みことばは蜜より甘い

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詩篇119篇97〜105節

(2012.10.14)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

私たちは、この詩篇の記者のように、聖書を読むときに、その心が喜び踊り、多くの慰めや励まし、知恵や勇気を受け取っているでしょうか。もちろんそうだと思いますが、ますますそうなるための秘訣を学びましょう。

1.聖書は喜ばしい

聖書の教えは窮屈?

イエスさまを信じませんかと伝道すると、いろんな反応が返ってきます。その一つは、クリスチャンになると、いろいろ規制が多くて窮屈になるんじゃないかというものです。

確かに聖書の中には、「〜すべし」「〜すべからず」という命令や禁止がたくさんあります。そんなのとても守りきれないし、第一、そんなことを気にしていたら窮屈だというわけです。

蜜のように甘い

ところが、詩篇の記者は、「みことばは、鎖のように私を縛り上げる」ではなく、「蜜のように甘い」と表現しています。

イメージや第一印象と、実体とが異なるということはよくある話ですが、聖書の言葉についても同じなのかもしれません。聖書の命令や禁止を、私たちを縛り上げる鎖ではなく、私たちを元気づけ、喜ばせる愛のメッセージとして読んでみる必要がありますね。

2.愛のメッセージとして読む

シャバットの体験

20年前、イスラエル旅行をした時、金曜日の夜に泊まったホテルで、ユダヤ人の一族20名位の方々が宴会をしていました。聞けば、シャバット(安息日)のお祝いのために、こうして毎週親戚が集まって、食事をし、歌ったり踊ったりして楽しむのだそうです。

ユダヤの安息日は土曜日ですが、イスラエルの一日は日没から始まりますから、日本の暦で言えば金曜日の夕方から安息日が始まるわけです。

それまでの私といえば、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)という命令について、あまりいいイメージがありませんでした。「働いてはいけない日」、「引きこもってじっとしていないといけない日」、「楽しいことも何もしてはいけない日」だととらえていたのです。

しかし、あのユダヤ人一家は、実に楽しそうでした。心から安息日を喜んでいるようでした。まさに、目から鱗が落ちる思いでした。

「〜してもいい日」と読み直してみる

あのユダヤ人一家との出会いがきっかけとなり、私の安息日についてのとらえ方が180度変わりました。「〜してはいけない日」ではなく、「〜してもいい日」なのだと視点が変わったのです。

そもそも安息日の命令は、イスラエルの民がエジプトを脱出して、約束の地カナンに向かう途中で与えられました。それまでのイスラエルは、エジプトで奴隷状態にあって、毎日休みなく、何時間も何時間も重労働をさせられていました。しかし、神さまは、モーセを解放者として選び、彼を通して様々な奇跡を行なって、ついにイスラエルの民をエジプトから救い出されました。

それから、神さまは安息日の教えを含む律法をイスラエルに授けられました。ですから、安息日の前提は、神さまがイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放されたということです。

「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」(申命記5:15)

このように、安息日が制定された理由の一つは、神さまがイスラエルを解放してくださったことを、イスラエルの民が忘れないように、記念とするために定められたものです(別の理由は、神さまが6日間かけて世界を創造し、7日目に休まれたことを記念するためです)。

休みなく働かされていたイスラエルの民にとって、安息日は「働いてはいけない日」ではなく、「働かなくてもいい日」「休んでもいい日」「神さまが救いの神であることを思い出す日」「体も心も霊もリフレッシュする日」なのでした。それは喜ばしい日ですね。

今、私たちは週に1〜2日の休みを取るのは当たり前ですが、古代はそうではありませんでした。特に主婦や奴隷たちにとって、安息日の規定はどんなにありがたい教えだったことでしょう。

安息日は、神さまが人間を縛り上げる窮屈な日ではりません。感謝と喜びに満ちあふれた日です。そう考えると、あのユダヤ人一家の喜ばしい光景が納得できますね。

その他の命令も

その他の命令、たとえば「聖書の神以外に神があってはいけない」という教えも、神さまの偏狭を表す命令ではなく、「あなたを恐れさせたり、あなたを縛り上げたり、祝福の対価としてお金や奉仕を要求するような、偽物の神なんか信じなくていいんだよ。あなたを無条件で、愛しているわたしについておいで」という、愛の語りかけだと言えます。

「偶像を造るな」という教えも、「聖書の神を、人間のイメージに押し込めてはいけない。なぜならば、聖書の神は、あなたが想像しているよりも、もっともっと愛にあふれ、もっともっとすばらしいお方なのだから」ということなのです。

「盗むな」「姦淫するな」といった教えの背後にも、「もう物や快楽によって心を満足させなくても、神さまがあなたの心を満たしてくださいます」という約束が込められています。

聖書のみことばは、私たちを愛してやまない神さまが、私たちを幸せにしたくてたまらなくて、私たちに語られた愛のメッセージなのです。聖書の中に書かれている様々な禁止や命令を読むときには、そのような読み方をしましょう。

3.愛されているから

解釈は読み手の価値観次第

これは、正岡子規の詠んだ俳句です。

花桐の 琴屋を待てば 下駄屋かな

桐の木が、将来お琴の胴に加工されることを願って、琴屋さんが買いに来るのを待っていたけれども、実際には下駄屋さんに買い取られ、下駄になってしまったという内容です。

表面的な意味はそうなのですが、この句をどんなニュアンスで解釈するか、そこには、解釈者の人生観が大いに影響を与えるようです。ある人は、人生とは思い通りにいかない嫌なものだと、そんなふうに解釈するかもしれません。

しかし、別の人はこう解釈するでしょう。

願い通りの人生ではなかった。お琴になりたかったのに下駄にされてしまった。だからといって、その後ふてくされて一生を終えることはしない。この人生(木生?)が、神さまが自分に下さったオーダーメイドのプレゼントなのだととらえ、下駄として最高の人生を生きることにしよう。琴の音で人を感動させることはかなわなかったけれど、履いてくれる方と共に、悲しい時もうれしい時も歩んでいこう。からんころん、からんころんと、悲しい時は慰めの音を、うれしい時には合いの手を、精一杯奏でていこう……そんなふうに。きっとあなたもそうでしょう?

聖書を窮屈な命令の書と取るか、それとも神さまからのラブレターと取るか、それもまた、その人自身の神観や人生観によります。

誰に言われるか

あなたにとって神さまは、どんなお方ですか? 私たちを愛してやまないお方? それとも、リストラの候補を絞り込むために、社員の行動や業績を調査している人事担当者のように、いつも考査表を片手に、眉間にしわを寄せながら、あなたのあら探しをなさる方?

聖書はこう言っています。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。イエスさまの十字架は、神さまが私たちを愛してやまないお方であるという証拠なのです。

私たちは、同じことを言われているのに、Aさんから言われるのと、Bさんから言われるのとで、素直に従おうという気持ちに差が生じることがあるのではないでしょうか。

高校生のA君が、髪の毛を真っ赤に染め、まるで鶏のとさかのように立てて帰ってきました。両親は「何だ、その髪は。切ってこい!」と言いましたが、A君は「うるせぇ!」と怒鳴ると、すぐに家を飛び出してしまいました。

ちょうどその時、隣のおばさんが、門の周りの掃き掃除のために外に出てきました。このおばさんは、A君が小さい時から、A君のことをとてもかわいがってくれた人でした。おばさんは、険しい顔をして飛び出してきたA君を見ると、ほうきを置いて近づいてきました。そして、A君をぎゅーっと抱きしめ、耳元でこうささやきました。「おばちゃん、その髪型、A君に似合わないと思うよ」。A君は、すぐに髪の毛を切りに行ったのでした。

私たちはなぜ神さまの命令を守り、イエスさまに従おうとするのでしょうか。そうしないと、罰が怖いから? いいえ。イエスさまが私たちのことを大好きで、そして私たちもイエスさまのことが大好きだからです。すなわち、そうしないではいられないからです。

しないではいられない教会

私たちの教会は、「すべし」「すべからず」の規則に縛り上げられ、不平不満を必死で押さえ込みながら、表面的にはクリスチャンらしいきよく正しく美しい生き方をしていくような、そんな信仰生活を目指してはいません。心の底から本音で神さまと向き合い、心の底にしみ通るような愛のぬくもりをいただき、心の底から喜んで神さまと共に歩んでいきたいのです。

私たちは、本音の所では、「従いたくない」「従えない」と思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、そういう私たちのことを、イエスさまはたまらなくいとおしく思ってくださっています。嬉しいですね。感謝ですね。きよい生き方の原動力、他の人への愛に満ちた行動の原動力、熱心な伝道の原動力は、この感謝と喜びです。

聖書は、神さまからあなたに宛てられたラブレターです。すでにそうなさっておられるように、これからもそういう目で読んでみてください。

まとめ

聖書の言葉は、私たちを縛るためのものではなく、私たちを解放し、励ます愛のメッセージです。もっともっと慕い求めましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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