罪に対して死んだ私たち

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ローマ人への手紙6章1〜11節

(2012.4.1)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今週は、イエス・キリストが十字架にかかられたことを記念する受難週です。

キリストの十字架は、私たちのすべての罪を赦します。しかし、イエスさまを信じた後も、私たちは罪を犯してしまうことがあります。いや、毎日失敗していますね。そして、問題を引き起こしたり、がっかりして落ち込んだりしてしまいます。

今日は、罪の赦しと私たちのきよめの関係についてお話しします。

1.私たちは死んでいる

シックスセンス

「シックスセンス」という映画をご存じでしょうか。マルコムという児童心理学者は、ここ一年ほど奥さんとうまくいっていませんでした。奥さんは彼を無視し、別の男性に心を引かれているようです。

そんなとき、彼はコールという少年と出会います。コールには霊感があって、死んだ人が見えるといいます。そして、そのために家族や友だちとうまくいかなくなって悩んでいました。最初は信じていなかったマルコムでしたが、やがてコールのことを信じて、一緒に死者がコールの回りに集まってくる理由を探るようになります。

そして、最後の最後にマルコムは気づきます。実は、自分も死んでいて、コール以外の人には見えていなかったんだということを。

ぞくっとするような話ですが、聖書は今日の箇所で、あなたも実は死んでいるんだと語っています。イエス・キリストが十字架にかかって死んだとき、イエスさまを信じる私たちも一緒に死んだんだ、ということです。そして、それは私たちにとってはすばらしいことです。

さばかれない

私たちがイエスさまの十字架と共に死んだのがなぜすばらしいか。その理由の一つは、もう罪によって裁かれることがないからです。

十字架は刑罰です。私たちがイエスさまの十字架と共に死んだというのは、私たちも罪の罰を受けて死んだということです。ですから、罪の罰は完了しました。もう、私たちは罪の故に神さまに呪われ、永遠の滅びを招くことはありません。

罪から解放された

そして、二つ目のすばらしい理由は、罪から解放されているということです(7節)。

アダムの子孫である私たちの内側には、罪の性質が宿っています。そして、神さまに逆らう方向、神さまを無視する方向、神さまを悲しませる方向にいつも私たちを引っ張っていきます。この状態を、パウロは「罪の奴隷」と呼んでいます。

まさにかつての私たちはそうでしたね。良くないと分かっている習慣から抜けられなかったり、自分や周りの人を傷つけるようなことを繰り返したり、お金やお酒などにとらわれて振り回されてしまったり……。

しかし、イエスさまの十字架によって、イエスさまを信じる前の古い私たち、罪の奴隷であった私たちは死にました。奴隷が死んだら、もう過酷な主人に従わなくてもかまいません。そのように、私たちを支配していた罪は、もう私たちを無理矢理従わせることができなくなってしまいました。

かつての私たちは、罪を犯さないではいられませんでした。しかし、イエスさまと共に死んで、新しい命に復活した私たちは、もう罪を犯さなくても良い存在になりました。イエスさまの十字架は、それを保証しています。

しかし、実際には、クリスチャンであるあなたも私も、毎日のように失敗し、罪を犯しています。次に、クリスチャンが犯す罪について考えてみましょう。

2.それでも罪を犯す

クリスチャンは罪を犯さない

パウロは、「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」(2節)と語っています。すなわち、クリスチャンは罪の中に生きられないということですね。

また、ヨハネも第1ヨハネ3:6と9でこう語っています。「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」。

え? だったら、今でも罪を犯してしまう私は、クリスチャンとは言えないのではないでしょうか。もしかしたらあなたも?

しかし、ここの「罪を犯しません」という言葉は、文法的には継続を意味する言葉が使われていますので、「継続的に罪を犯しません」という意味です。パウロが「罪の中に生きられない」と語っているのと同じです。

パウロへの批判

パウロは、イエスさまの十字架によって、私たちは律法の行ないによるのではなく、ただ神さまの恵みにより、そしてそれを信じる私たちの信仰によって救われると教えました。

それに対して、一部のユダヤ人がこう反論しました。「パウロの言う通りにただで救われるというのなら、安心してどんどん罪を犯そうということになるではないか。赦される罪が大きければ大きいほど、赦す神の恵みの大きさが際立つのなら、積極的に大きな罪を犯すことが、神をほめたたえるということになるじゃないか」(1節、15節)。

パウロは、「絶対にそんなことはありません」と強い口調で答えています。クリスチャンも、まだ完成されているわけではないから、弱さ故に罪を犯してしまうことはある。しかし、キリストを信じながら、「どうせ赦されるんだから、平気で罪を犯そう」なんて開き直るなんて不可能だ、と。ヨハネの主張も同じです。

申し訳なさとそれに勝る感謝

イエスさまに出会うということは、罪を犯すというのが、自分勝手で自由に見えて、実は自分を惨めにするものだということを痛感するということです。だから私たちは、自分の罪を悔い改めます。この生き方、このやり方、この考え方は間違っていたということを認めます。

そして、悔い改めとは、単なる悔いとは違います。それは改め、すなわち方向転換を含みます。「私は悪いと分かっているこのことを手放します。このことから離れます。このことをやめます。そして、正しい行ないをします」と神さまの前に宣言することです。

そして、聖書的な悔い改めは、感謝も含みます。イエスさまの十字架によって、自分のすべての罪が赦されているから、今回のこの間違いも赦されていると信じ、感謝することです。

罪を犯してしまい、それに気づかされて悔い改めるとき、クリスチャンの心の中には、神さまに対する申し訳なさがいっぱいになります。と同時に、そんな自分を赦してくださったという感謝に満ちあふれます。このような申し訳なさと、それに勝る感謝に満たされながら、同時に「どうせ赦されるんだから、口先だけでごめんなさいしておけばいいや」なんて思えるはずがありません。

だからパウロは「絶対にそんなことはない!」と叫び、ヨハネに至っては、「キリストのうちにとどまるものは、罪を犯さない」とさえ言い切っています。

3.新しいいのち

死んだだけではない

今回の箇所は、私たちがイエス・キリストと共に死んで葬られたんだということを教えています。しかし、それだけではありませんね。イエスさまは復活なさいました。ということは、私たちもイエスさまと共に新しく生まれたのです(4-5節)。

新しく生まれた私たちの内には、新しいいのちが息づいています。それは、キリストの霊である聖霊さまによる命です。私たちがイエスさまを救い主だと信じたとき以来、聖霊さまは私たちの内側に住んでくださっています。

また、聖霊さまは、私たちが神さまの赦しの愛に感動できるように、そして罪を離れて聖い生き方ができるように助けてくださいます。

3つのキーワード

アルファ・コースというキリスト教の入門講座を指導しているニッキー・ガンベル牧師が、クリスチャン生活を始め、継続していくのに必要な、3つの祈りのキーワードについて語っています。それは
  • ごめんなさい
  • ありがとう
  • お願いします
です。

ごめんなさいとは罪の悔い改め。「どうぞ私の罪を赦してください。悪いと分かっているこの罪から離れます」という祈り。

ありがとうとは赦しの感謝。「イエスさまの十字架によって、罪が完全に赦されていることを感謝します」。

お願いしますは聖霊を求める祈り。「きよい生き方ができるように、聖霊さまで満たし、助けてください」。

あなたも、ぜひこの祈りを積み重ねてください。
エーコちゃんの新生活
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まとめ

クリスチャン生活は、罪との戦いです。神さまは勝利を与えてくださいます。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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