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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリストの復活がもたらすもの

イースター2024

コリント人への第一の手紙15章20節

(2024年3月31日)

イースターはイエス・キリストの復活を祝う祭りです。使徒パウロは、キリストの復活は「初穂」であると述べています。どういう意味でしょうか?
今回は、メッセージの音声はありません。

イントロダクション

キリスト教の信仰は、十字架と復活という歴史的事実に基づきます。イエスさまの復活は、私たちの人生にどんな素晴らしいものをもたらしてくれているでしょうか。

復活を信じない人に対して語られた、使徒パウロの言葉からそれを教わりましょう。 パウロは、ギリシアの南の方にあった町、コリントの教会に宛てて手紙を書きました。そこでパウロは何を語っているでしょうか。

1.初穂としての復活

キリストの復活と初穂の祭り

(20節)しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

「眠った者」とは「死んだ人」という意味です。では「初穂」とは何でしょうか。初穂とは、その年の最初の収穫物のことです。
初穂の祭り
イースターの時期は、イスラエルでは大麦の収穫が始まる頃です。旧約聖書には、イスラエルが毎年行なうよう定められた7つの祭りが載っています。その2番目の祭りが「初穂の祭り」です(レビ23:9-14参照)。

この祭りでは、大麦の初穂を神さまにささげます。初穂は、このあと同じ作物が続けてどんどん収穫されることの保証になっています。ですから初穂の祭りは、大麦の収穫はこれで終わりではなく、このあとも豊かに収穫が続くことを神さまに先取って感謝するという意味があります。
初穂の祭りの時期
ユダヤ暦第1月の14日には、毎年出エジプトの奇跡を記念する過越の祭りが行なわれました。この日、人々は子羊をほふり、その日の夕食に各家庭で過越の食事をしました。そして、翌朝9時には、神殿で子羊がほふられ、祭壇に血が注がれます。

ところが、初穂の祭りは、日付が決まっているわけではありません。この祭りは、過越の祭りの直後の安息日の翌日、すなわち日曜日に行なわれました。

イエスさまが十字架にかかったのは、過越の祭りで子羊が神殿に献げられるのと同じ日時でした。紀元30年のことです。その年は金曜日がそれに当たる日でした。ですから、英語でイエスさまが十字架にかかった日(受難日)のことを、グッド・フライデーと呼びます。

そして、その年の初穂の祭りは、その2日後の日曜日に行なわれました。イエスさまは、この日に復活なさったのです。ですから、過越の祭りがイエスさまの十字架の死と関連付けられるように、初穂の祭りはイエスさまの復活と関連付けることができます。

復活は預言されたもの

パウロがイエスさまの復活のことを「初穂」と呼んだのは、そういう聖書の知識があったからです。

イエス・キリストの復活物語は、後の時代の弟子たちが、イエスさまの教えを権威づけるために勝手に作り出したものではありません。旧約聖書の預言者たちがあらかじめ預言してきたことです。

特に、イエスさまが十字架にかかる千数百年前、すでにユダヤの祭りという形でこうして預言されていました。そして、イエスさまは、預言通り、歴史的に確かによみがえりました。

初穂に続く収穫

イエスさまの復活が「初穂」であるなら、それに続くたくさんの収穫があるということです。それは、私たち人間の復活です。

15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
15:54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」


遅いか早いかの違いはあっても、いずれ私たちは死んでしまいます。しかし、イエスさまが再びこの地上に戻ってこられたとき、イエスさまを信じる私たちは復活して栄光の体に変えられます。

もしも、イエスさまが来られたときにまだ生きていたとしたら、一瞬のうちに復活の体と同じ栄光の姿に変えられます。

では次に、イエスさまの復活は、私たちに何をもたらしてくれるかを見ていきましょう。

2.復活が私たちにもたらすもの

罪の赦しが確かだと知る

イエス・キリストの復活が単なる作り話なら、十字架と復活を信じるだけで罪が赦されるという教えも嘘っぱちです。逆に、イエスさまが本当に復活なさったのなら、罪の赦しも確かなものになります。

いったんイエス・キリストを信じたなら、あなたは、過去の罪も、現在の罪も、これから死ぬまでの間に犯すであろう罪も、すべて、完全に赦されています。それは、ただ単に将来地獄に堕とされて永遠の罰を受けることがないというだけの話ではありません(それだけでも大変な祝福ですが)。罪が赦されているということは、神さまと仲直りして、関係が良好になったということです。

私たちは、神さまを無視して自分勝手に生きてきました。神さまにとっては敵です。しかし、そんな私たちを愛してくださり、私たちがイエス・キリストの十字架と復活を信じた時に、神さまの子どもにしてくださいました。

私たち人間が、子どもや孫のためなら何でもしてやりたいと思うように、神さまも、私たち神さまの子どもたちを心から愛し、私たちが本当に幸せになるためなら、何でも与えたいと思っておられます。

罪が赦されているということは、私たちがどんな問題に直面していたとしても、全知全能の神さまが味方についてくださるという、とんでもない特権が与えられているということです。神さまが味方なのであれば、何があっても、何がなくても大丈夫です。

死は終わりではないと知る

イエスさまが復活なさったので、あなたや私が死んだとしても復活し、イエスさまが治める神の国に市民として迎え入れられ、永遠の祝福を味わうことができます。

イエス・キリストの十字架と復活を信じた者にとって、死はもはや訳の分からない恐ろしいものではありません。
昔見ていた悪夢
昔、私が中学生や高校生の頃、人が死んだらどうなるのだろうといつも考えていました。いろいろな宗教がいろいろな死後の世界を教えていますが、どうも作り話っぽくてうさんくさい。私が当時考えていたのは、死ぬというのは存在が消えて無くなってしまうことではないかということです。

その頃、風邪を引いて熱にうなされている時、必ずと言っていいほど見る夢がいくつかありました。その一つは、最初から私がこの世に存在しないという夢です。それでも家族も友だちも、何の問題も無く生活し、毎日が滞りなく進んでいきます。この地上の誰も私のことを知らない。そのことがとてつもなく恐ろしかったことを覚えています。

私が死んで存在が無くなってしまっても、家族や友だちは私がこの地上にいたということを時々思い出してくれるかもしれません。しかし、その家族や友だちも死んで存在が無くなってしまったら、やがてこの地上に私を知るものは誰もいなくなります。では、私の人生って、一体何だったんでしょうか。

考えれば考えるほど暗くなります。もちろん、そんなことばかり考えていては生活できませんから、できるだけ死ぬことについては考えないようにして、目の前のことに没頭することにしましたが、それでも時々考えては震え上がっていました。

しかし、イエスさまが初穂として復活なさったため、イエスさまを信じた私もやがてそれに続いて復活します。私という存在は、たとえ死んでも終わりではありません。むしろ、今の人生よりも、死んでからの人生の方が比べものにならないくらい長いのです。何しろ永遠に続くのですから。
召天した弟のこと
2018年、岡山県で牧師をしていた弟が急死しました。100キロを超えていた巨体も、焼かれて骨だけになってしまい、教会の納骨堂に納められました。もう二度とこの地上で生前の姿の弟と会うことはできません。それは悲しいことであり、寂しいことです。一緒に暮らしていた義妹や子どもたちにとってはなおさらでしょう。

しかし、私たちクリスチャンには復活の希望があります。やがて私たちは弟と再会することができます。弟も私もほっそりした健康体で復活するはずですから、最初はお互いに探し出すのに苦労するかもしれませんね。

イエスさまが初穂として復活なさったことを信じる私たちにとって、死は終わりではありません。それは第二の人生のスタートの日です。

すべてのことに意味があると知る

もし、復活の教えが嘘っぱちで、長くても100年ほどで人生が終わり、あとは消えて無くなってしまうのなら、私たちの人生には、どんな意味があるのでしょうか。

どんなに一生懸命勉強し真面目に働き道徳的に生きても、いい加減で罪深く自堕落な生き方を続けても、同じように死んでおしまい。人生は死ぬまでの間の暇つぶしに過ぎません。ただ、今この瞬間だけ楽しければいい。それはなんと空しいことでしょうか。
死後の報い
しかし、イエスさまの復活は、私たちもまた復活し死んだ後にも人生が続くことを保証しています。そして、死んで復活した後、生きていた間にしたすべての行ないがイエスさまによって評価されます。

もちろん、クリスチャンはすべての罪を赦されていますから、良くない行ないを理由に罰を受けることはありません。生きている間に行なった良いことについては、イエスさまは必ず認めてくださり、ごほうびをくださいます。

イエスさまは、有名なタラントのたとえ(マタイ25:14-30)の中で、主人が不在の時も一生懸命商売に励んでいたしもべたちを、主人が大いにほめる場面を描いておられます。主人は彼らに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。

私たちもまた、そんなふうにイエスさまから認めていただけます。たとえ、喉が渇いている人に水一杯を差し出すというような小さな行ないでも、イエスさまにお仕えするように愛を込めて行なうなら、イエスさまは決して小さなこととして見過ごしになさいません(マタイ25:34-40)。
私のイエスさまたち
マザー・テレサや仲間のシスターたちは、コルカタの貧しい人たち、病んでいる人たちのことを「私のイエスさまたち」と呼んで世話しました。私たちもまた、あらゆることをイエスさまへの感謝と愛に基づいて行ないましょう。

まとめ

イエスさまは初穂として復活なさいました。それは、私たちクリスチャンもまた、復活するという保証です。そして、復活は将来の祝福だけでなく、地上を生きている今このときも、私たちに多くの祝福をもたらします。

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