「エル・カッノー」激しく愛する神

【神の呼び名シリーズ7】

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出エジプト記34章11〜17節

(2012.7.29)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今回の神さまのお名前は、エル・カッノー(ねたむ神)です。一見、あまりうれしくなるようなお名前ではありませんが、今日もこのお名前からたくさんの励ましや慰めをいただきましょう。

1.これまでの出来事

律法が授けられた

前回の事件現場であるレフィディムを出発したイスラエルの民は、シナイ山のすぐそばまで移動しました。

そして、20〜23章にかけて、神さまはイスラエルに律法を授けられました。そして、モーセだけがシナイ山に登るようにおっしゃいました。モーセは四十日四十夜山の上にいて、礼拝のための会見の天幕や祭司の装束や務めに関する教えを受けます。そして、神さまご自身が石の板を切り出して、律法の最初の10個を刻みつけたあかしの板をモーセに与えます。

偶像礼拝とモーセの取りなし

ところが、モーセがなかなか降りてこないので不安になったイスラエルの民は、アロンに訴えて、金の子牛の像を作ってもらい、それを礼拝し始めました。これは、つい40日前に神さまが命ぜられた、

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」(出エジプト20:4-6)。

という教えに明らかに反する行為です。そこで、神さまはイスラエル人すべてを滅ぼすとおっしゃいました。しかし、モーセの必死の取りなしの祈りによって、神さまはイスラエルを赦されました。

山を降りてきて、金の像を拝んでは大騒ぎをしているイスラエルの民の様子を見たモーセは、怒りのあまり、神さまがくださったあかしの板を投げつけて砕いてしまいます。そして、悔い改めなかった三千人を殺すように命じました。

神さまはイスラエルすべてを滅ぼさないとおっしゃいましたが、今度はイスラエルと一緒に約束の地に上っていかないとおっしゃいました。イスラエルの民が頑固で、簡単に罪を犯してしまうので、もしも一緒に行けばイスラエルを罰して滅ぼしてしまうといけないからだというのです。

しかし、これまたモーセの必死の取りなしによって、神さまはイスラエルと共に行くと約束なさいました。

偶像礼拝とねたむ神

それから語られたのが、今回の箇所です。これからイスラエルの民が入ろうとしているカナンの地には、すでに別の民族、エモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人が住んでいます。彼らはまことの神ではなく異教の神々を信じており、様々な偶像を作って拝んでいました。

神さまは、イスラエルの民が原住民の影響を受けて、偶像礼拝に陥らないようにという警告をなさいました。だから、彼らと契約を結んだり、婚姻関係を結んだりしないように、と。

そういう命令の中で、神さまは「わたしの名前はねたみである」「わたしはねたむ神である」とおっしゃいました。ですから、「ねたむ神」という神さまのお名前は、偶像礼拝の禁止と関係があります。

2.なぜ偶像礼拝がいけないのか

神を傷つけるから

ここでいう「ねたみ」とは、「自分の愛する者の愛情が、他の人に向けられるのを恨み憎むこと」(デジタル大辞泉より)です。

聖書は、神さまと私たち人間の関係を、よく夫婦にたとえています。自分が愛している夫や妻、あるいは恋人が、自分を裏切って他の異性と深い関係を持ったとしたら、どれだけ傷つき、悲しい思いをするでしょうか。

また、聖書は、神さまが私たちの天の父であると教えています。もしあなたが子どもの親だとして、子どもが、給料が振り込まれている預金通帳や、料理に使った電子レンジには「いつもありがとう」と言うけれど、生身の親のことは無視しているとしたら、どんなに傷つき、悲しむことでしょう。

神さまが一人だけだなんて狭い考えだ。人それぞれ、信じる神さまが違っていたっていいじゃないかと言うならば、浮気をしたっていいじゃないかということになりますし、飼い犬を「お父さん」「お母さん」と呼んだっていいじゃないかということになるでしょう。

実際、金の子牛の像を拝んだイスラエルの民、そしてカナンの地で原住民の信じる異教を受け入れたイスラエルの民は、性的にも堕落してしまいました。

聖書の神さまには感情があります。裏切られれば傷つくし、悲しい思いもなさいます。偶像礼拝は、神さまを激しく傷つけ、悲しませます。ですから、禁じられているのです。

拝んだものに影響されるから

そして、偶像礼拝が禁じられているのは、私たちのためでもあります。私たちがどういう神さまを信じているかによって、私たちの生き方に影響が出ます。
  • 強い神さまを信じるか、弱い神さまを信じるか。
  • 奇跡さえ行える神さまを信じるか、物理法則に縛られている神さまを信じるか。
  • 怒りっぽくてすぐに罰を当てる神さまを信じるか、罪を赦す恵みの神さまを信じるか。
  • 約束が当てにならない、気分屋の神さまを信じるか、約束は絶対に果たす誠実な神さまを信じるか。
  • えこひいきをする神さまを信じるか、公正な神さまを信じるか……。
私たちは、「聖書が教える」神さまを信じなければなりません。聖書が教えていない神さまのイメージを持っているとすれば、木や石の像を拝んでいなかったとしても、それは偶像礼拝です。聖書が教える神さま以外の偶像を拝んでいたなと思い当たったら、すぐに悔い改めて、正しいイメージに切り替えましょう。

これさえあれば幸せなのにという偶像

また、「神さま」という名前で拝んでいなかったとしても、人生をかけるほどに信頼していたとしたら、「これさえあれば幸せなのに」と思っているとすれば、それはやっぱり神さまです。

たとえばお金。お金を前にして毎日手を合わせて拝む人は少ないでしょうが、お金がありさえすれば人生大丈夫と思っているとすれば、お金がその人の神さまの一人だということです。そして、お金に人生を振り回されるようになります。お金がないととたんに不安になり、お金のためだったら、多少の不正でも平気で働くようになったり、他の人を傷つけたり寂しい思いをさせたりするようになります。お金は大事だし、便利なものですが、お金が神さまになると、本当の幸せからは遠ざかってしまいます。

他にも、健康、恋愛、友情、名誉、地位。それらは決して馬鹿にすべきものではなく、大切です。しかし、いつの間にかそれが神さまになってはいなかったでしょうか。そして、それを失ったり、失うのではないかと思うと不安になったり、不満を抱いたりしていなかったでしょうか。

私にとっての偶像は、人の評価でした。人が自分をどう見ているか、それを気にしてびくびくし、肯定的に評価されれば高ぶり、否定的に評価されれば落ち込み、必死でカバーしようとしました。そして、くたくたに疲れ果ててしまいました。しかし、イエス・キリストを信じ、聖書の神こそまことの神だと知った時、平安がやってきました。

まことの神さまに信頼しましょう。それが私たちに、どんなときにも揺るがされない本当の平安、喜び、感動をもたらします。

3.聖書が教える神

直前の聖句

今回読ませていただいた箇所の直前には、このような言葉があります(34:6-10)。

【主】は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」
主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行おう。あなたとともにいるこの民はみな、【主】のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものである。


「わたしの名はねたみである」とおっしゃり、偶像礼拝には厳しい罰が与えられるとおっしゃった神さまは、同時に「あわれみ深く、情け深い神」(エル・ハッヌーン・ラフーム)だと自己紹介なさっています。「怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」だと。

実際、神さまはイスラエルが偶像礼拝を行なって、激しく傷つけられ、悲しまれましたが、それでもイスラエルを見捨てませんでした。そして、共にカナンの地に上ろうと約束なさいました。

その後も、何度も何度もイスラエルは神さまを裏切り続けましたが、それでもなおも祝福し続けておられます。国が滅びるという事態に陥ったのも一度だけではありませんでしたが、そのたびに神さまはイスラエルを復活させてくださいました。現在、カナンの地にイスラエル共和国という国が存在しているということが、神さまがイスラエルを見捨てておられない証拠です。

そして、私たちが信じている神さまは、イスラエルの神です。私たちもイスラエルと同じように不完全で、忠実になりきれない、すぐに目に見えるものに頼りたがり、そのために一喜一憂して振り回されてしまう者です。神さまはそのためにどんなに傷つき、悲しまれることでしょうか。それでも、私たちを赦し、受け入れ、再出発させてくださいます。

モーセの取りなし、イエスの取りなし

モーセは、イスラエルの民が赦されるように、神さまに取りなしの祈りをしました。しかも、イスラエルが赦されるためだったら、自分の名前が命の書から削除され、滅んでもいいとさえ言い、文字通り命をかけて取りなしたのです。神さまはその祈りを聞き入れ、イスラエルを赦しました。

神さまとしては、本当はイスラエルをさばきたくてたまらなかったのに、モーセがしつこく取りなしをするから、不承不承赦した……のではありません。神さまは、「あわれみ深く、情け深い神」です。神さまはイスラエルを愛しておられます。ですから、モーセが取りなしたとき、喜んでそれを聞き入れられたのです。

あなたのためにも取りなしてくださる方がいます。イエス・キリストです。イエスさまは、私たちの罪が赦されるように取りなしてくださいました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)

しかも、イエスさまは、本当に命を捨ててくださいました。私たちの身代わりとして罰を受けてくださったのです。故に、私たちは神さまに赦され、受け入れられ、愛され、祝福されています。

そういう神さまのねたみ

神さまがねたみの神、エル・カッノーであるというのは、神さまが疑り深くて、心が狭いから嫉妬するということではありません。今申し上げたように、無限大の愛、熱烈な愛で私たちを激しく愛してくださっています。だからこそ、私たちがその愛を無視して、神さま以外のものに人生をかけることを悲しまれるのです。

私たちが神さまを信じたのは、そうしないと地獄に落とされるぞと脅されたからではなく、イエス・キリストの十字架の犠牲を通して表された神さまの愛に感動したからですね?

私たちは今日、改めて神さまの熱烈な愛情を確認しましょう。そして、いつの間にか偶像を拝んでいたとしたら、それを捨て去り、神さまが自分を幸せにしてくださるのだと信じましょう。

まとめ

いつの間にか心の中に偶像を作ってはこなかったでしょうか。悔い改めて、愛と恵みに満ちた神さまを信じましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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