「アドナイ・イルエ」試練に備えてくださる主

【神の呼び名シリーズ5】

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創世記22章1〜14節

(2012.7.15)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今回学ぶ「アドナイ・イルエ」(主は備えてくださる)は、正確には、場所につけられた名前です。しかし、この名前は神さまのご性質も良く表しています。

1.信仰の試練

神はアブラハムを試された

1節で、「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」とあります。

「これらの出来事」のうち最大のものは、神さまが最初に約束の言葉をくださってから25年も待たされましたが、とうとう妻のサラが男の子イサクを生んだということです。

女奴隷ハガルによって先に生まれていたイシュマエルは、ハガルと共にアブラハムの家を出て、イサクから離れて暮らすことになりました。そして、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」(21:12)ということが再確認されました。

それから、10数年から30年の時が流れました。神さまはアブラハムを試練に会わせられました。試練とは、その人の信仰が本物だということを証明し、信仰をより確かなものとするために与えられる問題のことです。

神の命令の問題点

アブラハムは、神さまの契約を本当に信じているかどうかを試されました。イサクを全焼のいけにえとしてささげよというのです。

アブラハム契約の中心は、3つの約束と1つの使命だという話は何度もしてきましたね。子孫の約束、土地の約束、祝福の約束、全世界の祝福の基となるという使命です。それによって、神さまは、全世界の人々を救いに導こうとなさいました。

子孫の約束はアブラハム契約の中核です。アブラハム個人がどんなに富み栄えても、広大な土地を手に入れたとしても、他の人を祝福できたとしても、彼が死んだらそこで神さまの計画はストップしてしまいます。しかし、神さまの全人類救済計画は、アブラハムから出る子孫(ユダヤ人)によって、この世が終わるときまで継続し続けていきます。

にもかかわらず、神さまはイサクを全焼のいけにえとしてささげるようにお命じになりました。全焼のいけにえとは、文字通り、すべてをささげ切るいけにえです。いけにえの動物を殺して、血を祭壇の周りに注ぎかけ、体は祭壇の上ですべて焼いてしまいます。イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいということは、イサクを殺しなさいということとイコールです。
あなたのために行け
2節で、神さまはアブラハムに「行きなさい」とおっしゃっています。この言葉は12:1にも使われていますが、直訳すると「あなたのために行きなさい」です。

しかし、大切な息子を殺してしまえだなんて、この命令のどこが「私のため」なのでしょうか。「あなたを祝福する」と約束なさった同じ神さまのことばとは思えません。本当に神さまは自分のことを愛してくださっているのでしょうか。
契約はどうなる
そして、まだ結婚しておらず、当然子どももいないイサクを殺してしまったら、子孫の約束は一体どうなってしまうのでしょうか。

イサクが死んでも、もう一人イシュマエルという子どもが残っています。しかし、神さまはイシュマエルをアブラハムから引き離し、イシュマエルではなくイサクから出る子孫が、契約で約束されている子孫なのだと、わざわざ確認なさったではありませんか(21:12)。

神さまの気が変わって、契約が反故にされたとでもいうのでしょうか。もしそうだとしたら、そのほかの約束だって当てになりません。

アブラハムが試されたもの

神さまの命令は、アブラハムの心を引き裂くほどに悩ませ、苦しめたことでしょう。しかし、これは神さまの意地悪ではなく、信仰のテストでした。彼は信仰を試されていました。どんな信仰でしょうか。それは、
  • 神さまは信頼に値する愛と恵みに満ちた良い方である
  • 神さまの約束は何があっても実現する
という信仰です。
アブラハムの応答
アブラハムは、神さまの命令を受けた翌朝早く、イサクと2人のしもべを連れて、3日かけて神さまが指定された山のふもとに到着しました。ここはモリヤと呼ばれていた場所で、後にソロモン王が神殿を建てるシオンの丘のことだと考えられています。

アブラハムはふもとに残していくしもべたちに言いました。「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」(5節)。どういうつもりで、彼はそう言ったのでしょうか。ヘブル11:17-19にはその答えが書かれています。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」。

イサクが死んだ後、なおイサクが子どもをもうけて子孫の約束が続くためには、神さまはイサクを復活なさるしかない。そして、神さまにはそうする力がある。アブラハムはそう考えたのです。

すなわち、アブラハムは神さまの愛を信じ続けることにしました。神さま約束は必ず実現すると信じ続けることにしました。その信仰を持って、アブラハムはイサクをささげました。ささげたふりをしたのではありません。もし天使が止めなかったら、彼はイサクののどを切り裂いていました。

神さまは、アブラハムの信仰が本物だと認めてくださいました。アブラハムは、この信仰の試練を通して、ますます信仰が強められ、ますます神さまとの関係を深めたのでした。

2.主の山に備えあり

イサクの従順

モリヤの山を登る途中、イサクは尋ねました。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」。当然の質問ですね。これに対してアブラハムは、「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えました。

この時点で、アブラハムは天使が自分を止めてくれるとか、身代わりの羊が用意されるとか知っていたわけではありません。アブラハムが意味する「神が用意してくださる全焼のいけにえの羊」とは、イサクのことです。知らぬはイサクばかりなり。

そして、山の上に着いたとき、アブラハムはイサクを縛り上げました。
同意したイサク
この箇所で、私たちは、幼児のような年齢のイサクを想像してしまいがちです。しかし、羊一頭を丸焼きにする量のたきぎを背負って山を登ったのですから、少なくとも15歳くらいにはなっていたでしょうし、もしかしたら30歳を超えていたかもしれません(次の章でサラが亡くなりますが、その時イサクは37歳です)。とにかく、抵抗しようと思えばできる年齢にはなっていたということです。

しかし、イサクは素直に縛られました。なぜでしょう。アブラハムと同じ信仰を持っていたからです。神さまは愛であり、決して悪いことはなさらないということ。そして、アブラハム契約を必ず実現なさるお方であるという信仰です。そして、父であるアブラハムについても全面的に信頼し、素直に殺されることに同意しました。

身代わりの雄羊

アブラハムもイサクも、いけにえをささげたふりをしたわけではありません。アブラハムは本気でイサクを殺すつもりでしたし、イサクも本気で死を覚悟していました。

しかし、神さまは天使を遣わしてアブラハムを止めました。そして、彼が信仰の試験に合格したことを告げます。アブラハムがふと見ると、角を枝に引っかけて動けなくなっている雄羊が見えました。彼は雄羊を殺して血を祭壇に注ぎ、肉を切り分けて祭壇の上で焼き尽くしました。聖書は「自分の息子の代わりに」と記しています。これは、イサクのための身代わりの羊でした。

先ほどヘブル11:17-19を引用しましたが、その最後に「これは型です」と書かれていますね。型というのは、ハンコをおしたときに紙にうつる印影のことです。型(印影)は原型であるハンコそのものではありませんが、原型を反映しています。これと同じように、特に旧約聖書の中に見られる様々な出来事が、新約時代に起こる出来事や、これから世の終わりに起こる出来事や、天国の有様をあらかじめ示しているとき、それを型と呼びます。

今回の場合、父であるアブラハムは、息子であるイサクが死んでも復活すると信じていました。天の父である神さまも、神のひとり子であるイエスさまを十字架につけますが、必ず復活するとイエスさまに約束なさいました。そして、イエスさまもそれを信じて、素直に十字架にかかられました。今回の場面で、アブラハムとイサクの様子は、天の父なる神さまとイエスさまを思い起こさせます。故に、型と呼ばれています。

また、アブラハムは、イサクの身代わりとして雄羊を殺し、犠牲のささげものとしました。これも型です。あなたや私もまた、イサクのように、身代わりの犠牲によって命を得ました。イエス・キリストという身代わりの子羊の犠牲によってです。

「主の山に備えあり」という言葉は、クリスチャンの間でも有名です。それは、神さまは困ったときに助けてくださるという意味で使われることが多いですが、元々は身代わりに命を差し出してくれる犠牲が用意されているという意味でした。

アドナイ・イルエ(原文ではヤハウェ・イルエ)である神さまは、私たちのために、身代わりの子羊としてイエスさまを備えてくださいました。故に、私たちの命は守られ、神さまとの関係は回復され、神の子どもとされる特権を与えられました。

3.私たちも試練に会う

苦しみは試練かもしれない

アブラハムが信仰の試練に会って悩み苦しんだように、私たちも様々な苦しみや悩みに直面します。

前回のメッセージでは、苦しみに会ったときには、いつの間にか神さまのみこころから外れていないか確かめる機会にしようということをお話ししました。ただ、そのときもお話ししましたが、すべての苦しみや悩みが、個人の特定の罪の結果もたらされるわけではありません。

それよりも、信仰の試練として与えられる苦しみの方がはるかに多いでしょう。今、あなたは何かの苦しみや悩みを抱えていますか? それは信仰の試練かもしれないと考えてみましょう。

何を試されているのでしょうか。アブラハムと同じように、神さまがどういうお方だと思っているのか、そして神さまの約束の実現をどれくらい本気で信じているのかということです。

神の愛の証拠

様々な苦しみや悩みにあわされても、それでもどうして神さまの愛を信じ、神さまの祝福の約束を信じられるのでしょうか。それは、「主の山には備えがある」からです。神さまの愛の証拠、祝福の保証は、イエスさまの十字架です。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)。

ですから、こう言われています。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(第一コリント10:13)

脱出の道とは、苦しみや悩みが取り除かれるということもさることながら、その前に、私たちが神さまの愛を確信できるようになり、必ず祝福していただけるから、何があっても大丈夫だという平安と喜びと希望に満ちあふれることです。

そして、その鍵は、イエスさまの十字架によって、神さまの愛は余すところなく証明されているということを思い出すことです。

宣言しよう

苦しみに会うと、私たちは神さまの愛を疑いそうになります。神さまがこの自分を祝福するという約束など忘れてしまいそうになります。しかし、イエスさまの十字架を思い出して、あえて声を上げて宣言したいのです。「神は愛である。神は私を祝福してくださる」と。

まとめ

神さまの愛の証拠、祝福の保証は、イエス・キリストの十字架です。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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