にたとえました。

ぶどうが採れる秋になると、農家は大変忙しくなります。そこで日雇いの労働者を雇って、収穫を手伝ってもらいました。
労働契約
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

日雇いの仕事を求める労働者たちを見つけた主人は、彼らと1日1デナリという契約を結んで雇い入れました。この賃金は相場通りです。
次々雇い入れる主人
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』


早朝に雇い入れた人たちだけでは、とても人手が足りません。そこで、主人は9時、12時、15時にも市場に出て行って、日雇いの仕事を求めている労働者を雇い入れました。さらに17時、あと1時間でその日の仕事が終わるという時間にも、労働者を雇い入れます。
1日の報酬
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。


1日の仕事が終わって、労働者たちに報酬が支払われました。モーセの律法は、貧しい労働者に対しては、その日のうちに賃金を支払うよう命じています(申命記24:15)。日雇いの仕事を求める労働者にとって、その日のうちに給料がもらえるというのは大変ありがたいことでした。

主人は、後から雇われた人たちから賃金を支払うよう、現場監督を任せていた自分のしもべに命じました。そこで、最初に午後5時頃に雇われた人たちが呼ばれました。

1日の仕事は朝6時頃から夕方の6時頃まで、計12時間でした。それで1デナリが相場なので、1時間しか働かなかった人は本来なら1/12デナリしかもらえないはずです。ところが、彼らに手渡されたのは、丸1日分の日当、1デナリでした。
丸1日働いた人への報酬
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。

1時間しか働かなかった人でも1デナリもらえたという話を、丸1日働いた人たちが聞きつけました。それならば自分たちはもっと多く、たとえば12デナリもらえるはずだと期待します。ところが、その期待は裏切られました。彼らがもらったのも1デナリだったのです。

労働者たちの不満と主人の返答

労働者たちの不満
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』


丸1日働いた人たちが、この処遇に抗議の声を上げました。丸1日働いた自分たちと1時間しか働かなかった連中とが同じ賃金だというのは納得いかない、と。それは当然の不満でした。
不当なことはしていない
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』

不平を鳴らす人たちに、主人は言いました。まず、あなたたちに対して自分は不当なことはしていないという主張です。元々1日1デナリという契約で、実際に1デナリを支払ったのだから、契約違反ではないと言います。

12時間以下で働いた人たちに対しても1デナリ支払ったのは、彼らに対する主人のあわれみの心から出たものです。彼らの多くは貧しい暮らしをしていました。1デナリ未満しか稼げなかったら、生活がますます苦しくなってしまいます。彼らに安心して暮らしてほしいと願って、主人は1デナリずつ支払ったのでした。

一方、丸1日働いた人たちは、確かに労働という面では大変な犠牲を払いました。しかし、1日の最初に雇い入れられたのですから、「これで1デナリ手に入る。明日も家族のためのパンが買える」という安心感を手にすることができていました。

会社でもしもこの主人がしたようなことを行なえば、社員たちは真面目に働く気が失せてしまうでしょう。事実、富を平等に分けることを理念とした共産主義の国々は、生産性が極端に落ちて、国の経済が破綻してしまったではありませんか。

しかし、このたとえ話は、会社や国をどのように運営するかを教えている話ではありません。20:1でイエスさまがおっしゃったように、このたとえ話は天の御国(神の国、千年王国)について語られたものです。

すなわち、神さまが信じる人たちをどのように扱うかということを教えるための話です。確かにこの主人の方法は、「仕事量に対する報酬」という点ではアンフェアですが、そもそも神さまがくださる祝福は「報酬」ではないのです。

神の国は、この世とは違う原則で動いています。では神の国の原則とはどういうものなのでしょうか。
まとめ
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

このたとえ話は、すべてを捨ててイエスさまに従った弟子たちに対して語られました。イエスさまは、彼らの犠牲に対して必ず報いが与えられると約束してくださいました。しかし同時に、神さまの愛は人間の善行に対する報酬ではないのだということを、このたとえ話を通して語ろうとなさいました。

1時間しか働かなかった人たちは、確かに肉体的には楽だったでしょう。しかし、彼らは日雇いの労働者です。その日働き口がなければ、明日食べるパンはどうなるのだろうという心配があります。彼らは、そういう不安を抱えながら一日を過ごしていました。

一方、長時間働いた人たちは、確かに暑い中、大変な労働をしなければなりませんでした。しかし、彼らはその代わりに、明日のパンを心配する必要はありませんでした。

彼らはそれぞれに痛みを抱えていました。この主人は、彼ら日雇い労働者たちみんなを愛し、心配していました。ですから、長時間働いた人にも、1時間しか働かなかった人にも、彼らの明日の生活が支えられるだけの賃金を支払ったのです。

神さまも、私たちすべてのクリスチャンが安心して暮らしてほしいと願われます。そして、仕事量に対する報酬としてではなく、一方的なプレゼント、すなわち恵みとして祝福をくださいます。
この世の原則では出来高制で報酬が与えられます。しかし神の国の原則では、神さまが皆を愛し、皆を一方的にプレゼントとして祝福しようとしてくださいます。

こうして、19章の最後に語られた言葉、「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉が語られます。ですからこの言葉は、ぼやぼやせずに頑張り続けろいう叱咤激励の言葉ではなく、神さまからの祝福は私たちの奉仕や犠牲に対する対価ではなく、愛に基づく恵みだということを教えたものです。

ペテロたちは様々なものを犠牲にしてイエスさまに付き従いました。そして、だから多くのものを神さまからいただけると期待していました。イエスさまも、確かに彼らにはすばらしい祝福が与えられると約束なさいました。

しかし、そのような考え方をしていると、ともすれば少ししか犠牲を払っていないように見える人、少ししか奉仕をしていないように見える人を見下す態度につながります。実際、当時のイスラエルではそのような考え方が蔓延していました。
  • 神さまに熱心に仕えているユダヤ人は多くの祝福をいただくが、異邦人の改宗者は少ししか祝福されない。
  • 神さまに熱心に仕えているパリサイ人は多くの祝福をいただくが、一般民衆は少ししか祝福されない。
そして、ユダヤ人が異邦人を見下したり、パリサイ人が一般民衆を見下したりしていたのはご存じの通りです。

ペテロよ、そして他の弟子たちよ、とイエスさまは語りかけます。犠牲を払ってわたしに従ってくることはすばらしいことだし、神さまも必ずそれに報いてくださる。でも、それを誇りにして他の人を見下すようにはなってくれるなよ。神さまはすべての人を愛し、すべての人が平安に喜びに満たされながら暮らすことを望んでいらっしゃるのだから、と。

それが「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉が語られた意味です。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.恵みの原則で生きていこう

人と比較しない

時々、他の教会のクリスチャンの方からメールをいただきますが、「教会生活がしんどくなった」という相談が結構来ます。教会の中に自分のことを批判する人がいて、自分があまり熱心に奉仕をしていないと責めてくるのでつらいというのです。

そのように他人を責める人は、神さまの愛は出来高制だと誤解をしています。そして、他の人と自分を比較して自分の方が偉い、自分の方が神さまに愛されていると誤解しています。また、責められて落ち込んでいる人も同じように誤解し、自分と他人を比較して自分で自分のことを責めてしまっています。
多く働いた人のことも、少ししか働かなかった人も、このたとえ話の主人は等しく心配し愛情を注ぎました。神さまも、私たちのことを等しく愛してくださっています。

ですから、他の人と自分を比較して、どちらが熱心だとかどちらがより多くの犠牲を払っているかとかいうことに、心を奪われないようにしましょう。

その代わりに……

今注がれている祝福に感謝する

神さまの愛は一方的な恵みとして注がれているということを知り、現にこの自分にもそれが注がれているということを知りましょう。そして、その証拠を数え上げてみましょう。

丸1日働いた労働者たちは、仕事が大変だったということしか見えていませんでした。主人が朝早くに自分たちを雇ってくれたから、その時点で明日のパンを心配しなくてすむようになった、1日中安心して働けたという事実を見ていませんでした。

もしも彼らがその祝福に目を留め、喜び、主人に感謝していたなら、遅れてきた仲間たちが主人のあわれみによって救済されるのを見て、共に大喜びできるはずでした。

私たちも自分が持っていないものにではなく、すでに与えられているものに目を留めましょう。そして、それを与えてくださっている天の神様に感謝し大いに喜びましょう。

そうすると、他の人に対する接し方もさらにすばらしくなります。すなわち……

他の人に加点法で接する

人に対する評価には減点法と加点法があります。

減点法とは、理想状態を100点満点として、現実のその人が理想からどれだけ足りていないかと評価するやり方です。たとえばテストで70点というのは、70%できたという意味ではなく、理想状態から30%できていないという意味です。

学校で減点法を使うのは、できなかったところを復習すれば成長できるわけですから問題ありません。しかし、人間としての価値を減点法で評価するのは問題です。減点法で人と接するということは、「あなたのここが足りない」「ここもできていない」というふうに、相手を責めることにつながります。

そうすると、よっぽど自信のある人なら「なにくそ」と奮起して成長できますが、そうでない人だと「自分はダメだ」と落ち込んでやる気を失ってしまうでしょう。

一方加点法とは、スタート時点を0点として、その後何ができるようになったか、何を身につけたかということを1つ1つプラスしていく評価法です。スタート地点がみんな違いますから、他の生徒と比較することは難しいです。

しかし、こと自信という点においては減点法より加点法の方が優れています。というのも、相手のできているところ、プラス面に注目するからです。

私たちは自分自身を加点法で評価して、すでに神さまによって与えられている恵み、祝福を数え上げましょう。そして大いに喜び、神さまに感謝しましょう。さらに、他の人のことも加点表で評価して、それを相手に伝えましょう。

「あなたにはこういう長所、持ち味がすでにある。あなたにはすでにこういうものが神さまによって与えられている」ということを他の人に積極的に伝えましょう。そして、「そういうあなただから、必ずこんなふうになれる」と励ましましょう。

今日家にお帰りになったら、自分にすでに与えられているもの、他の人に与えられているものを数え上げてみましょう。そして、それを自分やその人に伝えましょう。

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