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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

エルサレム入城

イエス・キリストの生涯シリーズ75

マルコによる福音書11章1節〜10節

(2024年4月21日)

一般に「エルサレム入城」と呼ばれるエピソードを取り上げます。イエス・キリストが十字架にかかるため、エルサレムに入られた際の出来事です。

礼拝メッセージ音声

参考資料

今回のエピソードは、一般に「エルサレム入城」と呼ばれます。「城に入る」と表現されるのは、エルサレムの町が城壁で囲まれていたからです。

1節の「オリーブ山」は、エルサレムのすぐ東にある山。「ベタニア」はエルサレムの南東約3キロ、オリーブ山の東の山麓にあった町です。「ベテパゲ」はエルサレムとベタニアの間にありました。
8節の「葉のついた枝」は、ヨハネ12:13によるとナツメヤシ。日本ではシュロを除くヤシ科の植物が一般的でなかったため、かつての日本語訳ではシュロと訳されていました。そのため、イエスさまがエルサレムに入られた日(日曜日です)のことを「シュロの日曜日」「シュロの主日」などと呼びます。

イントロダクション

私たちにとって本当に幸せなのは、救われてすぐに死んで天国に入れられることなのかも知れません。感染症や自然災害に怯えることもなく、人間関係や経済的問題に悩むこともなく、平安と喜びの中で復活の時を待つことができます。

しかし、現に私たちはこうして生かされ、この地上に置かれています。それは神さまに特別な目的があってのことです。私たちは何のためにこうして生かされているのでしょうか。生きる目的が明確になると、人は強くなれます。毎日を充実しながら過ごすことができます。

私たちが地上に置かれている目的、地上でなすべきことを、イエスさまがエルサレムに入るに当たってお乗りになった、小さなろばの子から学びましょう。

1.エルサレムへ

ベテパゲ到着

ベタニア経由でベテパゲへ
(1節前半)さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、

エリコを出発したイエスさまは、1日掛けてベタニアに到着なさいました。ヨハネ12章を読むと、ベタニアに到着したのがイエスさまが十字架にかかる過越の祭りの6日前です。この年の過越は金曜日ですから、6日前は土曜日です(ユダヤでは日没で日が変わりましたから、金曜日の夕方かもしれません)。

ベタニアでは、マルタ、マリア、ラザロたちの家に泊まります。その時、マリアが高価な油をイエスさまに注ぎました。このエピソードについては、聖書の女性シリーズ「ベタニアのマリア」の回で取り上げたので、今回はスキップします。 翌日の日曜日、ベタニアを出たイエスさま一行は、エルサレムとベタニアの間にあるベテパゲに向かわれました。

ろばの子の調達

弟子の派遣
(1節後半-2節)イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

「向こうの村」とはベテパゲのことです。その村で、ろばの子を調達してくるよう、イエスさまは2人の弟子に命じました。
持ち主への返答
(3節)もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」

勝手に子ろばを連れていこうとすれば、当然持ち主などにその行為を見とがめられるでしょう。その際はこのように返答するようイエスさまは派遣される弟子たちにおっしゃいました。
命令を実行する弟子たち
(4節)弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。

イエスさまが命じたとおり、2人の弟子はベテパゲに入りました。すると、イエスさまがおっしゃったとおり子ろばがつながれているのを発見します。弟子たちは、イエスさまがおっしゃったとおり、子ろばを連れていこうとしました。
見とがめる人々
(5節) すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」

子ろばがいたのは表通りに面した家の戸口ですから、人々が行き交っていました。村の住民ではない弟子たちが子ろばを連れていこうとしているのは、すぐに発見されて見とがめられました。
許可された弟子たち
(6節)弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。

弟子たちに声をかけた人の中には、子ろばの持ち主もいました(ルカ19:33)。弟子たちはその人に、イエスさまに命ぜられたとおり「主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします」と言いました。

さて、あなたが子ろばの持ち主であれば、こんな返答で納得するでしょうか。たぶん、「なんじゃそりゃ」と答えて警察官を呼ぶことでしょう。ところが、持ち主は素直に子ろばを差し出しました。

一体どうしてなのかは書かれていません。考えられる理由としては、
  • イエスさまがあらかじめ別の使いを出していて、「主がお入り用なのです」と言われたら素直に差し出すことが取り決められていた。
  • 事前に天使が現れてそうするよう命じるなど、神さまからのお告げを受けていた。
  • 持ち主はイエスさまが救い主だと信じており、しかも旧約聖書の預言を熟知していて、救い主はろばの子に乗ってエルサレムに入られるということを知っていた。旧約聖書のゼカリヤ書にはこのような預言があります。
    「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)。
理由はどうであれ、とにかく持ち主は素直に子ろばを弟子たちに託しました。

なお、マタイ21章を読むと、連れて行ったのは雌ろばと子ろばの2頭です。子ろばが嫌がらないようにという配慮かも知れません。
子ろばに乗っての移動
(7節)それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

イエスさまは先ほど引用したゼカリヤ書の預言通り、子ろばに乗ってエルサレムに近づいていかれました。

イエスを歓迎する群衆

上着を敷く群衆
(8節前半)すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、

群衆は自分たちの上着をイエスさまが通られる道に敷きました。この行為は、人々がイエスさまのことを神の国の王、救い主として歓迎していることを表しています。

まず、上着を敷くという行為は、旧約聖書のあるエピソードが元になっています。

かつてイスラエルが南北に分裂していた時代。北王国では預言者エリシャが活躍していた頃の話です。神さまは、エリシャを通してエフーという人を新たな王に選びました。すると、それを知った軍の高官たちは上着をエフーの足もとに敷いて、エフーが王であることを承認しました。

第2列王9:13「すると、彼らはみな大急ぎで自分の上着を脱ぎ、入り口の階段にいた彼の足もとに敷き、角笛を吹き鳴らして、『エフーは王である』と言った」。

ですから、群衆が上着を通り道に敷いたということは、彼らがイエスさまを王と認めていたということです。
ナツメヤシの枝を敷く群衆
(8節後半)ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。

葉の付いた枝(ナツメヤシの枝)を道に敷いたのは、イスラエルで秋に行なわれる仮庵の祭りが関係しています。

レビ23:40「最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜ぶ」。

仮庵の祭りは、出エジプトの後イスラエルの民が荒野で生活したことを記念する祭りであり、秋の収穫を祝う祭りです。そして、実は救い主が地上に実現する理想的な王国(神の国、天の御国、千年王国)を象徴する祭りでもあります。

というのも、神の国が実現すると、世界中の異邦人の国々から代表団がエルサレムに集まって、ユダヤ人と一緒に仮庵の祭りを祝うと預言されているからです。

ゼカリヤ14:16「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の【主】である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る」。

ですから、人々がナツメヤシの枝を道に敷いてイエスさまを歓迎したのも、上着を敷いたのと同じく、人々がイエスさまのことを神の国の王である救い主だと認めていたことを表します。
ホサナ!
(9-10節)そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」

「ホサナ」は、「どうか救ってください」という意味の言葉で、詩篇118:25に登場します。また、続く「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」という言葉は、詩篇118:26から来ています。

この詩篇118篇はメシア詩篇と呼ばれていて、パリサイ人たちは救い主が現れたときには、ユダヤ人はこの詩篇を唱えて歓迎すると教えていました。そして、神の国の実現を象徴する仮庵の祭りでも、この詩篇を含む「ホサナの祈り」が祈られました。

また、ダビデについて言及されていますが、旧約聖書は救い主がダビデの子孫の中から生まれること、そして永遠に続く王国を打ち建てることを預言しています(第1歴代誌17:11-14)。

ですから、人々が叫んだこれらの言葉も、群衆がイエスさまを救い主として歓迎したことを示しています。
人々の思いとイエスの思いのずれ
ただし、群衆の思いとイエスさまの思いにはズレがありました。人々が期待していたのは、国を支配していたローマからの独立を果たしてくれる、戦う王としての救い主です。イエスさまがエルサレムに入られたなら、すぐにでも自分こそ世界の大王であると宣言して、ローマ軍に対して戦いを始めるだろうと期待していました。

仮庵の祭りは救い主が実現する神の国を象徴しています。しかし、このたびイエスさまがエルサレムに来られたのは、仮庵の祭りではなく過越の祭りの時期です。過越の祭りが象徴しているのは、救い主が全人類の身代わりとして、罪の罰を負って死ぬことです。

イエスさまは軍馬ではなくろばの子に乗ってエルサレムに向かわれました。イエスさまは独立宣言をするためではなく、十字架にかかって死ぬためエルサレムに来られたのです。

期待を裏切られた人々は間もなくイエスさまに幻滅します。そして、「ホサナ!」と叫んでいた人々は、わずか5日後には「十字架につけろ!」と叫ぶようになります。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.ろばの子のようにイエスの働きを手伝おう

イエスの働きを手伝ったろばの子

イエスさまは、力強い軍事力の象徴である軍馬ではなく、どこかしら滑稽なろばの子に乗ってエルサレムに入られました。

イエスさまはこの時、王として神の敵を滅ぼすためにエルサレムにいらっしゃったのではありません。十字架にかかって死ぬためでした。それにより、私たちの罪の罰をすべて身代わりに負ってくださろうというのです。私たちが神さまにさばかれることなく、むしろ神の子となって、神さまのあふれる祝福を受けることができるようになるために、です。

ろばの子は、イエスさまを乗せてエルサレムに入ることで、イエスさまが人を救うお方であることを人々に明らかにしました。

私たちもろばの子のように、イエスさまのお手伝いをすることができます。それは、ろばの子と同じように、イエスさまが私たちを救ってくださり、神の子どもにしてくださったということを、その事実をまだ知らない人々にお伝えすることです。

では、私たちはどのようにして神さまからの平和のメッセージを伝えればいいのでしょうか。

私たちも手伝おう

ろばの子は、ろばの子として生きることで、イエスさまが平和の主であることを証ししました。ろばの子は、イエスさまの働きをお手伝いするのに、別に格好のいい馬になる必要も、力強い牛になる必要も、空を悠々と飛ぶワシになる必要もありませんでした。大人のろばになる必要さえなかったのです。あなたも、今そのままの姿で、平和の主の働きをすることができます。
得意なことを用いて
たとえば、文章が得意な人は文章でイエスさまを伝えることができます。音楽が得意な人は音楽で伝えることができます。

一方、一見短所や不幸に見えるものも、イエスさまのために使おうと決心するならば素晴らしい持ち味になります。
内向的な人
ある人は、非常に内向的でした。だから、とても伝道の働きなんかできないと思いました。

しかし、一見短所と思えたこの性格は、心の内面をじっくり見つめることができるという長所なのだと知ります。そして、こういう自分だからこそ、一人の人の話をじっくりと聞き、その心の痛みを感じ取ることができることに気がつきました。

イエスさまは、人の心の痛みをいやすお方です。この方は、今イエスさまと共に働いています。
優柔不断な人
ある人は、優柔不断な自分が大嫌いでした。優柔不断な人は、どんなにすばらしい計画が示されても、物事の否定的な面がすぐに見えてしまうために、なかなか一歩を踏み出せないのです。

ということは、物事を様々な側面から慎重に見つめる能力があるということです。その力を、否定的な面を見つけるという形ではなく、すばらしい面を見つけるという形で使えばいいのです。

イエスさまが十字架にかかったということは、神さまは私たちの足りないところを責めるのではなく、むしろそのすばらしさを誇りたいと思っていらっしゃるということを示しています。

そこで、この方は、他の人のすばらしいところを見つける練習をしました。そうして、積極的に他の人々のすばらしさをほめ、他の人を励ますようになりました。この方は、今イエスさまと共に働いています。
離婚した人
ある人は離婚をしました。そして、クリスチャンになってからもずっとそのことを負い目に感じていました。

しかし、だからこそ若いカップルの助けになれると考え、聖書が教える祝福された結婚について教える働きをすることにしました。この方は、今イエスさまと共に働いています。
子どもを覚醒剤で亡くした人
ある人は、子どもを覚醒剤の中毒で亡くしました。イエスさまがその悲しみをいやしてくださったとき、家族の問題で悩み悲しんでいる親たちに、イエスさまの慰めを伝える仕事がしたいと思うようになりました。この方は、今イエスさまと共に働いています。

あなたはどんな長所や短所をお持ちですか? あるいは、どんな痛みを抱えてきましたか? 今そのままの姿で、あなたは平和の主の働きをすることができます。神さまの目には、あなたに短所などありません。すべてが宝物です。

イエスの招きの言葉を聴こう

なぜ私たちは、イエスさまと共に神さまの平和のメッセージをこの世に伝える働きをするのでしょうか。イエスさまがそれを望んでおられるからです。イエスさまは、あの小さなろばの子のことを知っていました。そして、そのろばの子に手伝って欲しいと思われました。

「主がご入り用なのです」。そう言われたろばの持ち主は、すぐさま子ろばをイエスさまのために提供しました。細かい事情はどうであれ、少なくとも「イエスさまのお役に立ちたい」という思いが彼の中にあったからです。

あなたの中にも「イエスさまのお役に立ちたい」という思いがあるはずです。私たちがイエスさまのお役に立ちたいと願うのは、イエスさまが私たちに良くしてくださったし、今も良くしてくださっているからです。
返報性の法則
人間の心には、親切にしてもらうとお返しをしたくなる性質があります。これを社会心理学の用語で「返報性の法則」と呼びます。たとえば、
  • お店で気持ちの良い接客を受けたり、かなりの値引きをしてもらったり、試食をさせてもらったりすると、何か買ってあげなきゃという気持ちが湧き上がってきます。
  • 職場などでも、普段から自分が困っているときに助けてくれる同僚だと、その人が困っているときには喜んで手を貸したいと思うでしょう。
  • 初対面の人と話をするとき、相手の人が積極的に自分自身のことをさらけ出してくれると、こちらも自然に自分自身のことを話したくなります。
これが返報性の法則です。そういう性質が私たちの中にあるので、イエスさまが良いことをしてくださったことを思い描くと、イエスさまのために何かしたいという思いがわき上がってきます。
イエスから受けたもの
イエスさまは私たちを罪の呪いから救うために、自ら進んで十字架にかかり、血を流し、命をささげ、それから3日目に復活なさいました。それによって、私たちは罪赦され、神さまの子どもとされ、永遠に祝福される特権を与えられました。そして、今も私たちを本当の幸せに導くために、あらゆるものをうまくコントロールしてくださっています。
この自分のためにイエスさまがそんな犠牲を払ってくだり、こんなにもすばらしい特権を与えてくださった……それを思うとき、イエスさまのためだったら何でもしたいという思いが生まれてきます。

「あなたも、私と一緒に働かないか?」 今、イエスさまはあなたにも声をかけておられます。あなたもすぐに、「はい」と言って、あなた自身をイエスさまにささげて用いていただきましょう。

連絡先

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