新しい血の契約

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ルカによる福音書22章14〜23節

(2012.3.4)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

この箇所は、聖餐式について教えています。

1.何が書いてあるか

いつ(When)

時間になって(14節)。
苦しみを受ける前(15節)。
過越が神の国において成就するまで(16節)
感謝をささげて後(17節)
今から、神の国が来るときまでは(18節)
食事の後(20節)

どこ(Where)

食卓、席(14節)
神の国において(16節)
食卓

誰(Who)

イエスと使徒たち。

何がどうした(What & How)

イエスさまは、弟子たちと一緒に過越の食事をなさいました。そして、パンを割いて弟子たちに与え、杯(ぶどう酒が入っていました)も同じようになさいました。そのとき、パンは「あなたがたのために与える、わたしのからだ」、杯は「あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」とおっしゃいました。

過越については、上の用語の解説を参照。

「過越が神の国において成就する」(16節)時とは、「神の国が来る時」(18節)と同じ意味です。世の終わりに、神さまが私たちに与えてくださる救いが完成する時です。「二度と過越の食事をすることはない」と「ぶどうの実で造ったものを飲むことはない」も同じ意味です。

「わたしを裏切る者」(21節)とは、イスカリオテ・ユダのことです。彼は、民衆の目の届かない時にイエスさまが逮捕されるように、ユダヤの指導者たちに情報を流す約束をしていました(3-6節)。イエスさまは、この時点ではまだ民衆に支持されていましたから、彼らの目の前で逮捕すると、暴動が起きかねないからです。

なぜ(Why)

イエスさまが、「過越が神の国において成就するまで、二度と過越の食事をすることはない」「神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」とおっしゃったのはなぜでしょうか。

裏切り者が弟子たちの中にいることを知っていながら、どうしてイエスさまはそれを防ごうとなさらなかったのでしょうか。

2.どんな意味か

これを行なえ

イエスさまは、当時の弟子たちに、パンを割いて食べ、ぶどう酒を分かち合って飲むように命じました。そして、「わたしを覚えてこれを行ないなさい」(19節)というのは、1回限りでなく、継続的な行動を促す命令形です。ですから、この食事はこの時限りでなく、その後もずっと教会のクリスチャンの間で行なわれ続けました(第1コリント11章にも触れられています)。

この特別な食事のことを、今は「聖餐」と呼びます。

教会には様々な儀式がありますが、特にイエスさまが直接行なうように命じた儀式のことを「礼典」と言って、2つあります。一つは洗礼(マタイ28:19)、もう一つが聖餐です。

聖餐は、してもいいししなくてもいいようなオプション的な儀式ではなく、しなければならない儀式です。私たちの教会では、これまでも聖餐を行なってきたし、これからも行ないます。

聖餐の意味を知れ

イエスさまは「わたしを覚えて」聖餐をするようにと命じていらっしゃいます。イエスさまを覚えるとはどういうことでしょうか。これは、イエスさまが私たちのために何をしてくださったのかを思い起こし、感謝しながら、ということです。

イエスさまは、裂かれたパンはイエスさまの肉体、真っ赤なぶどう酒はイエスさまの血による新しい契約だとおっしゃいました。しかも、そのどちらも私たちのために与えられるものだと。

過越の祭りが記念しているのは、出エジプトの時の歴史的事件です。全エジプトに神さまのさばきが下ろうとしていた時、神さまはイスラエルにさばきを逃れる方法を教えてくださいました。それは、子羊を殺し、それぞれの家の入り口に血を塗るという方法でした。さばきをもたらす天使は、子羊の血を見るとその家を通り過ぎます。すなわち、その家にはさばきは下らなかったのです。そして、血の塗ってない家にはさばきが下り、そこの長男が死にました。
過越
本来死ぬべき長男の代わりに、子羊が肉体を引き裂かれ、血を流しました。その血を見れば、神さまはその家にさばきを下さない。これが「血による契約」です。

そして今、イエスさまの血による新しい契約が与えられました。過越の子羊のように、イエスさまが肉体を引き裂かれ、血を流されました。十字架にかかられたからです。その血を見て、神さまは人間の罪を赦し、さばきを過ぎ越させてくださいます。

新約聖書の「新約」とは、まさにこの、イエスさまの血による新しい契約のことです。

イスラエルの民は、毎年過越の祭りを行ない、過越の食事を食べました。それは、この歴史的な出来事を忘れず、後の世代に伝えるためです。そして、まるで自分自身が出エジプトの現場にいて、神さまに救い出されたことに感動し、感謝をささげ、これからも神さまを信頼して仕えていこうと決意を新たにするためです。

私たちクリスチャンは聖餐を行ないます。それは、イエスさまを覚えるためです。イスラエルの民のように、私たちも聖餐を行なうたびに、今まさに私たちの目の前でイエスさまが十字架にかかり、私たちのために肉体を裂き、血を流してくださり、それによって救いが与えられたのだということに感動詞、感謝をささげ、これからも神さまを信頼して仕えていこうと決意を新たにしましょう。

神のことばに信頼せよ

たとえ、アブラハムの子孫であるイスラエル人であったとしても、神さまのことばに信頼せず、子羊の血を家の入り口に塗らなかった家では、エジプト人の家と同じようにさばきが下りました。

これは出エジプトの時だけではありません。ノアの洪水の時もそうです。ノアは、神さまのことばを信じて、箱船を造り、その中に入りました。だからさばきを免れました。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、神さまのことばに信頼したので、さばきを免れ、祝福を手に入れることができました。

旧い契約においても、新しい契約においても、ポイントは「神さまのことばに信頼する」ということです。

イエスさまは、「人の子(イエスさまのこと)を裏切るような人間はのろわれます」とおっしゃいました。これは、イスカリオテのユダのことを指しています。しかし、彼だけがイエスさまを裏切ったわけではありません。ペテロもイエスさまを裏切って「あんな奴のことは知らない」と3度も言いました。他の弟子たちも、イエスさまが捕らえられた時、見捨てて逃げ出してしまいました。

ユダと他の弟子たちは何が違ったのでしょうか。ユダは罪の赦しを信じませんでしたが、他の弟子たちは信じました。ですから、ユダは自分のやったことに絶望して自殺してしまいましたが、他の弟子たちは図々しくイエスさまの元に戻ってきました。

ユダの方がずっと潔い人だったという評価も成り立つかも知れません。しかし、聖書が評価するのは、人がどう思うか、どう言うかではなく、「神さまのことばが何を教えているかを聞き、それに信頼する」ということです。

私たちも、出エジプトのイスラエルのように、11人の弟子たちのように、神さまのことばを素直に信頼しましょう。

3.今の私にとってどんな意味があるか

契約

聖書が教える救いとか、祝福の約束とか、さばきの警告とかは、神さまとの契約に基づきます。いったん締結されたら、契約は絶対です。そこには、私たちの気分が介入する余地はありません。

契約で「祝福される」と言われていたら、気分的にそんな気がしてもしなくても、とにかく祝福されます。

あなたの信仰は、気分によるものでしたか? 他の人の声によるものでしたか? 社会の常識によるものでしたかか? それとも、神さまのことばである聖書に基づくものでしたか?
新しい契約

神のことば

法律は知らないと損です。それと同じように、神さまとの契約も知らないと損です。神のことばである聖書をもっともっと学ぶための機会を設けましょう。

信仰告白

神さまのことばを学んだら、次に必要なステップは、それを信じることです。まずは、「あなたのこのことばを信じます」と祈りましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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