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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ヤコブとヨハネの抜け駆け

イエス・キリストの生涯シリーズ71

マタイによる福音書20章20節〜28節

(2024年3月17日)

使徒ヤコブヨハネの兄弟が、千年王国で王であるイエスさまの左右の座に着きたいと願ったエピソードです。そこでイエスさまは、真のリーダーとはどういう人のことかを説かれました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

20節の「ゼベダイの息子たち」は、使徒ヤコブとヨハネ。母の名はサロメで、イエスさまの母マリアとは姉妹だったと考えられています(十字架のそばにいた女性たちについて書かれたマタイ27:56、マルコ15:40、ヨハネ19:25参照)。この説が正しければ、イエスさまとヤコブ・ヨハネ兄弟はいとこ同士ということになります。

21節の「あなたの御国」とは、救い主が地上に実現すると旧約聖書で預言されてきた理想的な王国、千年王国(神の国、天の御国)のことです。

28節の「人の子」とは、元々は人間という意味ですが、イエスさまはご自分のことをそうお呼びになりました。これは、イエスさまがご自分のことを救い主だと宣言しているのと同じです。ダニエル書7:13は、やがて来る救い主のことを「人の子のような方」と表現しているからです。

28節の「購い」(あがない)とは、いったん自分の手を離れてしまった物や人を、代価を払って買い戻すこと。特に聖書では、罪人の罪を神さまに取り消していただくため、犠牲を払うこと(獣や鳥のささげものなど)。その中でも特に、イエス・キリストが十字架で全人類の罪の罰を身代わりに受けて、我々が罪の責めを負うことがなく、神さまの子どもになれるようにしてくださったことを指します。

イントロダクション

今回のエピソードを通して、イエスさまは神さまが評価なさる偉い人がどういう性質を持っているか教えておられます。それを通して、私たちが他の人と仲良く、そしてお互いに幸せに生きていくため、どういう行動をすればいいか学びましょう。

1.真のリーダーシップについての教え

ヤコブとヨハネの母の願い

ゼベダイの息子たちの母の行動
(20節)そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。

ゼベダイの息子たち」というのは、十二使徒であるヤコブとヨハネの兄弟のことです。その母親は、参考資料にも書きましたがサロメという名前だったという説が有力です。ここではサロメと呼びたいと思います。

ヤコブとヨハネの母親であるサロメが、イエスさまに何かお願いしようとしていました。
サロメの願い
(21節)イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」

旧約聖書には救い主とその王国についての預言がたくさんあります。救い主が来られると、地上に理想的な王国ができて、救い主が世界中を治めて平和と繁栄をもたらすと約束されています。

サロメには信仰がありました。救い主によって神の国が地上に実現するという信仰、そしてその救い主がイエスさまだという信仰です。

サロメは「救い主の王国が完成した暁には、王であるイエスさまの左右に息子たちを座らせると約束してほしい」と願いました。つまり、神の国の大臣にしてほしい、しかも大臣たちの中で第1位と2位の地位に就けてほしいということです。
  • ちなみに、平安時代などの日本では左大臣の方が右大臣より上位でしたが、古代イスラエルの王宮ではその逆で、右の座に座る大臣の方が左の大臣より上でした。

イエスとヤコブ・ヨハネとの対話

イエスの質問
(22節前半)イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

サロメが語った願いは、サロメだけのものではありませんでした。ヤコブとヨハネも母親と同じ願いを持っていたのです。ですからイエスさまはサロメに向かって「あなたは」と語りかけたのではなく、3人に向かって「あなたがたは」と語っておられます。

そして、イエスさまは3人が神さまのご計画に関して無知であることを指摘なさいました。

さらに、彼らのことをなぜ無知とおっしゃったのかを明らかにするため、ヤコブとヨハネに向かって質問なさいました。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」というのがその質問です。

杯というのは、旧約聖書ではよく神さまのさばきの象徴として用いられています。杯に入っているのは真っ赤なぶどう酒で、これが血をイメージさせるからです。

ですからこの「私が飲もうとしている杯」とは、イエスさまが神さまのさばきを受けることを指しています。神の御子であり、罪がないお方がどうして神さまにさばかれるのでしょうか。それは、人類の罪の罰を身代わりに受けることによって、人類に罪の罰が及ばないようにするためです。

すなわちこの「私が飲もうとしている杯」とは、十字架にかかって血を流し、死ぬことを指しています。イエスさまは、神さまの人類救済計画の実現のために、十字架にかかって死ぬ苦しみの道を進もうとしておられます。
十字架と復活の預言
実は今回のエピソードの直前で、イエスさまは十字架と復活の話を十二弟子だけに話しておられます。

(17-19節)さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

しかし、ヤコブもヨハネも、また他の使徒たちも、実際にイエスさまが十字架にかかって死ぬまでそれが起こると思っていませんでしたし、当然その後復活するなんてまったく信じていませんでした。

その直後に起こったのが今回のエピソードです。ですから、ヤコブもヨハネもイエスさまがおっしゃった「私が飲もうとしている杯」が、これからイエスさまが体験なさる苦しみのことだとはまったく理解できていません。そこで……
ヤコブとヨハネの返答
(22節後半)彼らは「できます」と言った。

ヤコブとヨハネは「イエスさまが飲もうとしておられる杯を飲める」と言いました。

イエスさまはこれまで、救い主の王国の祝福のことを宴会や結婚披露宴にたとえてこられました。ですからおそらくヤコブとヨハネは、神の国が実現したら催される宴会で、イエスさまが「まぁ、飲みなさい飲みなさい」と杯に注いでくださるぶどう酒を飲めるかどうか、それを尋ねられたのだと誤解したのでしょう。
ヤコブ・ヨハネが味わう苦難の予告
(23節前半)イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。

確かに救い主の王国が実現すれば、弟子たちは考えられないような祝福にあずかります。しかし、イエスさまは王国を実現する前に十字架という苦しみを通らなければなりません。であれば、イエスさまに従う弟子であるヤコブやヨハネもまた、栄光を受ける前に苦しみを味わうことになります。 そのことをイエスさまは二人に指摘なさいました。
実際、ヤコブは十二人の中で最初に殉教の死を遂げます。一方ヨハネは殉教しなかったようですが、その分迫害者や異端への対応で苦しみますし、晩年はパトモス島に流刑になってもいます。
決めるのは父なる神
(23節後半)しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」

確かに救い主の王国が実現すれば、弟子たちは考えられないような祝福にあずかります。しかし、イエスさまは王国を実現する前に十字架という苦しみを通らなければなりません。であれば、イエスさまに従う弟子であるヤコブやヨハネもまた、栄光を受ける前に苦しみを味わうことになります。

実際、弟子たちはさまざまな迫害で苦しみます。特にヤコブは十二人の中で最初に殉教の死を遂げました。一方ヨハネは殉教こそしなかったようですが、その分迫害者や異端への対応で苦しみますし、晩年はパトモス島に流刑になってもいます。そのことをイエスさまは二人に指摘なさいました。

十二使徒全体への教え

腹を立てた10人
(24節)ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
十二使徒の内、ヤコブとヨハネ以外の10人が2人の行動に怒りを覚えました。これは「ヤコブたちに出し抜かれた。抜け駆けされた。ずるい!」という怒りです。すなわち、他の10人も神の国での高い地位を望んでいたということです。

イエスさまはそれに気づいておられました。そこで十二使徒すべてに向かって、次のような話をなさいます。
世の中の支配者
(25節)そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

この世の権力者たちは下々の者を支配し、思い通りに動かそうとしてその力を使います。他の人に奉仕させようとするのがこの世の支配者です。しかし……
弟子に求められるリーダーシップ
(26-27節)あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

イエスさまの弟子たちに求められるリーダーシップは、この世の支配者たちのリーダーシップとはまったく異なります。わたしイエスの弟子ならば、相手を支配して奉仕させるのではなく、他の人に奉仕する存在であれとイエスさまおっしゃいます。
イエスという模範
(28節)人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

十二使徒の師匠であるイエスさまが、その模範を示されました。イエスさまは自分の幸せのために他の人の命を求めたのではなく、他の人の幸せのためにご自分の命をささげようとしておられます。
「師匠である自分がそうしているのだから、弟子であるあなたたちも当然そうするよね?」と、イエスさまは十二使徒に向かって迫られました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.パワーゲームから抜け出そう

他人を動かそうとする動機と手段を自覚しよう

私たちは政治的な支配者ではないかもしれません。しかし、多くの人の心に「他の人を自分の思い通りに動かしたい」という欲求があります。そして実際に動かそうとします。

夫は妻を、妻は夫を、親は子どもを子どもは親を、そして友だち同士や同僚同士で……みんなが他の人を思い通りに動かそうとして争うこと、これがパワーゲームです。
コントロール欲求
人を自分の思い通りに動かしたいという思いを、コントロール欲求と呼びます。コントロール欲求を持つことそのものは、別に悪いものではなく人として当然のことです。私たちは、自分の幸せのために、他の人や環境を動かそうとします。

たとえば、休日に退屈でたまらないとします。そこで楽しい一日を過ごすために、映画を見に行こうと友だちを誘いました。この場合、こちらは友だちを思い通りに動かそうとしていますね?

また、商売をするというのも、お店の人やお客さんが互いに相手を思い通りに動かすことです。お店の人は宣伝したり魅力的な陳列をしたりすることによって、お客さんに「商品を買うという行為」をさせていますし、お客さんは代価を払うことによって、お店の人に「商品を売るという行為」をさせています。

私たちはこのように、人を思い通りに動かしたり逆に動かされたりしながら社会生活を営んでいます。今申し上げた例は、別に不健全でも嫌なことでもありませんね?
問題のあるコントロール
問題が生じるとすれば、動かされた方が嫌な気持ちになる場合です。友だちを映画に誘う例について考えてみましょう。友だちが納得して映画を観に行くのなら、友だちは別に嫌な気持ちにはならないでしょう。
しかし、本当は映画なんか行きたくないのに、何らかの理由で無理矢理誘い出されたとしたらどうでしょうか。たとえば、
  • 一緒に行かないとひどい目にあわせるぞと、脅される 。
  • 友だちの誘いを断るなんてどうなのと、嫌みを言われる。
  • 私の誘いを断るなんてひどいと、泣き落としされる。
  • この映画は絶対見た方があなたのためになるからと、愛情の押し売りをされる。
どれも断ると嫌な思いをしそうです。だから渋々応じるかもしれませんが、本音は嫌でたまりません。

そして、誘った方も相手が嫌々つき合っているんだということが態度から分かりますから、やっぱりいい気持ちはしませんね。つまり、本来コントロール欲求は幸せになるために出てくるはずなのに、結果的にどちらも幸せではないという矛盾が生じてしまいます。

コントール欲求を持ち、それを実践することそのものは悪くありません。問題はその手段です。相手の気持ちや願いを無視して、無理矢理動かすやり方をしてしまうと問題が生じます。 それでは、幸せになりたいという目的をかえって達成できなくなってしまいます。

私たちが他の人に何かしてもらいたい(あるいは何かをやめてもらいたい)と思ったときには、自分は幸せになるために相手にそうしてもらいたいのだという動機を再確認しましょう。そして、無理矢理相手を変えようとしていないかどうかちょっと立ち止まって考えてみましょう。

仕える人になろう

イエスさまは、私たちが他人を支配する人ではなく、むしろ仕える人になりなさいとおっしゃいます。

仕える人は、相手を脅したり、嫌みを言ったり、泣き落とししたり、愛情の押し売りをしたりして無理矢理動かそうとはしません。

しかし、しもべたちは一切主人にものを言わないかといえば、そんなことはありません。何か主人に対して要望がある場合には、理由を説明した上で「こんなふうにしてください」とお願いします。

私たちも他の人に何かしてもらいたいときには、理由を説明して謙遜にお願いしましょう。
率先して他人のための行動をする
そして、率先して他人の幸せのための行動をしましょう。それがしもべとしての生き方です。

私たちが他の人の幸せのために普段から行動していないのに、都合のいいときだけお願いを聞いてもらおうとしても、それに応じてくれる人はほとんどいないでしょう。

私たちが普段から損得抜きにして、他の人の幸せのために行動しているなら、他の人も私たちが何かをお願いしたときに、喜んで一肌脱いでくれるでしょう。
加藤嘉明
この話をお読みください。
豊臣秀吉配下に、「賤ヶ岳七本槍」の一人と讃えられた加藤嘉明という戦国武将がいます。彼が伊予国松山を治めていた頃の話です。

嘉明は陶磁器が好きで、中でも十枚組の青磁の小皿がたいそうお気に入りでした。ところが、家来の一人が、その皿を一枚、誤って割ってしまいます。家来は、死を覚悟して嘉明に事の次第を報告しました。

誰もが、嘉明が烈火のごとくに怒り出し、その場で切腹を命ずるか、自ら斬り捨てると思いました。しかし、彼は冷静沈着にこう申し渡しました。「たかが皿一枚のことで、大事な家来を死なせるわけにはいかぬ。よいか、自害などまかりならんぞ」。

さらに嘉明は、残り九枚の皿を持ってこさせ、それに向かってこう言い放ちます。「おのれ。たかが皿の分際で、仲間を割られたあがないに人の命を求めるとは、思い上がりもはなはだしい。お前たちこそ手討ちにしてくれるわ!」 そして、残りの皿を全部叩き割ってしまったのです。

あっけにとられる家臣たちを前にして、嘉明はつぶやきました。「これで良いのだ。皿を残しておけば、それを見る者がそのたびに、『あの者のために一枚欠けてしまった。何たる不届き者だ』と責め続けるであろう。そうなれば、お互いに不幸というものじゃ」。

こんなふうに、自ら犠牲を払ってまでも家臣を大切にしてくれる殿様のためならば、家臣は喜んで命をかけることでしょう。さて、あなたのためにイエスさまは何をしてくださったでしょう。あなたの命を救うために、ご自分の命をも惜しいと思わず、犠牲にしてさいました。それだけ、あなたのことが大切なのです。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
(画像引用:Wikipedia

仕えられる体験をしよう

そして、私たちが仕える人になるためには、「仕えるとはこういうものなのか」ということを知る必要があります。

そのために、私たち自身が仕えていただく体験しましょう。それは、全知全能の神なのに、人に仕えることを選ばれたイエスさまと交わることです。

イエスさまは、自分は「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」とおっしゃいました(28節)。

イエスさまは神の国の王であり、神さまですから、「私の言う通りにしないと、地獄に堕として苦しめるぞ」と私たちを脅して、無理矢理従わせることもできました。そういう怖い神さまをイメージしておられる方も、一般にはたくさんいらっしゃいます。

しかし、実際のイエスさまは私たちを無理矢理動かそうとはなさいませんでした。私たちの身代わりとして十字架にかかって苦しみ、血を流して死ぬことによって、私たちの罪が赦され、そのままの姿で神さまの子どもになることができるようにしてくださいました。

その上で、「どうか信じておくれ。私と仲直りしておくれ」と懇願しておられます。

この自分を救い、神さまの子どもとして永遠に幸せにするために、イエスさまがどれほどの犠牲を払ってくださったか。それをいつも忘れないようにしましょう。その感動、感謝が、私たちを仕えるしもべに育ててくれます。

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