御国の位にお着きになるとき

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ルカによる福音書23章35〜46節

(2012.3.25)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

どんな荒野でも、根を深く地下水脈まで伸ばした木は、そこから豊かな水分を吸い上げて、青々と茂ることができます。私たちの信仰の根を深く伸ばすことができたなら、どんな困難の中にあっても、平安、喜び、愛、希望、感動、向上心などを失うことがないどころか、他の人々に分かち合っておつりが来るでしょう。

今回は、困難の中にあって、どのように信仰の根を伸ばすかということがテーマです。

1.御国の位に着く

女の子孫

イエスさまと一緒に2人の犯罪人が十字架につけられました。犯罪人Aはイエスさまに悪口を言いましたが、もう一人の犯罪人Bはイエスさまに言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」。

また、犯罪人Bに対してイエスさまがおっしゃった「パラダイス」というのは、人が死んだ後に入る楽園のことです。ここでは「御国」と同じものです。

「御国の位に着く」という意味、「わたしとともにパラダイスにいる」ということについて理解するには、まずはアダムとエバの時代までさかのぼる必要があります。創世記の最初の3章です。アダムとエバは、神さまに造られた最初の人間です。彼らは、エデンの園というすばらしい場所に住み、いつも神さまと親しく交わっていました。

ところが、アダムとエバは、神さまに逆らってしまいます。これだけは食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったのです。たかが木の実くらいいいじゃないかと思うかもしれませんが、大事なのは神さまに逆らったというところです。神さまを退けて、自分が神さまになってしまったのです。

この罪により、アダムとエバは呪いを受けることになりました。
  • 神さまとの愛の交わりを失い、罰を恐れるようになりました。
  • 自分自身のありのままの姿が受け入れられなくなりました。
  • 他の人との争いが始まりました。
  • 自然が、時に人間に悪影響を与えるものになりました。
  • この世が、いくら努力してもあまり報われない世界になってしまいました。
  • 妊娠・出産が苦しいものになりました。
  • そして、人間は死ぬ者になってしまいました。
しかし、神さまは、アダムとエバに希望をお与えになりました。すぐに人類を滅ぼしたりなさいませんでした。そして、「女の子孫」と呼ばれる男の子が生まれ、彼が人類を罪に誘い込んだサタンの頭を踏み砕き、人類を罪ののろいから解放するという約束をお与えになりました(創世記3:15)。いわゆる救い主です。

メシヤの王国

旧約聖書は、この「女の子孫」がいったいどういう方なのか、人類のために何をしてくださるのかということを少しずつ明らかにしていきます。後に、この「女の子孫」はメシヤ(ヘブル語で油注がれた者という意味。ギリシャ語ではキリスト)と呼ばれるようになります。

メシヤは、この世界に彼の王国(聖書では、天の御国とか神の国とか呼ばれています)を打ち立てます。そして、サタンや悪霊たち、反逆する者たちを滅ぼして、国民に完全な平和、完全な幸福、完全な解放をもたらしてくれます。メシヤの王国では、もはや死ぬことはなく、苦しみも悲しみもありません。

「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない」と【主】は仰せられる。」(イザヤ65:17-25)

神の国の市民になりたい

犯罪人Bは、イエスさまがメシヤとして王国を打ち立てるとき、自分を思い出して欲しいと願います。これは、自分もメシヤの王国の市民として迎え入れて欲しいということです。
神の国に入りたい!
彼は犯罪人でした。メシヤに拒否され、永遠の滅びを身に受けても仕方のない存在でした。彼はそれを分かっていました。分かっていながら、なおも自分をメシヤの王国の一員にして欲しいと願います。それは、彼がメシヤの王国の一員になることを、切に願っていたからです。

なぜでしょう。どんな国の市民権を持っているかというのは、私たちにとって大きな意味を持つからです。福祉が充実し、食べるにも住むのにも不自由しないそういう国の市民ならいいですが、内戦が続き、汚職がはびこり、食べるものもなく、とんでもないインフレでものが買えないような国の市民では大変ですものね。

犯罪人Bは、間もなく死のうとしていました。死ぬ前に、自分が神の国に迎え入れられるというのが、彼にとって唯一残された希望でした。

次に、神の国の一員になることで、犯罪人Bにとって、そして私たちにとって、どんな希望が与えられるのかということを見ていきましょう。

2.メシヤの王国の希望

死の恐怖に打ち勝つ

自分は天国の市民権を持っていて、今もそして死んでからも天国の市民であり続けるという信仰は、私たちに希望を与えます。

まず、死に対する恐れを軽くします。私たちはよく分からないものを恐れます。死んだらどうなるんだろう。意識も何もすべて無くなってしまうのだろうか。残された家族はどうなるのだろう。自分はやがて誰からも忘れ去られてしまい、自分が生きていたという証拠すらなくなってしまうのだろうか。

私が子どもの頃、熱を出すといろんな変な夢を見ました。その一つが、「自分がいない世界の夢」です。自分は最初からこの世に存在せず、それでも日常生活がたんたんと過ぎていくという夢。これは恐ろしかったです。私にとって死というのは、自分の存在がまったく消えて無くなってしまうことでした。

特に、私たち人間には、たとえ自分は無神論だと言いながらも、どこかに神さまの罰を恐れる思いがあります。死んだらどうなるんだろうという恐れの中には、罰を恐れる気持ちも含まれるでしょう。

しかし、イエスさまが私たちを神の国の一員にしてくださるなら、私たちは死後の運命について明確になります。私たちは神さまの元に行き、罰を与えられるのではなく、ねぎらいと大いなる祝福をいただきます。そして、神さまは私たちを永遠に幸せにしてくださいます。
死への恐れが

人生に意味を見いだす

そして、人の一生は死んで終わりではないということを知れば、人生に意味を見いだすことができます。

もしも、死んで終わりだとすれば、真面目に生きてもそうでなくても変わりがありません。長いか短いかも、永遠と言うときに比べれば意味をなしません。これを突き詰めていけば、「人生とは暇つぶしである」という虚無感にとらわれることになるでしょう。同じ新生キリスト教会連合の川端光生牧師は、これを「死んだら無シンドローム」と名付けました。

しかし、人生は死で終わりません。私たちはこの地上に生きているときに行なったことすべてが、神さまによって覚えられていて、たとえこの地上で報われなかったとしても、死んだ後にしっかりと報いをいただくことができます。この地上では目に見える成果を出せなかったとしても、それは神の国が発展するために必要不可欠の働きだったと認められ、ねぎらわれ、感謝されます。

だからクリスチャンたちは、たとえ誰からもほめられず、認められなくても、かえってバカにされたり、邪魔をされたりするようなことでも、それが神さまの喜ばれることならば、見返りを求めず努力することができるのです。

キリストが共にいる

イエスさまは、犯罪人Bに「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」と約束されました。このメッセージを準備しているときに、「わたしとともに」という言葉が目に飛び込んできました。

メシヤの王国に迎え入れられるということ、そしてパラダイスに入れられるということは、それはメシヤであるイエスさまと一緒にいるということです。イエスさまがいつも、どんなときも一緒にいてくださる。これこそ、私たちが受け取ることのできる最高の神さまからの祝福です。

そして、イエスさまが私たちと一緒にいてくださるのは、「きょう」です。あなたはまだ生きています。死ぬまで待つ必要はありません。今ここで、イエスさまはあなたと共にいてくださいます。

問題が解消することは祝福です。病気がいやされることも祝福です。経済的に支えられることも、仕事がうまくいくことも、人間関係が円満になることも祝福です。しかし、イエスさまが共にいるという祝福にとっては、取るに足りません。なぜなら、あらゆる祝福は、全知全能であるイエスさまが私と一緒にいてくださるというところから発するからです。

私たちは、クリスチャンとなって以来、イエスさまが共にいてくださることの喜びを味わってきました。しかし、もっともっと私たちの目が開かれて、その喜びを味わわせていただきましょう。いやされるとか、問題が解決するとか、そういうことさえも忘れ去ってしまうほどに、圧倒的にイエスさまの臨在が私たちを捕らえることを求めましょう。たとえ死を前にしても、イエスさまが一緒にいてくださるんだから、何の問題があろうかと思えるほどに。

では、どのようにして、私たちはイエスさまの御国を体験し、イエスさまの臨在を味わうことができるのでしょうか。

3.信仰によってメシヤの王国に加えられる

イエスこそメシヤ

「あなたが御国の位にお着きになるとき」と犯罪人Bが語りかけたとき、イエスさまはどういう状態でしたか? イエスさまは犯罪人たちと同じように十字架にかけられ、弱り果て、人々からあざけられ、間もなく死のうとしていました。そういうイエスさまを見て、犯罪人Aはイエスさまをメシヤだと信じませんでしたが、犯罪人Bは「それでも、あなたはメシヤです」と告白しました。「あなたの御国にお着きになるとき」とは、そういうことです。

私たちの希望の土台は、イエスさまです。イエスさまがいったいどういうお方なのか、私たちがどのように信じ、告白するか、それが私たちの信仰の根っこです。

イエスさまはメシヤ、キリスト、救い主です。メシヤであるイエスさまは、メシヤの王国を打ち立て、人類に完全な解放を与えるお方です。イエスさまはイエスさまを信頼するものを決して捨てず、メシヤの王国の一員とし、いつも共にいてくださいます。あなたはそれを信じていますね?
イエスが共にいる
しかし、あるいはあなたは、イエスさま以外にも、イエスさま以上の希望の種を持っていませんでしたか? お金も友情も恋愛も社会的成功も、それ自体はすばらしいものです。自分がカウンセラーをやってきたから言うんじゃありませんが、医学も心理学も大いに助けになります。

しかし、イエスさまに勝る希望はありません。いや、イエスさま以上にそれらに希望を起き、信頼しすぎるならば、私たちはかえって足下をすくわれます。人間の業は不完全であり、永遠に変わらないものではないからです。

あるいは、イエスさま以上の霊的存在を求めてこなかったでしょうか。別の神々や偶像を礼拝するというのは論外ですが、特に日本ではオカルトが大ブームで、しかも、遊び感覚で私たちの生活に忍び寄っているということに注意しなければなりません。さまざまな占い、風水、オーラ判定、前世や背後霊の話題、願掛けやまじないやお守りの類い……。私が子どもの頃にはこっくりさんがはやりましたが、似たような遊びは今でもあります。

イエスさまが救い主であって、私たちの最終的な希望です。それをいつも確認し続けましょう。それが私たちに、様々な苦しみの中にあっても、平安や希望や喜びを与えます。

恵みにより頼もう

犯罪人Bが、自分は大変な犯罪者で、メシヤの王国に迎え入れられる資格など無いと知りながら、それでも自分を迎え入れて欲しいと願ったのは、彼がメシヤの王国の一員になることの価値を知り、一員になりたいと強く願っていたからだと申し上げました。

と同時に、彼にはイエスさまのご人格に対するある信仰があったからです。それは、罪人を罪人がからと退けるのではなく、天の父なる神さまに罪の赦しを求め、ただあるがままの姿で王国に迎え入れてくださる、愛と恵みに満ちたお方だという信仰です。

彼は、イエスさまの十字架上の祈りを聞きました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(23:34)。

ああ、ああ! この方は、なんと愛と恵みにあふれていることか! だから、彼は、自分を赦し、御国に迎え入れて欲しいと申し出る勇気が与えられ、そのように申し出ました。そして、イエスさまから、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」との確約を得ました。

あなたは、自分なんかのそばにイエスさまが来てくださるはずがないなんて思っていませんか? イエスさまは、あなたと共にいてくださいます。それを信じましょう。

まとめ

どんな問題のただ中にあっても、なおも平安や希望や喜びに満たされるカギ。それは神の国の王であるイエスさまが、この私を受け入れ、共にいてくださるという信仰です。そして、信仰は体験を生み出します。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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