人は変わることができる

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ルカによる福音書19章1〜10節

(2012.2.5)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

人は変わることができます。

1.何が書いてあるか

いつ(When)

きょう(5節と9節)。

どこ(Where)

エリコ。

いちじく桑の木の上(4節)。

ザアカイの家(5節)。

罪人のところ(7節)。

誰(Who)

イエスさま。取税人ザアカイ。群衆。

何がどうした(What & How)

エリコに入られたイエスさまは、いちじく桑の木に登っていた取税人の頭であるザアカイに、「今日はあなたの家に泊まることにしてある」と声をかけました。ザアカイは喜んでイエスさまを迎え入れましたが、人々はイエスさまを非難しました。しかし、ザアカイは、貧しい人々への施しと、だまし取った人たちへの賠償を約束します。そして、イエスさまは、救いがこの家に来たとおっしゃいました。

なぜ(Why)

なぜイエスさまはザアカイを選んで客となられたのでしょうか。

なぜ人々は、ザアカイを罪人と呼んだのでしょうか。

なぜ人々は、ザアカイの客となったイエスさまを非難したのでしょうか。

なぜザアカイは、自ら進んで施しと賠償を約束したのでしょうか。

なぜイエスさまは、救いがこの家に来たとおっしゃったのでしょうか。

なぜイエスさまはザアカイを「アブラハムの子」と呼んだのでしょうか。

2.どんな意味か

小さな心の声に忠実に

ザアカイは、イエスさまが来られたという噂を耳にして、家を飛び出し、木に登りました。「イエスがどんな方か見ようとした」と書かれています。直前の18:35-43では、イエスさまがエリコに入る直前、目の見えない人をいやしています。噂が町中に広まって、ザアカイも興味を持ったのでしょう。

意識の上では、単なる野次馬精神に過ぎなかったのかもしれません。しかし、彼の心の奥底には、イエスというお方に対する、野次馬精神以上の何かが動いていたようです。

聖書は、彼が取税人のかしらで、金持ちであったと記しています。7節で、町の人々がザアカイのことを罪人と呼んでいますが、それは彼が取税人だったことと関係します。取税人は、ローマ政府にしっぽを振る売国奴としてさげすまれていました。そればかりでなく、取税人は、規定よりもたくさんの税を徴収して財をなしたので、金持ちではありましたが、盗人同様の罪人として、人々から嫌われていたのです。そこで、パリサイ人たちが、「取税人とつき合っていいのは、取税人か遊女だけだ」という規則を作って、人々に教えたほどです。

ザアカイは金持ちでしたが、取税人仲間以外に、彼と付き合ってくれる人はいませんでした。取税人仲間とて、金を通しての付き合いであり、彼自身を本当に受け入れ、愛してくれる友人ではありません。ザアカイの心には深い孤独感がありました。

また、ザアカイという名には「きよい人」という意味がありますが、自分で自分がきよいなどとはとても言えないような人間であることを、彼自身はよく知っていました。彼はユダヤ人ですから、全知全能の神がおられることを知っていましたが、人生の現実の前に、いつの間にか金を中心にした生き方をせざるを得なくなってしまっていたのです。しかし、きっと心の中には、「これではいけない」という小さな声も響いていたことでしょう。それを押し殺して、ザアカイは今まで生きてきました。

「ナザレのイエスが来られた!」 その声は、彼の心の奥底に眠っていた思い、「今の生き方を何とかしなければ」という思いを呼び覚ましたのです。彼ははっきり意識しなかったかもしれませんが、それでもその思いは、彼の手足を動かすほどの力を呼び起こしました。

あなたの心には、「このままではいけない」「イエスさまに助けていただかなければ」という小さな声が響いてはいませんか? もしそうなら、その声を無視してはいけません。そして、神さまに取り扱っていただかなければなりません。

無条件の愛を知ろう

そんなザアカイの所にイエスさまは来られました。そして、「あなたの家に泊まる」とおっしゃいました。エリコには、町の名士たち、あるいは義人だと言われる人たちが何人もいたはずです。しかし、わざわざイエスさまは、町で最も嫌われていると言っていいザアカイの家を選ばれました。そして、ザアカイの心の奥にあった孤独感や罪責感をいやしてくださいました。

ザアカイの家に着いたイエスさまは、ザアカイに向かって、彼の問題点をびしりと指摘され、悔い改めを迫った……とは、聖書のどこにも書いていません。「お前を赦す」とさえおっしゃっていません。イエスさまは、ただただザアカイの客となり、ザアカイとの交わりを楽しまれたのです。イエスさまは、ザアカイを神さまに呪われた罪人としてではなく、神さまに愛された、神さまの子どもとして接してくださいました。

ザアカイだけではありません。旧約聖書の昔から、今も、そして黙示録が描く世の終わりに至るまで、自分の罪を自覚し、神さまに罪を赦してくださるよう恵みを求める人を、神さまは受け入れ、赦し、祝福してくださいます。

では、罪などどうでもいいのでしょうか。いいえ。どうでも良くありません。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と書かれているとおり、罪はさばかれなければなりません。しかし、そのさばきを、イエスさまが身代わりにすべて受けてくださいました。

エリコの町を出ると、イエスさまはいよいよ十字架にかかるため、エルサレムに向かおうとしています。過去・現在・未来のすべての人の罪のために、イエスさまは十字架にかかって血を流し、死んでくださいました。その結果、罪のさばきが完了し、古今東西のすべての罪人の罪が、ただで赦され、救われることが可能になりました。

ザアカイは、イエスさまが教えてくださった神さまの無条件の愛に感動しました。そこで、神さまが望まれるような生き方をしたいと思いました。イエスさまはそうしなさいと要求しませんでしたが、ザアカイは自発的に新しい生き方へと自分をシフトしたのです。

イエスさまは、恐怖や欲に訴えるのではなく、愛によって人を新しい生き方へと導かれます。あなたは神さまの罰を恐れて、正しい行ないをしようとしてきませんでしたか?

アブラハムのような信仰を持とう

ザアカイのことを、イエスさまは「アブラハムの子」と呼ばれました。これは、直接の意味としては「ユダヤ人」ということです。「アブラハムの子だから、救いが来た」と。じゃあ、私たちアブラハムの子孫ではない異邦人はどうなるのでしょうか。ガラテヤ3:5-9に、このように書かれています。

「とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される』と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです」

アブラハムは「祝福するよ」と神さまに言われて、「そうですか。ありがとうございます」と受け取りました。これが信仰です。同じように、神さまはあなたにも「あなたを祝福するよ」とおっしゃっています。どうぞ、受け取ってください。アブラハムのように、そしてザアカイのように。

3.今の私にとってどんな意味があるか

私たちもザアカイです。それは人をだまして金をむさぼる人間だということではありません。ザアカイにはザアカイの痛みがあったように、私たちには私たちの痛みがあります。

イエスさまがザアカイの孤独感や罪責感を、「あなたの家に泊まる」という一言でいやされたように、イエスさまはあなたの人生をも新しくしてくださいます。あなたは、すでに新しい生き方を手になさったでしょうし、これからもますます新しい生き方へと導かれていくことでしょう。

そのために、次のことを考えてみてください。
  1. あなたは今、どんな心の声を聴いていますか?
  2. 神さまに対する恐れから行動していることはなかったでしょうか?
  3. あなたは今、どんな神さまの祝福の約束を信じなければなりませんか?

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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