「エル・ハイ」生ける神

【神の呼び名シリーズ9】

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詩篇42篇1〜11節

(2012.8.12)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今回の神さまの呼び名は、エル・ハイ(生ける神)です。私たちの神さまは、死んだ神ではなく、生きておられます。

1.記事の背景

コラの子たちのマスキール

表題には「コラの子たちのマスキール」と書かれています。コラというのは、出エジプトの時代、荒野でモーセとアロンに反逆して、神さまに滅ぼされた人です(民数記16章)。しかし、その子孫は生き残り、後に神殿で門番や歌手として働きました。

「マスキール」というのは、歌の種類だと思われますが、正確な意味は不明です。しかし、「サーカル」(指図する、教える、理解する)という動詞が元になっているので、「教訓的な歌」という意味だとする学者もいます。

おそらく、コラの子孫である歌手が、人々に霊的なレッスンとして歌った歌ということなのでしょう。

放浪生活

詩の中身を見ると、作者がエルサレムを離れて、ヨルダン川の周辺、さらにはイスラエルをも離れて、北方のヘルモン山の方で生活していることが分かります。彼は、エルサレムの神殿で、ユダヤの同胞たちと共に神さまを礼拝していた頃を懐かしんでいます。

しかも、その旅は決して楽しいものではありませんでした。詳しい事情は分かりませんが、彼には敵がいました。おそらく、彼らから逃げ出さなければならないような状況だったのでしょう。

同じく、詩篇の中にたくさんの歌を残しているダビデも、サウル王に嫉妬され、また自分の息子のアブシャロムのクーデターにあって、あちこちを逃げ回らなければなりませんでした。この詩の作者も、同じような危機的な状況に置かれていたと思われます。

お前の神はどこにいるのか

さらに、敵たちは作者を馬鹿にして言います。「お前の神はどこにいるのか。お前は神に見捨てられたんだ。お前には希望なんかないんだ」。

そんな中で、作者は生ける神に祈り求めます。生ける神が、私の叫びを聞き届け、私を今の苦境から救い出し、再びエルサレムの神殿で礼拝することができるようにしてくださるようにと。

エル・ハイ「生ける神」という言葉は、このような苦しい状況の中で、絞り出されるようにして口にされたものでした。

2.応えてくださる神

苦境の中からの叫び

私たちも、この地上で様々な悩みや苦しみに出会います。

あなたに面と向かって「あなたの神はどこにいるのか」と馬鹿にする人はいないかもしれません(時にはそういう人もいますが)。いなかったとしても、本当の敵である悪魔が心に語りかけてきます。「お前の神はどこにいるのか。神なんかいない。いたとしても、お前のことなんか知らない。助けてなんかくれないさ。お前は見捨てられたんだ」。

あなたは、突然襲ってきた苦しみのために、あるいは長く続く苦しみのために、自分が神さまに見捨てられたのではないか、もう解放されることなんかできないのではないかと、絶望しかかってはいませんでしたか? あるいは、苦しみとまでは行かなくても、長らく停滞が続いて、どうせ私の人生こんなもんだと、安値安定であきらめてしまってはいませんでしたか?

イスラエルの人たちにとって、エル・ハイ、「生ける神」とは、神さまに対する信仰告白の言葉でした。聖書の神さま、ヤハウェは、他の民族が拝んでいたような、木や石で作った命のない偶像ではなく、神の民が呼びかければ応えてくださるお方、歴史の中に具体的に介入して、その力や知恵を見せてくださるお方だということです。

前回登場したギデオンは、神さまに士師として召し出されたとき、最初に町にあった異教の神バアルの祭壇とアシェラの像を破壊しました。町の人たちは怒りに燃え、ギデオンを殺せと父親のヨアシュに迫りました。そのとき、ヨアシュはこう答えます。「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ」(士師6:31)。

預言者エリヤも、バアルとアシェラに仕える預言者850人と戦ったとき、同じようなことを言っています。その他高いとは、それぞれ祭壇に捧げ物を置き、自然にそれが燃え上がった方の神が本当の神だという争いでした。しかし、バアルの預言者たちがどんなに祈っても、踊り騒いでも、祭壇に何の変化も訪れませんでした。エリヤは言いました。

「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう」(第1列王18:27)。

そして、エリヤが聖書の神さまに祈ると、たちどころに天から火が降ってきて、祭壇全体を焼き尽くしました。

人間の頭の中だけにしかいない、命のない偶像ではなく、呼べば、その全知全能の力と知恵をもって応えてくださる生ける神。それが私たちの信じる神さまです。今苦しみの中にある人は、「私が仕える神さまは、生きておられる」と信じて、祈り求めましょう。

いろいろと考えておられる方

「呼べば応えてくださる? しかし、祈っても祈っても何の答えもありませんよ」とおっしゃる方もおいででしょう。私も、そういう体験を何度もしてきました。この詩の作者も、この段階では放浪生活が続き、苦しみから解放されてはいません。

しかし、神さまが生ける神であるということは、こちらの願いに自動的、機械的にそのまま応答する、いわば「祝福の自動販売機」とは違うということです。神さまは生きておられて、いろいろと考えておられます。神さまには神さまなりの計画があり、その計画に基づいて、私たちの祈りに対応なさいます。

二十世紀を代表する世界的な伝道者ビリー・グラハム師の奥さんである、ルースさんがこんなことを言っています。「私は、神さまが、時に私の祈りをまったく無視して、かなえてくださらないことがあることを感謝します。もしも、私の祈りが100%かなえられるとしたら、私は間違った人と結婚していたことでしょう。しかも、何度も」。

生きておられる神さまは、私たちのことをそれはそれは深く愛しておられますから、私たちにとって本当の益にならないものは与えたくないと思っておられます。

祈りが聞かれないときは、立ち止まって考えてみましょう。
  • それは、私たちの間違った欲望や虚栄心を満足させるだけのものだと判断されたのかも知れません。
  • あるいは、一見良いもののようで、実は私たちの手に余るものだったり、かえって私たちに良くない影響を与えるものなのかも知れません。
  • あるいは、それを手に入れるよりも、もっと素晴しいプレゼントが用意されているのかも知れません。
  • あるいは、別のタイミングで与える方が効果的だと判断されたのかも知れません。
とにかく、生ける神さまは、私たちよりもはるかに賢い頭で、ちゃんと考えておられます。

希望を持とう

表題にある「マスキール」には、教訓の歌という意味があるらしいと申し上げました。どんな教訓でしょうか。この詩の作者は、祈っても祈っても、現実の問題はまだ解決していませんでした。しかし、それでも彼は希望を失わず、神さまが自分を今の状況から救い出してくださると信じていました。

それは、自分が願うとおりの方法やタイミングではないかも知れません。しかし、彼は「神さまは決して私を見捨てない」と信じました。ともすれば、敵の声や悪魔の声によって、その確信が揺らいでしまいそうになることもありますが、それでも自分に向かって「神を待ち望め」と励ましの声をかけながら、神さまへの信仰を握りしめ続けています。エル・ハイ、「生ける神」という呼び名は、そんな彼の信仰告白の言葉です。

私たちもそのような信仰を持とうと、この詩は教えています。私たちも、苦しみや悩みの中にあるならば、解放を信じて、あきらめないで期待し続け、祈り続けましょう。また、苦しみや悩みの中にある兄弟姉妹のために、サポートの祈りをし続けましょう。

私たちの神さまは、命のない偶像ではなく、生きておられます。信じるなら、アーメン(その通り)と言いましょう!

3.応えを求める神

正義の神が見ておられる

エル・ハイ、「生ける神」という呼び名は、神さまが私たちの祈り、すなわち語りかけに応答してくださるお方だということを示しています。と同時に、生ける神さまは、私たちに向かって語りかけておられます。「わたしはあなたに語り、あなたに道を示す。あなたはそれに対して、どう応答するのかな?」と。

「生ける神」という言葉に関連して、「主は生きておられる」という言葉を聖書の中で検索してみると、誓いの言葉と共に用いられていることが分かります。

たとえば、神さまに重い皮膚病をいやしてもらったシリヤのナアマン将軍が、いやしの方法を教えてくれた預言者エリシャに感謝の贈り物をしようとしたとき、

「神の人は言った。『私が仕えている【主】は生きておられる。私は決して受け取りません』。それでも、ナアマンは、受け取らせようとしきりに彼に勧めたが、彼は断った」(第2列王5:16)。

このように、「この誓いは本当です」「これから言うことは真実です」というような意味で、「主は生きておられる」と語るのです。

ニュアンスとしては、「神さまは生きておられて、私が語った言葉も、語っている私の心の内も全部ご存じです。だから、もしも私が嘘をついているとしたら、必ず天罰を下されるでしょう。私はそれくらいの覚悟で誓っているのだから、この誓いは真実ですよ」ということです。

生ける神を信じる者たちは、正義の神がすべてを見ておられるという前提で、裏も表もなく行動することが求められています。誰も見ていないからといって不正を働いたり、言葉にしなければ分からないだろうと、頭の中であれこれとよこしまなことを考えたり、みんなやっているからといって悪いことに手を染めたりしない、ということです。

応えきれない私たち

ところが、私たち人間は、神さまの期待に応えきれません。どんなに世間で立派だと思われている人でも、正義の神さまの前に引き出されたら、とても堂々と立っていることなどできません。私たちは皆、不完全であり、罪が全くない人などいないのです。

「主は生きておられる」という誓いの言葉も、いつの間にか形骸化して、単なる慣用句になってしまいました。それについて、預言者エレミヤに向かって、神さまはこんなふうに嘆いています。

「エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行い、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。たとい彼らが、『【主】は生きておられる』と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ」(エレミヤ5:1-2)。

そして、エルサレムの人々にこうおっしゃいます。「これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう」(エレミヤ5:7)。恐るべき宣言ですね。

どんなに「生ける神よ。私をこの苦しみから救い出してください」と祈っても、敵である悪魔はこう言います。「そりゃ、神は生きているさ。でも、生ける神と唱えているお前自身をよく見てみろ。どの口がそう唱えるのか。お前のような罪人の祈りを、正義の神が聞くわけないだろう。お前は罰を受けているのだ。解放されるどころか、もっともっとひどい罰がくだるはずだ」。

それに対して、私たちは「いや、私は正しい人間だから、神さまが見捨てるはずがない」とは、とても言えません。

恵みへの応答

しかし、それでも私たちには希望があります。神さまは罪人である私たちを赦そうと思ってくださいました。そのために、天の父なる神さまは、御子イエス・キリストを人として地上に遣わされました。このイエスさまに向かって、弟子であるペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と語っています(マタイ16:16)。

イエスさまは、私たちの代わりに、罪のまったくない、きよくて完璧な生活を送られました。ところが、罪がないにもかかわらず、イエスさまは、私たちの罪の罰を代わりに受けて、十字架にはりつけになり、死んでくださいました。そこで、私たちは赦されることになったのです。

そして、イエスさまは三日目によみがえり、今は父なる神さまの右の座につき、私たちが赦されて、神さまの子どもにしていただけるよう、そして神さまの子どもとして大いに祝福されるように、取りなしてくださっています。

そのことを信じるだけで、私たちは罪ののろいから解放されると、聖書は教えています(第1コリント15:1-8)。立派で完璧な行ないによって、自分がきよい人間だということを証明できなくても、ただ信じるだけで赦されます。そして、神さまの子どもとして、神さまに愛され、圧倒的に祝福される特権が与えられます。

生ける神さまが私たちに求めているのは、生ける神の御子、イエス・キリストを信じることです。この方によって、すでに罪が赦され、神さまに祝福されているんだと信じることです。

そして、世の中の人や悪魔がどんなに「お前を助ける神なんかいない」「お前は神に見捨てられた」「お前にはもう希望も何もない」と語りかけてこようとも、それでも「私はイエスさまによって示された神さまの愛を信じる」と宣言することです。

さらに、この詩篇42篇の作者のように、「私は生ける神を待ち望む」と告白することです。そして、その上で、不完全なりに精一杯、神さまの教えと導きに従って生きることです。

まとめ

私たちも、生ける神を信じて、どんな状況でも希望を持ち続けましょう。そして、「神さまがついているから大丈夫」と、自分や周りの人に語り続けましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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