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コリント人への第二の手紙5章14〜19節

(2012.6.10)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

聖書は、私たちがまったく新しくなったと宣言しています。。私たちはどのように新しくされるのでしょうか。

1.身分が新しい

呪われるべき神の敵から

19節には、「違反行為の責めを人々に負わせないで」という言葉があります。元々の私たちは、神さまに対して違反行為を行ない、そのために責任を問われるような存在だったということです。

聖書は繰り返し「罪」について教えています。決して耳障りのいい言葉ではありませんが、避けて通ることのできない問題です。というのは、これこそが私たちが本来の幸せな人生を送ることができない根本原因だからです。

「ヒステリー」という用語が、一般的に用いられる意味と、精神医学で用いられる意味とがまったく違うように、「罪」という言葉も専門用語ですから、一般的な日本語の「罪」という言葉の意味から離れて、聖書がどういう意味で用いているかを知る必要があります。
聖書がいう罪とは
聖書がいう罪とは、神さまに対する違反です。神さまの存在を喜ばず、せいぜい必要なときに必要な奇跡を行なって助けてくれる自動販売機扱いすること。神さまを尊重せず、軽く扱うこと。神さまのみこころ、すなわち好みや意志や願いや計画を無視して、自分の好きなことを好きなときに好きなようにやりたいという自己中心。これが罪です。

そして、神さまは正義の神ですから、罪人を裁かなければなりません。その罰は、神さまとの関係が断ち切られることです。神さまがあらゆる祝福の源ですから、神さまから完全に切り離されるというのは、あらゆる良いことから切り離されるということです。喜びも平安も感動も一切味わうことができない、他人とぬくもりのある交わりを持てない状態、永遠の滅びです。

さらに聖書は、すべての人が罪を犯したと教えています。どんなに努力しても、修行を積み重ねても、これから罪を犯さない存在になることは誰もできません。仮にできたとしても、これまで犯してきた罪が帳消しになるわけではありません。このままでは、全人類が、すなわち私もあなたも、違反行為の責めを負わされるべき状態でした。

愛されるべき神の子へ

しかし、聖書は教えます。イエス・キリストによって、私たちの罪は赦されました。イエスさまが、私たちの罪のために十字架で死なれたからです。

14節には、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」と書かれています。イエスさまが私たちの身代わりとして死なれたとき、私たちも神さまの裁きを受けて死んだと見なされました。すでに死刑になった人を、改めて死刑にすることはできません。ですから、もはや私たちが罪人として神さまに呪われ、裁かれることはなくなりました。

そして、それだけでなく、私たちは神さまの子どもにされました。イエスさまが復活なさったので、私たちも新しく生まれたのです。今度は罪人としてではなく、神さまに愛された、神さまの子どもとしてです。

神の子の特権

私たちは、神の敵という身分から、神さまの子どもという身分に移されました。その新しい身分があまりにもすばらしいので、聖書はそれを特権と読んでいます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。

それはどんな特権でしょうか。私たちの天のお父さんである神さまは、娘や息子である私たちの言葉、すなわち祈りに真剣に耳を傾け、私たちが願った以上の祝福で応えてくださいます。しかも、それは、私たちが立派な人間だからというのではありません。私たちが神さまの子どもだからです。

あなたの肉の両親は、もしかしたら、あなたの話に真剣に耳を傾けてくれなかったり、約束をすぐにすっぽかしたり、頼りがいのない弱々しい人たちだったり、気分次第で叩いたり、あなたの気持ちを傷つけるようなひどいことを言ったりした、そういう方々だったかもしれません。しかし、私たちの天のお父さまは、愛に満ちたお方であり、誠実なお方であり、力に満ちたお方です。

私たちは、すでに与えられているこの特権を、もっともっと活用しなければなりませんね。忍耐を持って、しかし大胆に祈るクリスチャンとなりましょう。

2.未来が新しい

希望のない未来から

罪はさばきを招きます。ですから、罪人となってしまった人間にとって、死はさばきの入り口になってしまいました。もしも、生きている間に、イエス・キリストによる罪の赦しを受け取っていなければ、死後に救われるチャンスはもう与えられません。すなわち、死んだ瞬間、さばきが確定してしまいます。

ですから、人間は無意識に、死を恐れるようになりました。罪人にとっての死は、何が待っているか分からない、恐ろしいものなのです。

希望に満ちた未来へ

しかし、5:1にはこのように書かれています。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」。

イエスさまによってすべての罪が赦されたことを信じたクリスチャンにとっては、地上の幕屋、すなわち今の肉体が朽ち果ててしまう死は、それで消えて無くなってしまうということではありません。また、さばきが確定してしまったということでもありません。私たちクリスチャンにとって、死は新しい人生の幕開けの時です。

それは誕生に似ています。お母さんのおなかの中だけが世界のすべてだと思っていた赤ちゃんは、産道をくぐり抜けて外の世界に出てきたとき、それまでとは違うまったく新しい人生を手にします。

おなかの中の赤ちゃんは、外の世界のことをいくら説明されても、本当には理解できないでしょう。この地上にいる私たちは、死後の世界を本当には理解することはできません。それでも、聖書はヒントになるようなことを教えてくれています。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』。
すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする』。また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である』」(黙示録21:3-5)。


死後に与えられる新しい人生においては、もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。
  • 死後の世界については、こちらの記事もご覧ください。
  • この世の終わりにどのようなことが起こるかについては、こちらの記事をご覧ください。

だからよく生きられる

死後の世界がすばらしいからといって、クリスチャンは、この世にさっさと見切りをつけ、早めに天国に行こうとして自殺したりはしません。むしろ、今与えられている地上の人生が、神さまのみこころにかなうものになるようにと、精一杯努力して生きていきます。それは、死んですべてが無駄になるのでなく、地上での生き方が必ず報われると知っているからです。

また、死後の新しい人生が、とんでもなく祝福されることを知っていますから、この地上で他の人との境遇の差などさほど気にせず、今自分に与えられているものを感謝して利用しようとします。ですから、様々なすばらしい結果を刈り取ることができます。

新しい死後の運命を手にしたあなたは、この地上での生き方も変わってきます。

3.生きる目的が新しい

自分勝手な生き方から

15節に、「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」と書かれています。

かつての私たちは、「自分のために生きる」生き方をしていました。罪とは、神さまを無視し、自分が神になって、自分勝手に生きることです。人間がめいめいに自分勝手な基準で行き始めた結果、この世は争いと不道徳に満ち、自然が破壊され、本来の人間性が失われてしまいました。

キリストのための生き方へ

しかし、クリスチャンには、「自分のために生きる」という古い人生の目的の代わりに、新しい目的が与えられます。それは、「イエス・キリストのために生きる」生き方です。

「本当の自分探し」とか「自己実現」がもてはやされて久しいですね。しかし、「本当のあなた」とは、神さまがご覧になっているありのままのあなたのことです。その本当の姿は、自分では認めたくないようなものを抱えていたり、もっと別のこういう自分だったらいいのにと思うようなものかもしれません。

しかし、それがあなたです。神さまによって造られ、生かされているあなたなのです。そして、そのあなたのことを、神さまは愛しておられます。

本当の自己実現とは、私たちが神さまに造られた存在だということを知り、造られた目的に従って生きることです。あなたは、キリストに従い、キリストのために生きるように造られました。その目的に従って生きるとき、あなたは本当の喜びとか、充実感とか、感動とかを味わうことができます。

正しい問いをしよう

  • 私は何がしたいだろうか。
  • 私にとって何が得だろうか。
  • 私が認められるだろうか。
……ではなく、
  • イエスさまは何をして欲しいと思われるだろうか。
  • イエスさまの計画にとって、どうすることが最善だろうか。
  • イエスさまのすばらしさが明らかになるにはどうしたらいいだろうか。
それが私たちの行動原則になりますように。

まとめ

これらの変化は、人間の努力や知恵によるのではありません。「これらのことはすべて、神から出ているのです」(18節)。ですから、新しい人生を味わうのに必要な最初のステップは、神さまがあなたのためにしてくださったことを知り、それを味わうことです。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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