愛し合う教会

トップページ聖書のメッセージ集2012年 > このページ


使徒の働き2章40〜47節

(2012.9.9)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちクリスチャンや教会の5つの存在目的、2つめは「交わり」です。私たちクリスチャン同士が、お互いに愛し合うこと、教会が愛の交わりに満ちていること、これを神さまは望んでおられます。

それでは、愛の交わりのある教会とはどういうものでしょうか。

1.共にいる

教会にとどまるわけ

「教会に行く」などと言いますが、正確には「教会堂に行く」あるいは「教会の集会に行く」です。もともと教会とは建物のことではなく、「呼び集められた人たち」という意味、すなわち、私たちクリスチャンのことです。

日本のプロテスタント教会では、毎年だいたい1万人の受洗者が与えられています。しかし、礼拝出席者の数はほとんど変化していません。救われた人と同じ数の人が、教会を離れてしまうということです。

これはアメリカでの調査ですが、教会を離れた400人にその理由を尋ねたところ、75%の人が「私がそこにいようがいまいが、誰も気にかけていないように感じた」と答えたそうです。すなわち、教会の中に自分の居場所がないと感じたということです。

一方、こういう調査もあります。「あなたはなぜこの教会に加わりましたか?」と尋ねると、93%の人が「牧師が良かったから」と答えました。「では、牧師が教会を離れたら、あなたも教会を去りますか?」という問いには、やはり93%が「いいえ」と答えました。理由は「友だちがいるから」です。教会の中に親密な交わりがあり、自分の存在が覚えられ、喜ばれていると感じるとき、人は教会に喜んでとどまるのです。

2012年9月9日現在、この地球上には約72億5千万人の人々が住んでいます(最新のデータはこちらのサイトを参照)。イエスさまは、その私たちを72億5千万分の一として扱うのではなく、一人の大切な存在として見てくださっています。1匹の羊がいなくなったら、他に99匹持っていたとしても、その1匹を探して東奔西走する良い羊飼いのようなお方です。

そして、教会はイエスさまの体であると言われています。ですから、神さまは、私たちクリスチャンが、互いに愛し合い、互いの存在を喜び合い、大切にし合うことを望んでいらっしゃいます。

場所と時間の共有

では、私たちは、どのようにすれば、互いの存在を喜び、大切にすることができるでしょうか。そのために大切なポイントの一つが、他の人と場所と時間を共有するということです。つまり、一緒にいるということです。一緒にいることによって、私たちはお互いの存在を意識することができます。

そして、ただ単に同じ場所にいるというだけでなく、そこで個人的にコミュニケーションを取ることがたいせつです。しかも、あいさつ程度の浅いコミュニケーションではなく、もっと深いやりとりです。

そういうコミュニケーションを取るとすれば「100人で交わり」というわけにはいきませんね。人数が増えれば増えるほど、一人一人に向けられる意識が薄まっていくからです。5人の教会であっても、50人の教会であっても、500人の教会であっても、せいぜい3〜5人程度の小さな単位で、場所と時間を共有し、深い話をすることができる機会が必要です。

ほんの2、3人だったとしても、自分のことを知っていてくれて、自分の幸せを心から願い、自分のためにいつも祈ってくれている仲間がいる……それは私たちにとって大きな慰めであり、励ましです。

あなたから始めよう

あなたには、この教会の中でそのような交わりの機会が与えられているでしょうか。もしないのだとすれば、あるいはそういう交わりの機会のない人を見つけたら、あなたがそういう交わりを始めてみませんか?

他の人が、イエスさまにとって、そして自分にとって、かけがえのない大切な存在だということを、どんなふうにしたらその人に伝えることができるでしょうか。声をかけること、しばらく一緒にいること、話を聞くこと、その人のすばらしいところを見つけてそれを伝えること……私たちにできることはたくさんあります。

また、勇気を出して、他の人に声をかけ、自分の話をして、祈ってくれるようにお願いしてみましょう。率直に自分を開いて話をするあなたに励まされて、あるいはその人も自分について話をしてくれるかもしれません。

2.互いの必要に応える

エルサレム教会

当時のエルサレムのクリスチャンたちは、財産を共有して、お互いの必要に応えていました。他の都市の教会では、必ずしも財産共有制を実行してはいなかったようです。しかし、それでも何か必要を覚えている仲間がいたならば、積極的に物やお金を渡したり、泊まる場所を提供したり、体力を貸してあげたりして、その人を助けようとしました(たとえばローマ16:1-2)。

私事ですが、私は大学生の時に始めて教会に行き、クリスチャンとなりました。親元を離れての下宿生活。私立大学だったため、生活費の仕送りはほとんどなし。なかなか苦しい食生活でした。そんな中、教会の方々が私を食事に招いてくださって、私は生き延びることができたのでした。

信仰の問題で悩んだときには、たくさんの本を貸してくださった方もいましした。病気になったとき、病院まで運んでくださり、看病までしてくださった方たちがいました。そして、「祈っているよ」と口で言うだけでなく、実際に祈ってくださった方たちがたくさんいました。

これからも私たちは、教会の交わりの中で必要を覚えている人がいたら、具体的に助けの手をさしのべていきましょう。

助けを求める謙遜

しかし、私たちが他の人の必要に気づき、それに応えられる存在になるには、まず自分自身の必要に気づき、他の人に謙遜に助けを求めることができなければなりません。そうでないと、いずれ燃え尽き症候群のようになってしまうかもしれません。あるいは、自分はこんなに他の人に優しくしているのに、他の人は自分に優しくしてくれないと、終始イライラするようになるかもしれません。

イエスさまは、人々の必要に、具体的にお応えになりました。同時に、イエスさまは、ご自身の必要も、大胆に人々の前に言い表し、助けをお求めになりました。

たとえば、サマリヤでのどが渇いたとき、水くみに来た女性に「水を飲ませてください」とお願いなさいました。プライドの高いユダヤの宗教家は、一般民衆の、しかも女性で、おまけにサマリヤ人に対して自分の弱さをさらけ出すなんて、そんな真似は絶対にしませんでした。しかし、イエスさまは謙遜に頭を下げられたのです。

また、十字架にかかる直前、ゲツセマネの園で祈ろうとしていた時、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死にそうだ。ここにいて、一緒に祈ってくれ」と頼まれました。

このように、自分の必要を素直に認めて、それを他の人に表現して助けを求める謙遜さと、他の人の必要を見いだし、犠牲を払って答える優しさとは、表裏一体なのでしょう。

あなたの必要は何ですか? そして、あなたの隣の人の必要は? あなたは、自分と隣人のために、具体的に何ができますか?

3.パンを割く

食事を共にする

初代の弟子たちは、集まった時にパンを割き、食事を共にしていました。一緒にお茶をしたり食事をしたりすることは、お互いの心を開き、親密な関係を生み出しやすくします。

中通りコミュニティ・チャーチでは、日曜日の礼拝式の後で、お茶と交わりの時間を持っています。お時間のある方は、是非ご参加ください。そして、できれば週日に、自発的に教会の仲間たち数名と、お茶をしたり食事をしたりする機会が持てるといいですね。聞いた話では、今度茶道のサークルを作ろうかという話が持ち上がっているとか。

赦された者として赦し合う

ところで、この「パンを割く」という言葉は、ただ単に一緒に食事をするという意味だけではありません。これはいわゆる聖餐式を表しています。

聖餐式は、イエスさまが行なうように命ぜられた儀式です。儀式というのは、目に見えない霊的な世界の真実を、目に見える形で表現したものです。では、聖餐式とは、どんな霊的真理を表現した儀式なのでしょうか。

聖餐式では、みんなでパンを裂いて分かち合い、ぶどう酒を分かち合っていただきます。これは、イエスさまの十字架の死を表しています。裂かれたパンは傷つけられたイエスさまの肉体、ぶどう酒は流れ出た血潮を象徴しているのです。

「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい』。夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい』。ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」(第1コリント11:23-26)。

私たちは、聖餐式にあずかるたびに、イエスさまが自分のために死んでくださったこと、そのためにすべての罪が赦され、自分たちが神さまの子どもにされたこと、それほどまでに私たちはイエスさまや天の父なる神さまに愛されていることを再確認します。

私たちは、それぞれに欠けがあり、癖があり、問題があります。それなのに、私たちがお互いを受け入れ、赦し、認め、愛し合うことができるのはなぜでしょうか。

それは、この私も、あなたも、あの人も、みんなみんな、イエスさまの十字架によって赦されているからです。すべての書けも、癖も、罪でさえも、みんなみんな赦されて、神さまに受け入れられているからです。私たちはみんな、イエスさまが命をかけて愛してくださるほどに、大切な価値ある存在です。

祈り合う交わり

教会でなくても、一緒にいて、話をして、食事を共にして、慰め合って、励まし合って、切磋琢磨し合って、互いの必要に応え合う交わりはあります。クリスチャンの交わりと、それ以外の交わりの違いは、交わりの中にイエスさまがいてくださるということです。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)。

ですから、教会の交わりには祈りがあります。人間同士で時間と場所を共有して、お互いの存在を意識し、語り合うだけでなく、そこにいてくださるイエスさまにも意識を向け、語りかけます。その時、イエスさまの愛がその場を包み込み、大きな喜び、平安、感動、希望が満ちあふれます。

教会の交わりの中では、イエスさまをいつもその中心に置きましょう。イエスさまが、参加者一人一人のことをどう思い、どのように祝福しようとしておられるのか、いつもそのことを意識していましょう。それが、私たちにとって大きな励ましとなります。

まとめ

私たちクリスチャンは、互いに交わり、愛し合うために造られ、生かされています。そして、教会の中の愛があふれ出て、教会の外の人たちに対する愛へと広がっていきます。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


Copyright(c) 2012 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.