喜びの礼拝

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詩篇100編1〜5節

(2012.9.2)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちクリスチャン、あるいはその群れである教会の存在目的は5つあります。今日はその1つ目である「礼拝」について考えていきましょう。礼拝とは何でしょうか。

1.神を喜ぶこと

いるだけで嬉しい

聖書は、私たちと神さまの関係を、夫婦や親子にたとえています。神さまを喜ぶというのは、アツアツの新婚夫婦、あるいは仲の良い親子が、お互いの存在を喜ぶことに似ています。

何をするでもなく、ただその人のそばにいるだけで嬉しい。その人のことを考えるだけで嬉しい。その言葉を聞くだけで嬉しい。神さまを礼拝するということは、そういうことです。

そして、「あなたがいてくださることが嬉しいのです」と表現する。すなわち祈りや、賛美の歌や、手拍子や、高く上げられた手や、歓声、踊りなど、いろいろな文学表現や芸術表現で、神さまへの喜びを表す。これが神さまを礼拝するということです。

感謝

私たちは、そんなふうに父なる神さまの存在を喜んでいるでしょうか。イエスさまの存在を喜んでいるでしょうか。聖霊さまの存在を喜んでいるでしょうか。

もしも、いつの間にか神さまへの喜びが薄れてしまっているのだとしたら。神さまについて考えたり、神さまのことばである聖書を読んだり、神さまに向かって祈ったりするとき、喜びを感じなかったり、何となく義務感で乾いた思いを抱いているのだとしたら。どうしたら喜びを取り戻すことができるでしょうか。

4節には、感謝しなさいという言葉が2回繰り返されています。神さまの存在を喜ぶ思いは、感謝から生まれるからです。

神さまがしてくださった一つ一つのことを数え上げ、「ありがとうございます」「感謝します」と口に出してみましょう。

「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。

私が若い頃、先輩のクリスチャンに、感謝の練習の仕方を教えてもらいました。何を感謝していいのか分からないときには、手の指を一本一本折り曲げながら、「神さま、今日も親指が動くことを感謝します」「人差し指が動くことを感謝します」と、感謝していきます。それが終わったら左手、右足、左足、さらには腕や脚、首、目、鼻、口、耳……。そして、家族や友だちが与えられていること、食事が与えられ、住むところが与えられ、着るものが与えられていることを感謝していきます。

すると、私の体や、私が自分でしていると思っていること、私の周りにあるものが、すべてあるのが当たり前ではなく、神さまのきめ細かく、心憎い配慮によるのだということが分かってきます。私が生きていることすら当たり前ではなく、神さまのおかげです。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう』と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう』」(ヤコブ4:13-15)。

有り難し

ありがとうは「有り難し」から来ています。すなわち、「あり得ないようなことをしていただいた」という意味です。そういう思いから感謝が生まれます。逆に、「当たり前」と思っているところからは、感謝は生まれません。

当たり前だと思っていることを数え上げて、一つ一つ神さまに感謝しましょう。いかにあなたが神さまに愛され、守られ、正しく導かれているのかが分かります。そして、神さまに対する喜びがわき上がっていきます。

礼拝とは、神さまへの喜びを表現する時です。

2.神に仕えること

主に仕えよ

2節には「喜びをもって、主に仕えよ」と書かれています。礼拝とは神さまの存在を喜ぶことですが、喜びに満たされた私たちは、神さまに仕えます。これもまた礼拝の一部です。

神さまに仕えること、すなわち奉仕というと、どんなことを想像なさるでしょうか。たとえば、集会の会場準備や片付け、集会の司会や受付や案内や奏楽などの働きなど? もちろんそれらも大切な神さまのへの奉仕ですが、奉仕はそれだけではありません。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)。

私たちの体を、神さまへの供え物とすること。しかも、動物犠牲のように死んでささげられる供え物ではなく、生きていなければなりません。すなわち、私たちの生活すべてが、神さまへの供え物であり、神さまへの奉仕にならなければならないということです。

誰のため? 何のため?

生活が神さまへの奉仕になるというのはどういうことでしょうか。それは、すべて神さまのために行なう、神さまが喜ばれることを行なうと決めて、それを実践するということです。

マザー・テレサは、コルカタの孤独に死んでいく貧しい人たちのことを、「私のイエスさまたち」と呼んで、まるでイエスさまの最期を看取るかのようにケアしました。

エブリデー・クリスチャン

「サンデー・クリスチャン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。日曜日、教会堂の中では敬虔な信仰者のように振る舞うけれど、一歩教会堂の外に出ると、クリスチャンでない人とまったく変わらない生活をするクリスチャン、という意味です。

礼拝式とその前後だけでなく、24時間、365日、神さまのために行動しよう、神さまが喜ばれることをしようと思いながら生きていきたいものです。サンデー・クリスチャンではなく、エブリデー・クリスチャンです。

もちろん、私たちは赦された罪人であり、みんな不完全な人間です。だから、いつの間にか、神さまではなく自分の欲望やプライドを満足させるために行動してしまうこともあるでしょう。偉そうに言っている私だってそうです。

しかし、少なくともそこに気づいたときには、そのたびごとに悔い改めて、再び神さまのために生きていこうと決意していきたいですね。神さまは、必ず赦してくださり、何度でもやり直させてくださるのですから。

あなたは、先週、誰のために、何のために生きてきましたか? 礼拝とは、神さまのために行動しよう、神さまの喜ばれることをしようと決めて行動することです。

3.神の前に出ること

共に集う

2節の後半には「喜び歌いつつ御前に来たれ」と勧められています。また、4節には、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ」と詠われています。神さまの存在を喜び、感謝に満たされた私たちは、神さまの前に出て行くのです。

詩篇95篇から100篇は、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が、首都エルサレムの神殿を再建した時に歌われたものだと言われています。主の門や大庭というのは、新しく再建された神殿の門や庭のことです。そこにたくさんのイスラエルの民が集まって、神さまに向かって喜びの声を上げ、礼拝しました。

礼拝は、一人で神さまの存在を喜び、感謝し、そして一人であらゆる事を神さまのために行なうというだけではありません。同じ神さまを信じる仲間たちと同じ場所に集まり、同じ心で神さまに賛美や感謝の歌を歌い、同じお方に向かって祈り、同じみことばに耳を傾け、悔い改め、神さまに仕えていこうという決断を新たにして、それぞれの日常生活の場に遣わされていくことでもあります。

共に集い、心を合せて神さまに感謝し、賛美し、祈り、みことばに耳を傾ける時、一人で礼拝したのとは、また別の力や喜びや感動が与えられます。薪を1本ずつバラバラに話して火をつけるよりも、同じ数の薪をキャンプファイヤーのように組み上げて火をつけた方が、豪快に炎が燃え上がりますね。クリスチャンが一人で個人的にささげる礼拝も素晴しいですが、共に集ってささげる公の礼拝式もまた、格別のものです。

ですから、聖書はこう勧めています。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル10:25)

堂々と御前に出られない時

しかし、ヘブル人への手紙がこのように勧めるのは、一緒に集まるのをやめてしまう人がいたということです。この日本でも、毎年たくさんの人たちが救われて洗礼を受けますが、同じ数の人たちが教会に集まるのをやめてしまうので、ちっとも教会は成長していきません。

時に私たちは神さまの前に出ることを恐れます。神さまについて考えたり、神さまのみことばである聖書の言葉を聞いたり、他のクリスチャンが神さまについて話をしたり祈ったりする言葉を聞いたりすると、怖くなったり、嫌な気持ちになったり、うっとうしさを感じたりすることがあります。だから、いつの間にか公の礼拝式に参加しなくなるのです。

私たちが神さまの前に出るのを恐れたり、神さまについての話題を避けたいような気持ちになる時は、たいていの場合、私たちの心が「自分は神さまに喜ばれない生き方をしている」と知っている時です。だから、堂々と神さまの前に出られないのです。だから、神さまについて考えたくもなくなってしまうのです。

しかし、私たちは知らなければなりません。たとえそういうときでも、離れてしまったのは私たちの方であって、神さまの方から私たちを見捨てて離れてしまうことは決してないということを。

預言者ホセアと十字架

イスラエルの預言者は、神さまに忠実に従う中で、みんないろいろな苦労をしましたが、ホセアの苦労はその中でも一、二を争うでしょう。なんと、ホセアの奥さんゴメルは、夫を裏切って他の男性と不倫関係になってしまったのです。彼女が産んだ3人の子どものうち、第一子である長男イズレエルはホセアとの間に生まれた子でしたが、次に生まれた長女と次男は、他の男性との間に生まれた子でした。

そこで、神さまは、長女はロ・ルハマ(愛されない)、次男はロ・アミ(私の民ではない)と名付けるように言われます。まったくひどい名前で、子どもたちにとっては迷惑この上ない話ですが、実はこれらの名前には預言的な意味がありました。

イスラエルの民は、たびたび偶像礼拝を行ないました。これは、ゴメルが夫ホセアを裏切ったように、まことの神さまを裏切る霊的な姦淫です。だから、きよい神さまは、もはやイスラエルを愛さず、もはやイスラエルは神の民ではないと宣言されたのです。

これで話が終わったら悲劇ですが、さらに神さまはホセアを通してイスラエルに新たな宣言を下されます。神さまは、裏切り者のイスラエルを赦し、ロ・ルハマでロ・アミであるはずのイスラエルのことを、ルハマ(愛される者)、そしてアミ(わたしの民)と呼ばれました。

さらに神さまは、預言者ホセアに命じます。家を飛び出したあげく、男に捨てられて奴隷として売り飛ばされていたゴメルを買い戻し、赦して家に迎え入れるようにと。このように、神さまもイスラエルを赦してくださるとおっしゃったのです。

イエスさまは、私たちのために十字架にかかり、死なれました。そして、三日目によみがえり、今は父なる神さまの右の座について、私たちのために取りなしをしてくださっています。だから、私たちの罪は赦されました。どんなに罪深く、不完全で、どうしようもない存在であったとしても、それでも神さまは私たちを「愛されている子」「わたしの民」と呼んで、受け入れてくださいます。そして、「もう一度やってごらん」と、何度も何度もチャンスを与え続けてくださいます。

私たちクリスチャンは、そのことを信じました。確信が揺らぐことがあるかも知れませんが、いつもイエスさまの十字架を思い出して、堂々と神さまに心を向けましょう。

そして、イエスさまの十字架のありがたさをいつも思い描くことが、喜びと感謝に満ちた礼拝を生み出すのです。

まとめ

これからも、ますます喜びをもって主に仕え、喜び歌いつつ御前に集まりましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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