しかし

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詩篇22篇1〜31節

(2012.10.7)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまは、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マタイ27:46)。弱々しい絶望のような叫びに聞こえます。しかし、これは詩篇22:1の引用です。

この詩篇を書いたダビデは、多くの困難を経験しました(上述)。しかし、神さまへの信仰と希望を失わず、喜びと平安の内に、その祝福された生涯を閉じました。この詩篇も、否定的な叫びで始まっていますが、最後は喜びと賛美で締めくくられています。

ダビデが困難の中でも希望を失わず、喜びと平安を保つことができた理由。それは、彼が「しかし」の使い方をよく知っていたからです。

1.信仰の「しかし」

「しかし」による軌道修正

将棋の永世名人である大山康晴氏が、ご自分の将棋のスタイルについてこんな事をおっしゃっています。「弱い駒が強い駒を任す。そこに将棋の醍醐味がある。使い方によっては、歩の方が金より能力がある。私は歩をどのように使うか、いつも心を用いてきた」。

同様に、私たちの信仰は「しかし」という短い言葉の使いどころで決まります。

問題のただ中で、信仰者ダビデの心も、さすがに心ふさがれていました。自分は神さまに見捨てられているのではないだろうかという思い、もうおしまいかも知れないという思いが、重くのしかかっていたのです。

「しかし」と、ダビデは言います。そして、神さまの愛と守りと導きを信じる方向に、自分の心を軌道修正します。その結果、希望や平安や喜びが彼の心に訪れました。

1-5節を読みましょう。「どうしてお見捨てになったのですか」と言いたくなるような苦々しい心。「しかし」(3節)、イスラエルの先祖たちは神さまを賛美し、信頼し、神さまはそれに応えて彼らを救い出してくださったではないか、と。

次は6-11節です。自分が虫けらのように思える、それほどに惨めな心。「しかし」(9節)、神さまは私の造り主であり、生まれる前から私は神さまに覚えられている存在、それだけ神さまにとって大切な存在ではないか、と。

それから11-21節です。敵が取り囲み、私のことを言いようにあしらっている。「しかし」(19節。新改訳にはありませんが、口語訳や新欽定訳では訳されています)、神さまは必ず救ってくださる、と。

聖書の中のしかし

聖書は、信仰の「しかし」に満ちています。
  • イエスさまは、十字架にかかる前の晩、「この杯を取りのけてください」と祈りました。杯とは、旧約聖書では神さまのさばきを象徴する言葉です。すなわち、父なる神さまに呪われ、捨てられたくないということです。ところがその直後、イエスさまは「しかし、私の願いではなく、あなたの御心のままになさってください」と祈られました(マタイ26:39)。
  • 「それ(人を救うこと)は人にはできない。しかし、神にはどんなことでもできる」と約束されています(マタイ19:26)。
  • ペテロとヨハネは、歩くことができないので物乞いをしていた人に向かって、「金銀は私たちにはない」と言い放ちます。きっと、この人はがっかりしたことでしょう。ところが、こう続けます。「しかし、私たちにあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい」。そして、この人はいやされ、もう物乞いをしなくてすむようになりました。
  • 聖書は「罪から来る報酬は死である」と宣言しています。罪を犯したら死ぬ、すなわち、あらゆる幸せの源である神さまから切り離されるよと。ところが、続けてこう言います。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち(神さまとの深い交わり)です」と(ローマ6:23)。
第2コリント6:8-10では、パウロがこんなことを書いています。「しかし」と同じ意味の、「が」に注目しましょう。

「わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
人に知られていないようであるが、認められ、
死にかかっているようであるが、見よ、生きており、
懲らしめられているようであるが、殺されず、
悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、
貧しいようであるが、多くの人を富ませ、
何も持たないようであるが、すべての物を持っている」(口語訳)。

神の約束と「しかし」

あなたは今、どんな不安や恐れ、怒りや悲しみなどの否定的な気持ちを抱いていますか? それに対して、神さまはどんな約束を聖書の中でしてくださっていますか? あなたの内におられる聖霊は、どんなことを約束してくださっていますか?

否定的な気持ちになったときには、まずは「しかし!」と口に出してみましょう。それから、「しかし、何だろう?」と考えます。そして、「しかし」の後に続く神さまの約束を見つけ出し、それを何度も自分に向かって語りかけましょう。すると、私たちの否定的な心の中に、希望、喜び、平安がわき上がってきます。

ダビデのように、信仰の「しかし」を上手に使いたいですね。

2.不信仰の「しかし」

揺れる思い

ところが、ダビデがこの詩篇の中で使った「しかし」は、信仰の「しかし」ばかりではありませんでした。信仰の「しかし」とは逆の使い方をする「しかし」もあります。2節と6節です。また、訳されていませんが、意味的には11節にも「しかし」を入れることができるでしょう。信仰の「しかし」に対して、不信仰の「しかし」ですね。

つまり、ダビデの心は揺れていたのです。信仰の「しかし」によって、いったんは神さまの約束を信じ、平安に満たされたのに、すぐに「でもなあ」と恐れで満たされ、心がかき乱されてしまいます。彼は、信仰と不信仰の間、大丈夫感覚と不安感の間、希望と絶望の間を揺れ動いていました。

今いるところから始めよう

ダビデの優れているところは、そういう否定的な思い、不信仰な思いが自分の中にわき上がってきたときに、それをごまかさないで、そういう思いが自分の中にあると認め、神さまの前に正直に告白したことです。

そして、ダビデは、神さまに素直に助けを求めました。だからこそ神さまは、ダビデが必要な助けを与え、また信仰の「しかし」によって平安が与えられるように導いてくださいました。

水虫を自覚したら、仮に「恥ずかしいな」と思っても、皮膚科に行って「水虫になりました。治してください」と言わなければなりません。格好をつけて「何の問題もありません」というような顔をしていては、いつまでたっても治りませんね。

私たちの教会の信仰を特徴付け、支えている聖書の言葉の一つは、ピリピ3:16です。「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」。「それはそれとして」というのは、その直前に語られたことを指します(12-15節)。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」。


ここで言われていることは、私たちは信仰の高嶺目指して、しっかりと目標を定め、たゆまず上っていこう、成長していこう、ということです。

そして、16節が続きます。私たちは成長していかなければならないのだけれど、それはそれとして、今いるところがいつも出発点だということを忘れずにね、ということです。今の状態がどんなに信仰の理想状態からほど遠いものであったとしても、そこから始めて一歩一歩成長して行きなさい、それでいいんだからということです。

十字架による赦し

神さまは、私たちの現在位置がどんなに信仰の理想から遠く離れていたとしても、決してさばいたりなさいません。それは、イエスさまが十字架にかかって、死んでくださったからです。イエスさまの十字架の死は、私たちの罪の罰の身代わりです。ですから、イエスさまを信じた私たちが天罰を受けることは決してありません。

私たちは、どんな状況の中にあっても、常に喜び、感謝し、神さまにゆだねて平安を得る、そんな生き方をしたいと思います。ところが、現実に不安や不信感を抱えているのであれば、理想状態からほど遠い自分をごまかさないで、そこから始めて一歩一歩成長していきましょう。

私たちも、ダビデのように、信仰の「しかし」を使って、神さまの約束の方向に自分の心を強力に引き上げましょう。ただ、神さまの約束を信じ切れない部分が自分の中にあることを自覚したら、素直にそれを認め、不信仰の「しかし」を使って神さまの前に告白しましょう。そして、神さまに助けを求め、再び信仰の「しかし」を使って、自分の心を神さまに向けましょう。

3.信仰の勝利

二つの「しかし」の行ったり来たり

ダビデは、困難に直面したとき、自分の中にある不信仰、不安、絶望などの否定的な思いを、神さまの前に告白しました。そして、それに対して、信仰の「しかし」を使って、神さまから来る約束に目をとめ、大丈夫だという思いをいただきました。

ところが、ここでまだ神さまの約束信じられない自分がいます。そこで、不信仰の「しかし」を使って、また否定的な思いを意識化し、言葉にしました。そして、さらにその否定的な思いに対して、信仰の「しかし」を使って、神さまへの信頼の方向に自らを導いていきました。

このようにして、ダビデは、信仰の「しかし」と不信仰の「しかし」を使って、自分の中の肯定的な部分と否定的な部分を、意識して行ったり来たりしました。

いつの間にか勝利

そんなことをすると、この行ったり来たりが永遠に続くと思われますか? いいえ。ダビデの場合はそうではありませんでした。この詩篇の後半では、もはやダビデは揺れ動いてはいません。神さまがこの宇宙を支配しておられることを高らかに賛美し、その力強いお方に人生をおゆだねして、喜びと平安に満たされています。

私も、実際に自分でやってみて分かりました。信仰と不信仰、安心と不安の間を、ごまかさないで意識して行ったり来たりしていると、だんだんと真剣にやれなくなってきます。何か、ゲームでもやっているかのような気分になってくるのです。

すなわち、半ば無理矢理に否定的なことを考えようとしている自分に気づき始めます。最初は不安や不信感の方が強かった私の心の中で、いつの間にか信仰、希望、平安が勝利を収めていたということです。

なぜこんなことが起きるのでしょうか。それは、私たちの内側に、イエスさまの霊、聖霊なる神さまが宿っておられるからです。私たちがイエスさまを救い主と信じた時、聖霊さまは私たちの心の中に入り、住んでくださいました。そして、私たちを内側から造り変え、日々イエスさまに似た者になるよう成長させてくださっています。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(第2コリント3:18)。

イエスの信仰

イエスさまは、十字架の上でこの詩篇の1節前半を叫ばれました。一見、それは敗北の叫びのように聞こえます。しかし、実はこの詩篇全体を引用なさったのだと私は信じています。イエスさまは、十字架の上で絶望しながら亡くなったのではなく、救いの完成を確信し、勝利を賛美しておられたのだ、と。

事実、イエスさまは死んで3日目に復活し、死と罪と悪魔を打ち破って、勝利してくださいました。

イエスさまは信仰の創始者であり、完成者です(ヘブル12:2)。だから、イエスさまの御霊をいただいている私たちが、信仰と不信仰を同じ土俵で正面切って戦わせたら、信仰の方が勝つに決まっています。

まとめ

私たちも、ダビデのように、信仰の「しかし」と不信仰の「しかし」を適切に用いながら、神の聖霊によって信仰を育てていただきましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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