本当に助けが必要なことのために

トップページ聖書のメッセージ集2012年 > このページ


ルカによる福音書18章1〜14節

(2012.1.15)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今回の箇所で、イエスさまは、私たちがどのような祈りをささげればいいかについて教えてくださっています。

1.何が書いてあるか

いつ(When)

「いつでも」祈るべきである(1節)。

「ひっきりなしに」やって来た(5節)。

「夜昼」神を求めている(7節)。

神は、「すみやかに」正しいさばきをしてくださる(8節)。

「人の子が来たとき」(8節)。すなわち再臨の時。

週に二度(12節)。

どこ(Where)

ある町(1節)。

彼(裁判官)のところ(3節)。

宮(10節)。

天(13節)。

家(14節)。

誰(Who)

たとえ1
話しているのはイエスさまで、聴いているのは弟子たち(17:37)。登場するのは、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官と、正しいさばきを求めているやもめ。
たとえ2
話しているのはイエスさまで、聴いているのは「自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たち」。登場するのは、パリサイ人と取税人。

何がどうした(What & Hpw)

たとえ1
やもめが裁判を求めていましたが、裁判官は最初は相手をしませんでした。しかし、ひっきりなしにやってくるので、うるさくなって、ついに裁判を開いてやることにしたという話。
たとえ2
一般の湯田人に尊敬されているパリサイ人と、一般のユダヤ人から軽蔑されている取税人が神殿に祈りに来ました。パリサイ人は、立って自分が以下に立派な人間かということを祈りの中で誇りました。一方、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けることもできず、自分の胸を叩きながら「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。イエスさまは、取税人の方がパリサイ人よりも神さまに義と認められた(正しいとされた。受け入れられた)と語られました。

なぜ(Why)

最初に裁判官が裁判を開かなかったのはなぜでしょうか? そして、一転、裁判を開いてやることにしたのはなぜ?

なぜ神は選民のためにただしいさばきをしてくださるのでしょうか?

なぜ取税人は遠く離れて立ち、目を点に向けず、胸を叩きながら祈ったのでしょうか?

なぜ自分を高くする人が低くされ、自分を低くする人が高くされるのでしょうか?

なぜイエスさまはこの2つのたとえ話をなさったのでしょうか?

2.どんな意味か

いつも祈り、失望しない

たとえ1が語られた理由は、聖書自身が解説しています。それは「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため」(1節)です。

ひどい裁判官は、やもめのしつこさの故に、正しい裁判を行なう気になりました。しかし、間違えないでください。私たちの父なる神さまは、私たちがしつこく祈るから、しかたなく祈りを聞いてくださるわけではありません。あるいは、大声で祈るから、あまりにもうるさくて聞いてくださるというわけでもありません。

「まして神は」(7節)という言葉に注目しましょう。神さまは私たちを子として選び、愛してくださっています。ですから、私たちの祈りに真剣に耳を傾け、私たちの幸せを実現しようとしてくださいます。

私たちは、神さまが私を愛しておられるということを信じています。ですから、今起こっている状況がどんなにつらくて苦しくても、今の自分も、将来の自分も絶対に大丈夫だと信じることができるのです。

ですから、イエスさまが勧めておられる通り、どんな困難があっても、そしてどんなに長く待たされても、期待し、祈り続けなければなりません。

信仰が見られるか

イエスさまは、たとえ1の最後に、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(8節)とつぶやかれました。

この「信仰」とは、神さまのことをどういうお方だと信じているかということです。私たちの祈りに真剣に耳を傾け、私たちに最善を行なおうとしてくださり、それを具体的に実現する力をお持ちの、愛にあふれ、全知全能であるお方だと信じているということです。

しかし、ここでいう「信仰」とは、「私はこういうふうに信じています」と言葉で表現する以上のものです。心の底からどのように受け取り、どのように信じているかが問われています。

正直に告白すれば、私は神さまが期待しておられるような信仰者ではありません。いつも、今起こっていることに一喜一憂し、時にぶつぶつと文句を言い、時に不安になり、時に腹を立て、愚痴をこぼしたり弱音を吐いたりする者です。

それは、神さまの力や愛に、私がどこかで不信感を抱いているということです。どこかで全面的に信じきれないでいるということです。私たちの父なる神さま、イエスさま、聖霊さまの、三位一体の神さまが、私を愛していて、全知全能であるならば、私たちの人生は安泰のはずだからです。

世の終わりに、再臨なさったイエスさまの前に立ったとき、私はとてもじゃないけれども「あなたを信じ続け、期待し続け、決して失望なんかしませんでした」と告白できません。私だけでなく、あなたもきっとそうです。つらいけれども、私たちはこの現実を認める必要があります。

お助けください

1〜8節だけを見ると、自分の不純な信仰にがっかりしてしまいます。しかし、ルカは、この話の直後に、2つめのたとえ話として、パリサイ人と取税人の話を掲載しています。

私たち人間の基準からいえば、パリサイ人の方がはるかに立派な人物です。取税人の多くは、税金を規定よりも多く徴収して私腹を肥やしていました。しかし、神さまに正しいとされ、受け入れられたのは、パリサイ人ではなく取税人の方でした。なぜでしょうか。

取税人は、自分の醜さに絶望し、悲しんでいました。しかも、自分の内側には自分を変える力がないことも思い知らされていました。ですから、神さまに赦しを請い、神さまがこのどうしようもない自分を造り変えてくださるようにと願いました。

一方のパリサイ人は、自分のことを正しいと思っていました。正しければ、変わる必要がありません。ですから、神さまに自分を赦してくださいとも、変えてくださいとも祈りませんでした。

ところが、「はたして信仰が見られるでしょうか」というイエスさまの問いに真剣に答えようとするならば、「私には本物の信仰があります」と言える人は誰もいません。人や自分がどう評価するかではなく、神さまがどう評価しておられるかという基準に立てば、誰も自分を誇ることはできないのです。

ですから、自分に完全な信仰がないということを思い知らされた私たちは、この取税人のように、謙遜に赦しを願い、助けを求めなければなりません。そして、神さまはその謙遜な祈りを聞き、新しい力を授け、人生を造り変えてくださいます。これがきよめです。

3.今の私にとってどんな意味があるか

不安になったら神さまに出会うチャンス

イライラしたり、不安になったりしたときは、きっとあなたの頭の中にある神さまイメージが、貧相になっているときです。イライラしたり不安になったりしたら、考えてみましょう。私は父なる神さまのことを、イエスさまのことを、聖霊さまのことを、どういうお方だとイメージしているんだろうかと。

悔い改めよう

そして、聖書が教える神さまイメージに戻りましょう。「あなたはこういうお方でした。信じないでごめんなさい」と悔い改め、「あらためて信じます」と宣言し、「さらに確信を与えてください」と助けを求めましょう。

期待し、祈り続けよう

その上で、自分の現状を神さまに訴えて、何とかしてくださるように神さまに祈り始めましょう。

その祈りは、もう何度目でしょうか。どれだけの期間祈り続けたでしょうか。それでも、神さまは愛にあふれ、全知全能だから、私は幸せになるしかないのだと自分を励ましながら、さらに祈りを続けてみましょう。 この話をお読みください

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


Copyright(c) 2012 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.