「エル・ロイ」ご覧になる神

【神の呼び名シリーズ4】

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創世記16章1〜13節

(2012.6.11)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今日は、ハガルという女性が神さまを「エル・ロイ」と呼んだ記事から学びます。意味は、「ご覧になる神」です。

1.アブラハム一家の家庭内不和

アブラハム契約

神さまの呼び名シリーズの第2回目で、聖書の神さまはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ヤハウェであり、その名は契約の神だということを表すと学びました。神さまは、全人類を救うため、すなわち、人類を罪ののろいから解放し、神さまからの圧倒的な祝福のうちに生きられるようにするため、アブラハムと契約を結ばれました。

その主な内容は3つです。一つは、「子孫の約束」で、アブラハムから出る子孫が、星の数のように増え広がるという約束。二つ目は、「土地の約束」で、今のパレスチナを中心とする広大な地域を、アブラハムとその子孫の所有地とするという約束。もう一つは、「祝福の約束」で、アブラハムとその子孫(すなわちユダヤ人)が神さまによって祝福されるということでした。

そして、アブラハムとその子孫であるユダヤ人を通して、彼らと同じように全世界の人々が神さまと出会い、神さまを信じて祝福されるようにするという大切な使命も与えられました。これがアブラハム契約と呼ばれる契約です。

そういうわけで、アブラハム契約には、子孫の約束が含まれています。ところが、アブラハムとサラの夫婦(この当時はアブラム、サライという名でした)には、子どもが生まれませんでした。しかし、神さまは、アブラハムに子どもが与えられると約束されたのです。

初めて子孫の約束が与えられたとき、アブラハムは75歳、サラは65歳でした。この当時は今よりも寿命が倍くらい長かったので、サラの年格好は、今の30代半ばの感覚かもしれません(何しろ12章では、サラがあまりに美しいので、エジプトの王が彼女を後宮に迎え入れようとしたくらいです)。すなわち、まだ十分妊娠の可能性がありました。

人間的な解決

ところが、その後もサラが妊娠することはありませんでした。そして、約束されてから10年が経過しました。

家長制度が厳格な時代、また妊娠のメカニズムが明らかになっていない時代、不妊の女性というのは、今では考えられないほど見下げられていました(日本でも、「嫁して三年子なきは去れ」などと言われた時代がありましたね)。アブラハムはサラを大切にしたはずですが、それでもサラは何十年も惨めな思いで暮らしていました。そして、神さまの約束があって、もう一度期待を膨らませただけに、10年たっても妊娠しなかったというのは、サラをますます惨めにしたことでしょう。

そこで、これはもう自分には妊娠の可能性がないと考えたサラは、エジプトで手に入れた若い女奴隷のハガルを、側室としてアブラハムに差し出しました。正妻に子ができない場合、側室によって跡継ぎをもうけ、家名を存続させるというのは、かつての日本でもしばしば見られた行為ですし、当時の中東の習慣や法律にもかなった方法でした。

そして、このような場合、生まれた子どもは、法的には正妻の子となります。サラが、「たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう」(2節)と語っているのはそのためです。サラは、ハガルが産む子どもを抱くことで、惨めな気持ちから解放され、妻としての誇りを取り戻せると思いました。そして、計画通り、ハガルはアブラハムの子を妊娠しました。

みこころからはずれた結果

しかし、もちろんこれは神さまのみこころにかなう行為ではありませんでした。いくら法律的に問題が無くても、一般の常識にかなうことであったとしても、神さまのみこころに反する方法で祝福を得ようとしてもかなえられません。アブラハムとサラの行為は、一家に大変な問題を生み出しました。

妊娠したハガルは、あからさまに主人であるサラを見下し始めました。ハガルはサラの奴隷ですが、今やアブラハムの妻でもあるので、サラは勝手にハガルを罰することができません。惨めな気持ちから解放されたくてハガルを夫に与えたのに、彼女はますます惨めな気持ちにさせられることになってしまいました。

サラは、ハガルの態度の悪さはアブラハムの責任だと言いました。困ったアブラハムは、ハガルをお前の好きにしなさいと許可を与えました。そこで、サラはハガルをひどくいじめました。6節の「いじめた」という言葉は、出エジプト1:11で、エジプト人がユダヤ人に苦役を課して苦しめた場面で用いられている「苦しめる」と同じです。どれほどひどいいじめだったことでしょう。

ハガルは耐えきれなくなって、ついにアブラハムの家を飛び出します。エジプトに向かって歩き始め、イスラエル南部のネゲブの荒野まで来ましたが、子を宿した体で、ちゃんとした旅支度もない女性一人が、無事にエジプトに着けるとは思えません。仮にエジプトに到着したとしても、奴隷に売られた彼女に帰る家などありません。主の使いがハガルに「どこから来て、どこに行くのか」と尋ねていますが、彼女はどこから来たのかは言えても、どこに行くかは答えられませんでした。

愛に満ちたアブラハム一家。アブラハムとサラの夫婦だけでなく、奴隷たちも神さまを中心として幸せに暮らしていた一家。しかし、その一家に、考えられないような悲しみと怒りと分裂が起こってしまいました。そして、ハガルとおなかの子どもの命も風前の灯火でした。

2.見捨てないお方

やり直しなさい

しかし、ここに主の使いが現れます。聖書の学者たちは、これは単なる天使ではなく、神さまご自身、三位一体の神の第二位格、すなわち人として来られる前のメシヤ(後に受肉し、イエスさまとして地上に誕生なさる方)だと考えています。ハガル自身も、彼女に語りかけたのが神さまだと認識しました(13節)。

さて、ハガルの前に現れた主の使いは、彼女に、「サラの元に戻って、身を低くしてやり直すように」と命じました。問題の原因が、ハガルの高ぶりによるものだったからです。

もちろん、もっと根本的な原因は、アブラハムとサラが神さまの約束を信じ切れず、人間的な方法で子どもを得ようとしたことです。しかし、それはハガルには責任のないことです。神さまは、ハガルにできる悔い改め、再出発を促されました。

ハガルは、この主の使いが神さまご自身だと認識しました。そして、語ってくださった神さまのことを「エル・ロイ」と呼びました。これは「ご覧になる神」という意味です。

神さまは、傲慢になってサラを傷つけたハガルを、見捨てることもおできになりました。しかし、そんなハガルに目を止めてくださいました。そして、罪を問わないどころか、もう一度やり直せるんだよと励ましてくださいました。

やり直しの第一歩は悔い改め

イエスさまがおっしゃっているように、すべての問題や苦しみが、個人的な罪の結果として起こるわけではありません。

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』。イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(ヨハネ9:1-3)。

しかし、いくつかの問題や苦しみは、私たちが神さまのみこころに外れてしまった結果として招いたものです。たとえば、「姦淫するな」(性的な関係は夫婦にのみ許される)とか、「むさぼるな」(他人の権利を尊重し、自分の権利でないものを欲しがってはならない)とかいう神さまの教えを全人類が守ることができたら、どれほどの悲しみや争いや犯罪が無くなることでしょうか。

私たちは時々立ち止まって、じっくりと自分の生き方を振り返る必要があります。どこかで、神さまのみこころに反した生き方をしていなかっただろうか、神さまの約束を信じ切れないで、自分勝手に解決策を作り出しながら生きてはいないだろうか、と。

傲慢を悔い改めよう

特に私たちが悔い改めなければならないのは、傲慢、高ぶりです。問題の根本原因は、高ぶりと言ってもいいくらいです。

アブラハム一家が招いてしまった家庭内の不和は、サラに向かって高ぶったハガルの行為だけが原因ではありません。アブラハムとサラもまた、神さまに向かって高ぶりました。神さまの計画にすべてをゆだねられず、人間的な方法を選んだのは、「神さま、あなたの方法よりも、私が考え出した方法の方が、手っ取り早くてうまく事が進みますよ」と言っているのと同じです。

ハガルは主の使いによって悔い改め、新しい生き方、すなわち謙遜に誠実に主人に仕える生き方を始めました。アブラハムとサラも、これからさらに15年も待たされることになります。それは、罰ではありません。人間的な希望が完全に打ち砕かれて、不可能を可能にする神さまにより頼むしか無くならせるためです。傲慢だったアブラハム夫妻もまた、新しい生き方へと導かれました。彼らもまた、やり直しをさせていただいたのです。

エル・ロイである神さまは、あなたを罪人として見捨てたりなさいません。ハガルに現れてくださったメシヤは、やがてイエス・キリストとして地上に来られます。そして、十字架によって、私たちのすべての罪を赦し、きよめてくださいました。

私たちは赦されています。ですから、悔い改めることができます。やり直しを決意することができます。あなたが悔い改めなければならないこと、やり直さなければならないことは何ですか?

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい」(黙示録2:4-5)。

3.見守るお方

イシュマエルへの約束

エル・ロイである神さま、「ご覧になる神」と呼ばれる私たちの神さまは、ただ単に失敗を赦し、やり直しをさせてくださるだけではありません。私たちが祝福された人生を歩めるように、祝福が実現するまで見守ってくださるお方です。

アブラハム契約における神さまの計画は、アブラハムとサラの間に生まれるイサクが約束の子どもであり、イサクが子孫の約束、土地の約束、祝福の約束と使命を引き継ぐことでした。

では、ハガルのおなかの子はどうなるのでしょうか。神さまのみこころではない方法で与えられた子だということで、死んでしまうのでしょうか。そうではありませんでした。

神さまは、やがて生まれてくるハガルの子に、イシュマエルという名をお与えになりました。「神は聞いてくださる」という意味です。神さまが、ハガルの苦しみの叫びを聞いてくださったからです。ちょうど、出エジプトの時、神さまがイスラエルの民の叫びを聞いて、モーセを遣わし、彼らを救い出してくださったように。

そして、イシュマエルの子孫もまた、(約束の子イサクの子孫と同じように)数え切れないほどに増え広がると約束なさいました。イシュマエルの子孫は、今のアラブ人です。

12節で、「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう」と約束されています。野生のろばのような人というのは、遊牧民ということです。そして、強い民になります。強すぎて、あちこちで争いを引き起こすほどに。

17章で、いよいよ約束の子イサクの誕生が1年後に迫ったときも、神さまはアブラハムに、イシュマエルの子孫を増やし、大いに祝福すると約束しておられます。

今、イシュマエルの子孫であるアラブ人は、広大な地域に広がっています。そして、イスラム教やオイルマネーによって、世界に大きな影響を与えています。

たとえ失敗しても

イエスさまが私たちに与えてくださる救いは、ただ単に罪の罰から逃れられたということだけではありません。再出発をし、しかもその再出発が前にも増して祝福されたものになるということです。

ペテロは失敗しました。イエスさまが捕らえられて、「あなたもイエスの弟子だろう」と尋ねられたとき、「あんな奴は知らない」と三度も言ってしまいました。しかし、その罪が赦されていることを受け取り、ペテロは再びイエスさまに従う生き方をしました。すなわち、自分はイエスの弟子だと公言するようになりました。

しかも、彼は、過去の失敗話をネタにして(?)、イエスさまの救いを語りました。決して傲慢に上から目線で説教するのではなく、自分も赦された罪人の一人なんだという立場で、愛を持って語りました。そして、彼はたくさんの人々をイエスさまの元に導きました。

遠慮しないで

あなたは、自分の弱さとか、過去の失敗とかに目を止めて、こんな自分が祝福なんかされるはずがないと、どこかで決めつけてはいませんでしたか?

ハガルに現れ、祝福してくださった神さまは、あなたにとってもエル・ロイです。

信じましょう。神さまの祝福を。失敗しないに越したことはありませんが、たとえ失敗しても、その失敗を祝福の種に変えて、あなたや他の人たちを本当の幸せへと導いてくださる神さまの知恵と力を信じましょう。

まとめ

私たちの神さまはエル・ロイ、「ご覧になる神」です。決して罪や失敗の故に私たちを見捨てたりせず、私たちが本当の幸せを手にするまでずっと見守り祝福し続けてくださるお方です。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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