良い行いに歩むように

トップページ聖書のメッセージ集2012年 > このページ


エペソ人への手紙2章8〜10節

(2012.9.23)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

クリスチャンの存在目的その4は、社会のいやしです。存在目的の2はクリスチャン同士の交わり、すなわち教会の中の人に対する愛の実践でした。一方、社会のいやしは、教会の外の人たちに対する愛の実践です。

1.良い行いをするために造られた

社会には傷がある

私たちは神さまに造られました。そして、造られた目的は、良い行いをすることだと今回の箇所は教えています。その良い行いの一つは、社会の傷を見つけて、それをいやす働きをすることです。

この世の中には、様々な傷、問題、悩み、痛みがあります。その傷を見つけていやすこと、それが私たちクリスチャンに与えられている存在目的の一つ、社会のいやしです。

社会にはどんな傷があるでしょうか。たとえば、人種差別や部落差別、性差別などの差別問題、貧富の格差、公害、戦争、難民問題、教育機会の不平等、自殺、心身の病気、孤児や未亡人の問題、学校や職場でのいじめ、夫婦関係や親子関係の破綻、生命倫理の問題など、挙げればきりがありません。

そして、クリスチャンは、それらの問題が少しでも解決の方向に向かうように、これまで積極的に取り組んできましたし、今もそうです。

キリスト教がなかなか根付かないと言われている日本でさえ、義務教育でも、差別の問題でも、社会保障の問題でも、公害問題でも、教会や宣教団体がいち早く手をつけ、その結果全国に働きが広がっていきました。

個人の小さな働きから

しかし、最初からそういう社会全体を動かすような大きな働きに取り組むことができるわけではありません。多くの場合、一人のクリスチャンが、目の前にいる一人の傷ついた人に目を止め、その人を助けようとするところから、働きが始まります。

そして、その働きを地道に続けていく結果、経験が積み重ねられ、視野が広げられ、協力者が与えられ、そうして働きが拡大していくのです。

たとえ小さな働きでも

ですから、社会に蔓延する問題の大きさに比べて、自分にできることはちっぽけなもので、意味がないと尻込みする必要はありません。私やあなたには社会全体を返る力はないかもしれません。しかし、目の前の人が、ほんの少しでも幸せにを感じてくださるとしたら、私やあなたのしたことには意味があります。

ある人が、マザー・テレサに、どうしてインドにとどまって活動するのか尋ねました。アメリカやフランスの大統領に会って、寄付をしてくれと願えば、たくさんのお金が集まるだろう。それで多くの人を助けることができるじゃないかと。

するとマザーは答えます。「寄付を募りに行く時間があるなら、私は目の前の患者さんの看病がしたいのです」と。

質問者はさらに詰め寄ります。「じゃあ、あなたにもっと時間があったらどうですか」。するとマザーは答えます。「だったらその時間を二人目の人にも使います」。

質問者はさらに食い下がります。「しかし、あなたが看ている人たちは、絶対に治らない病気の人たちで、どんなにあなたが看病しても、すぐに死んでしまうのでしょう? それでは意味がないじゃないですか」と。

すると、マザーは答えます。「このままでは、彼らは最後の最後まで、自分なんか生まれてこなければ良かったと思って亡くなることになるでしょう。しかし私は彼らに、生まれてきてよかったと、一瞬でもいいから思ってもらいたいのです」と。

もちろん、このエピソードは、アメリカやフランスに行って寄付を募ることが意味のないことだと語っているわけではありません。しかし、目の前にいる一人の人に仕えることが、社会のいやしの基本なのだということを、この話は改めて思い起こさせてくれます。

あなたの目の前にいる傷ついている人は誰ですか? その人のためにあなたができることは何ですか? それを実践しましょう。その時、神さまは喜んでくださいます。そして、あなたに「私の大切な人を助けてくれてありがとう」と言ってくださいます。

2.良い行いがあらかじめ備えられている

神さまが教えてくださる

聖書は、私たちは良い行いをするために造られたけれども、その良い行いもまた、神さまによってあらかじめ備えられていると語っています。

これはどういうことかというと、私たちに行なって欲しいと神さまが思っておられる行為については、もちろん神さまがよくご存じであって、私たちにもそれを知らせてくださるということです。

神さまは、様々な方法で私たちにみこころを教えてくださいます。これについては、今年の春にシリーズで語らせていただいた、聖霊なる神さまについての一連のメッセージを思い出してください(このサイトにも、バックナンバーがあります)。

聖霊なる神さまがみこころを教えてくだる一つの方法が、私たちの心に、「これをやりたい」「これをやらなければならない」という思いを与えてくださるというやり方です。心に浮かんでくるその思いが、明らかに聖書の教えに反するものでない限り、神さまのみこころかもしれないと思って大切にしましょうということを申し上げましたね?

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2:13)。

神さまは、あなたの心にも語っておられるはずです。

あなたに与えられた思いは?

今、私たち一人一人には、社会の傷をいやす使命が与えられていると考え、その思いを心の中でじっくりと反芻しましょう。そして、この私にできることは何だろうと考えてみましょう。あなたの周りにいる誰かの顔、傷を負って困っている人の顔が浮かんできませんか?

あるいは「こういう働きをしたい」「こういう働きをしなければ」という思いが浮かんできませんか?

もし浮かんでいるならば、その思いを大切に育て、実行に移し、さらにそれを続けましょう。その働きが、人間の目にはどんなにちっぽけに見えたとしても、神の国にとっては重要なプロジェクトです。

私の場合

東京から福島県に引っ越してから、ネットで知り合った人とメールでお話ししていた時のこと、私がカウンセリングの仕事もしていると知ったその人が、こんな話をしてくれました。その人のお姉さんが統合失調症で、家族はどうやってお姉さんに接してあげたらいいのかが分からず、ずいぶん戸惑い、苦しんだけれど、家族がどう患者さんに接したらいいかを具体的に教えてくれる相談の場所がなくて困ったという話でした。

その時、私の心に一つの思いが浮かんできました。心の病気など、問題を抱えている本人も大変だけれど、周りで支える家族や恋人や友人も、同じように悩み苦しむ。患者さん本人には、病院もあるしカウンセリングの場も用意されているけれど、周りのサポーターだって支えが必要なのに、案外放ったらかしにされているのではないか。もしも、患者さんへの接し方について、具体的な方法をいくつかお教えすることができたなら、ずいぶんサポーターの皆さんは助かるんじゃないか。そして、サポーターの皆さんのコミュニティをネット上に作ることができたら、お互いに大いに力になるんじゃないか、と。

最初はブログで、うつ病の患者さんへの接し方を紹介していきました。そのうち、ブログでは読みたい記事を見つけて読むのが大変だから、お金を出してもいいからまとまった資料が欲しいという人が現れたので、冊子化して発売しました。お金は出せないという方もいるでしょうから、その冊子の最も重要な部分を抜き出して無料冊子も作りました。

その後、患者さん本人への関わりも大事だけれど、その患者さんを周りで支える人たちの支えになりたいという思いは、だんだんと強く、深くなっていきました。今では、援助者への援助が私のライフワークの一つだと強く意識するまでになっています。

私には、あれもこれもはできません。できていることと言えば、ほんの一握りの人に関わるようなささやかなことで、社会全体を変えることなんかとてもできません。それでも、神さまは私に、傷つき、戸惑い、困り果てている援助者を援助するように願っておられると信じます。

あなたが神さまに導かれている社会のいやしの働きは何ですか?

3.恵みのゆえに

恵みにより、信仰による救い

エペソ人への手紙は、私たちが神さまに救われ、神さまの子どもとなり、神さまに大いに祝福される身分となったのは、私たちが良い行いをしたご褒美ではないと教えています。

そうではなく、神さまが一方的に私たちを愛し、救おうと決めてくださったこと、すなわち恵みによります。そして、私たちが「そうなんだ。神さまが一方的に救ってくださったんだ」と受け取る信仰によります。

救われた感動が変化の原動力

神さまに一方的に愛され、救われたことを知った私たちの心には、神さまへの感謝と喜びがわき上がってきます。これが、「神さまの喜ばれる生き方がしたい」という思いの原動力です。

なぜ人を愛するのでしょうか。それは、神さまが私を愛しておられるように、教会の外のあの人のことも、この人のことも愛しておられるからです。その人たちを大切にすることは、神さまに喜んでいただけることです。

良い行い、愛のわざは、救いの条件ではありません。しかし、すでに救われているから、私たちは愛のわざへと突き動かされていきます。

愛することで救いが成熟する

愛のわざは、すでに救われたことへの感謝や喜びによって、内側から突き動かされるものだと申し上げました。しかし、時にはそれを行なうことが大変な場合もあります。愛のわざを行なわなくても、神さまから罰を受けるわけではありません。だったら、大変な場合には何もしなくてもいいはずですが、それでも多くのクリスチャンが、苦労をものともせず、努力して愛のわざを実践しています。

いったいなぜでしょうか。それは、愛のわざを行なうことで、私たちの救いが、より成熟していくからです。

すなわち、ただ地獄に行かない、罰を受けないというレベルではなく、私たちの心がより生き生きとし、より喜びや充実感に満たされ、どんな状況に置かれていてもそこで幸せを感じられるようになっていきます。

どうしてそうなるのでしょうか。まず、人を愛し、仕えることで、私たちは自分の持ち味を発見するからです。愛し方は人それぞれです。人と同じことをする必要はありません。あなたにできることをすれば、神さまは喜んでくださいます。そこで、私たちが人を愛し、仕えていくとき、「私は自分自身の人生を生きている」という充実感を味わうことができるようになります。

次に、人を愛し、仕えることで、私たちは「貢献感」を味わうことができます。誰かのお役に立っているという感覚ですね。私たちが精神的に健康でいられるためには、貢献感はなくてはなりません。

そして、これが最も重要なポイントですが、人を愛し、仕えるとき、愛である神さまも共に働いてくださるので、神さまの不思議で力強いみわざを体験するようになるからです。神さまが観念的な存在ではなく、確かに生きておられ、私たちと共に働いてくださるということを実感するとき、私たちの魂が理屈抜きで喜び震えます。感動します。内側から力がわいてきます。

まとめ

聖霊が促されるなら、今のあなたにできる範囲で、教会内で、家庭で、職場で、学校で、地域で、ネット上で、愛のわざを実践しましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


Copyright(c) 2012 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.