神の国の原則

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マタイによる福音書20章1〜16節

(2012.1.1)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

先日、TBSの時代劇「水戸黄門」が42年の歴史に幕を閉じました。この番組のテーマソングの以前の歌詞の中に、「後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け」という言葉があります。「先の者があとになり、あとの者が先になる」という聖書の言葉も、一見するとこれに似ていますね。しかし、イエスさまのこの言葉は、進歩の遅い人を責めたり、叱咤激励したりするための言葉ではありません。イエスさまは、「この世の原則と神の国の原則は違う」ということを、教えてくださっているのです。

1.この世の原則

この世の原則は、出来高制です。すなわち、「成果によって評価される」ということです。

成果主義や競争原理自体は決して悪いものではありません。それによって、社会は進歩してきました。しかし、成績や結果によって、人間としての存在価値まで計られてしまうとすれば問題です。他の人と比較して、敗北したり、平均点以下だったら価値がない、そう思い込まされているならば、私たちは自分や他人の成果に振り回されることになります。
出来高制
ネット上での活動が長いせいか、私はいろいろなクリスチャンの方からメールをいただきます。そして、多くの方から「教会に行くと疲れる」「教会に行くと惨めな気持ちになる」という相談を受けます。イエスさまは、「重荷を負っている人は休ませてあげよう」とおっしゃったはずなのに、どうしてイエスさまのからだである教会の交わりの中で、疲れ切ってしまうのでしょう。

それは、この世の原則が教会の中にも、そしてクリスチャンの心の中にも忍び込んでしまい、クリスチャン生活が出来高制になってしまっているからです。

すなわち、何人に伝道したか、どれだけ祈っているか、どれだけ聖書を通読したか、どれだけ献金したか、どれだけ「ハレルヤ!」「感謝します!」と叫んだか、どれだけ元気でうれしそうに振る舞っているか、どれだけ周りの人に評判になっているか……。

もちろん、それらは大切なことです。しかし、そういったことについて他の人と比較をし、競争するとしたら、信仰生活はとたんに疲れるものになってしまいます。

私たちは、「できるクリスチャンはOK、できないクリスチャンはNG」という、出来高制のこの世の原則で、自分自身や他のメンバーのことを見ては来なかったでしょうか。

2.神の国の原則

神さまが人を受け入れ、愛し、祝福するのには、条件がありません。ですから、神の国の原則は出来高制ではなく、どんな人をも無条件で愛する平等の愛です。これを「恵み」といいます。

今回のたとえ話に出てくる主人は、12時間働いた人にも、9時間の人にも、6時間の人にも、3時間の人にも、そして1時間しか働かなかった人にも、同じように1デナリ(1日分の給料)を支払いました。神さまと同様に、どれだけ働いたかという条件なしに、祝福を与えたのです。

それにしても、この主人のやり方は、どうにも納得できないのではないでしょうか。丸一日働いても、1時間しか働かなくても同じ給料がもらえるなんてアンフェアです。こんなことを実際の職場でやったら、誰もまじめに働かなくなるのではないでしょうか。実際、富を平等に分けることを理念とした共産主義の国々では、生産性が極端に落ちて、国の経済が破綻してしまったではありませんか。

しかし、このたとえ話は、会社や国をどのように運営するかを教えている話ではありません。神さまの愛がどのようなものなのかということを教えるための話です。確かに、この主人の方法は、「仕事量に対する報酬」という点ではアンフェアですが、そもそも神さまの愛は「報酬」ではないのです。

このたとえ話は、すべてを捨ててイエスさまに従った弟子たちに対して語られました(19:16-30)。イエスさまは、そんな彼らの犠牲に必ず報いると約束してくださいましたが、同時に、神さまの愛は人間の善行に対する報酬ではないのだということを、このたとえ話を通して語ろうとなさいました。

1時間しか働かなかった人たちは、確かに肉体的には楽だったでしょう。しかし、彼らは日雇いの労働者です。その日働き口がなければ、明日食べるパンはどうなるのだろうという心配があります。彼らは、そういう不安を抱えながら一日を過ごしていました。

一方、長時間働いた人たちは、確かに暑い中、大変な労働をしなければなりませんでした。しかし、彼らはその代わりに、明日のパンを心配する必要はありませんでした。

彼らはそれぞれに痛みを抱えていました。この主人は、彼ら日雇い労働者たちみんなを愛し、心配していました。ですから、長時間働いた人にも、1時間しか働かなかった人にも、彼らの明日の生活が支えられるだけの給料を支払ったのです。
恵み
神さまがあなたを愛しておられるのは、あなたがどれだけ良い行ないをしたかということに関わりがありません。神さまは、今のあるがままのあなたを愛しておられます。「神さまの愛は報酬ではなく恵みである」という点が分からないと、私たちは他の人をねたんだり落ち込んだりすることになります。

3.あなたはどちらの原則で生きるのか

出来高制であるこの世の原則、そして恵みである神の国の原則。今日の箇所を通して、イエスさまはあなたに「あなたはどちらの原則で生きるのですか?」と尋ねています。

聖書はこう命じています。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一心によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(第1ヨハネ2:15)。

成果によって人間の存在価値まで評価されるこの世の原則ではなく、一方的に、無条件に存在が認められる神の愛の原則に従って生きていきましょう。

神の国の原則に基づいて生きるとき、最初から働いていた労働者たちも、遅れてきた仲間たちが救済されるのを見て、共に大喜びできるはずでした。まさにそのために、彼らは後回しにされたのです。

しかし、12時間働いた労働者は、ねたみと不平に満たされました。それは、彼らがこの世の原則、成果と報酬の原則に生きていたからです。「先の者があとに……」という言葉は、そうならないようにという、イエスさまからの警告です。決して、進歩の遅い人を叱咤するための言葉ではありません。

まとめ

私たちが神の国の原則、恵みの原則に生きるとき、私たちの生活には喜びや感動が満ちあふれます。そして、他の人との関係が良くなっていきます。それは、ねたみや不平不満から解放されるからです。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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