平安な眠りのために

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詩篇4篇1〜8節

(2012.10.21)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イスラエルの王であったダビデは歌います。「あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」(1節)「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます」(8節)

人間関係の問題、経済的な問題、仕事上の問題、健康上の問題などにぶつかって、心穏やかでいられないときがあります。私たちも、ダビデのように、問題のまっただ中にあっても、ゆとりや平安を味わうことができます。

1.神はゆとりを与えてくださる

王子アブシャロムの叛乱

まずは、この時ダビデが直面していた問題を見ていきましょう。詩篇4篇は、伝統的に3篇と一緒に読まれてきました。3篇の表題を見ると、これらの詩が作られた背景が分かります。曰く「ダビデがその子アブシャロムから逃れたときの賛歌」。具体的には、第2サムエル13〜18章に記されています。

王子アブシャロムには、タマルという同母妹がいましたが、アムノンという異母兄に強姦されてしまいました。その事実を知った父ダビデは大変怒りますが、結局アムノンに対して何の処分も下しませんでした。そこで、アブシャロムは密かに恨みを募らせ、事件から2年たって、アムノンを殺して逃げてしまいます。

殺人事件から3年後、将軍ヨアブの仲裁によって、アブシャロムはエルサレムに戻ることを許されましたが、ダビデは彼に会おうとしませんでした。こんなことが2年も続きます。そこで、アブシャロムは何度もヨアブに使いを出して、さらなる仲裁を求めようとしますが、ヨアブは応じようとしませんでした。頭に来たアブシャロムは、ヨアブの畑に火をつけます。これに驚いたヨアブは、結局仲裁することになって、ダビデはアブシャロムを呼び寄せ、口づけをしました。

タマル事件の処置の甘さや、自分に対する扱いのひどさに、アブシャロムのダビデに対する恨みは深くなっていたのでしょう。その後4年かけて、アブシャロムは密かに自分の派閥を拡大させていきます。そして、ついにダビデに反旗を翻しました。アブシャロムの謀反を知ったダビデは、命からがら首都エルサレムを脱出しました。

叛乱の顛末

ダビデの有能なブレーンであったアヒトフェルも、アブシャロムに味方していました。彼はアブシャロムに進言しました。自分に1万2千人の兵士を預けてくれれば、今夜のうちにダビデを追撃して、彼の命を奪って見せましょう、と。もしもこの案が採用されていれば、まずダビデの命はありませんでした。ダビデは非常に危険な状況に置かれていたわけです。

しかし、アヒトフェルの裏切りを知ったダビデは、神さまにこう祈っていました。「【主】よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(第2サムエル15:31)

すると、これまたアブシャロムのブレーンになったフシャイが、アヒトフェルの追撃案を採用しないようアブシャロムに働きかけます。ダビデは軍事的な天才だから、1万2千人くらいでは、返り討ちに遭う可能性がある。すると、それを見た人々がダビデに味方し始めるかも知れないと注意したのです。そして、全国からもっとたくさんの兵士を集めて、アブシャロム自ら軍隊を率いて出陣し、一気にダビデ軍をやっつけるようにと進言しました。

実はこのフシャイ、ダビデがアブシャロムの元に送り込んだスパイです。フシャイは、アブシャロムが兵を集めている間に、ダビデが安全なところに逃げ出し、敵を迎え撃つ準備ができるようにするため、あのような進言をしたのでした。

結局、アブシャロムは、アヒトフェルではなくフシャイの案を採用しました。フシャイは密かにアブシャロム軍の動きをダビデに知らせたため、ダビデはアブシャロム軍が出撃の準備をしている間に逃げ出し、さらには十分準備した上で森林地帯にアブシャロム軍を誘い出します。

兵士の数だけ見れば圧倒的にアブシャロム軍が有利でしたが、アブシャロム軍の兵士の多くが、深い森の中で遭難してしまい、戦わずして行き倒れになってしまいました。こうして、ダビデ軍が勝利を収めました。

ダビデは、アブシャロムの命は取らないように命じていましたが、将軍ヨアブはアブシャロムを殺してしまいます。それはダビデを非常に悲しませましたが、とにかく叛乱は鎮圧されました。

私たちにも与えられるゆとり

おそらく詩篇4篇は、フシャイからの情報によって難を逃れ、勝利の可能性が見えてきたときに作られたものでしょう。

まだまだ叛乱そのものが鎮圧されたわけではなく、実際の戦いはこれから始まろうとしていました。しかし、この詩篇の中にあるように、すでにダビデの心には余裕が生まれ、安心してぐっすりと眠ることができるようになっていました。

もしかしたら、あなたはまだまだ余裕を感じてはいないかも知れません。不安や怒りや悲しみで、あまりぐっすりと眠れないような状態かも知れません。しかし、私たちはダビデと同じ神さまを信じています。神さまは、私たちにも精神的な余裕と平安な眠りを与えてくださいます。

2.主は聞いてくださる

祈りは聞かれる

では、ダビデが余裕と平安を得たのはどうしてでしょうか。その理由は3節に書かれています。「知れ。【主】は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、【主】は聞いてくださる」。

彼は祈りました。そして、神さまが自分の祈りを聞いてくださり、必ず自分を守り、助けてくださると信じました。だから、平安を得ました。

もちろん、ダビデの命が守られ、さらには勝利を得ることができたのは、スパイであるフシャイの働きが大きいです。しかし、フシャイの活躍もまた、神さまが「アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」という自分の祈りを聞いてくださった結果だと、ダビデは受け止めたことでしょう。だからこそ、このように神さまへの感謝と賛美の詩を作り、歌ったのです。

全知全能の神

私たちの神さまは、全知全能であり、どんな問題よりも強く、大きなお方です。私たちを滅ぼそうと狙っているサタン(悪魔)でさえも、神さまにはかないません。

ですから、有名なローマ8:31ではこう言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」。

私たちの目には八方ふさがりであっても、天の窓はいつも開いています。ダビデと共に逃げていた人たちの中には、6節のようにつぶやく人もいました。「だれかわれわれに良い目を見させてくれないものか」。しかし、ダビデは、全知全能なる神さまがそれをしてくださると、確信を持って言うことができました。そして、神さまに向かって「あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」と祈ることで、彼らにもこのように祈りなさいと勧めたのです。

神に特別扱いされている

ただ、どんなに神さまが力と知恵に満ちていたとしても、私のことが大嫌いで、ひどい罰を下してやろうと思っておられるとしたら、逆に恐ろしいことです。全知全能だということは、私たちの知恵や力では逃げようがない、防ぎようがないということだからです。

ところが、ダビデは、自分の祈りを神さまは聞いてくださると思っています。それどころか、自分は神さまに特別扱いしていただいている、だから何があっても大丈夫だ、神さまと自分とはそんな近い関係なんだと思っていました。
信仰とは図々しいこと
この教会では、「信仰とは図々しいことだ」と何度も申し上げています。聖書に出てくる信仰者は、みんな図々しくも、自分が神さまに愛され、特別扱いされていると信じていました。ダビデもそう、アブラハムもそう、モーセも、ヨシュアも、ギデオンも、サムソンも、ソロモンもそう、ペテロも、ヨハネも、マタイも、パウロもそうです。

そして、きっとあなたもそうでしょう。どういうわけか、神さまはあなたを愛し、あなたを大切に思っておられ、この世が与えるような安っぽい刹那的な幸せではなく、永遠に続く本当の幸せをあなたに与えたいと思っておられると、そう図々しく信じておられることでしょう。

神さまは、その信仰を喜ばれます。あなたは神さまに特別扱いされています。ですから、そのことを思い起こすとき、ダビデのように問題のまっただ中にあっても、ゆとりと平安を味わうことができます。

さて、神さまとのこのような親密な関係が鍵だと言うことを、ダビデは知っていました。そこで、次のような勧めがなされています。

3.義のいけにえをささげよ

恐れおののけ。そして罪を犯すな

ダビデはこう勧めています。「恐れおののけ。そして罪を犯すな」(4節)。これは、直訳するとこういうニュアンスです。「怒りなさい。しかし、罪を犯してはいけない」。どこかで聞いたことのある言葉だと思ったら、パウロが手紙に引用しています。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4:26)。

私たちは、時に怒ったり、恐れたり、退屈したり、やる気が出なかったりと、いろいろな嫌な感情を味わいます。そして、嫌な感情を一切感じないように自分をコントロールするのはなかなか難しいですね。

ダビデやパウロの言葉は、たとえ誰かに対して怒りを感じたとしても、そして、感じてしまうこと自体は防ぐのが難しかったとしても、怒りを感じた後でどういう行動を取るかについてはコントロールが可能だと言っているようです。

誰かに怒りを感じたとき、アブシャロムがアムノンにしたように、怒りにまかせて自分で復讐したり、経済的な不安を感じたときに、手っ取り早く不安を解消したくて、法に触れると分かっているような方法でお金を手に入れようとしてしまったりすることもできます。しかし、それらは神さまの喜ばれないことであり、罪です。

聖書は、たとえ怒ったり、不安になったり、絶望しそうになったりしても、罪を犯さないという決断しなさいと勧めています。嫌な感情がわき上がってきていたたまれない気持ちになったとしても、そのように「床の上で自分の心に語り、静まれ」と(4節)。なぜダビデは、罪を犯さないようにということを、ことさらに強調したのでしょうか?

私の心の問題

それは、神さまと私たちとの親しい関係の鍵を握っているのは、私たちの心だからです。

問題のただ中にあっても、ダビデのようにゆとりと平安を味わうことができるかどうかは、神さまが私たちを愛し、特別扱いし、何としても幸せにしたいと願っておられると信じられるかどうかにかかっています。

ところが、神さまの側では、すでに私たちを愛し、特別扱いし、幸せにしたいという願いを持っておられるということを宣言しておられます。そして、「あなたは神であるわたしのことを愛してくれますか?」と問いかけておられます。「あなたなんか知らない」と無視するか、「私たちもあなたを愛します」と言うかは、私たちが決められるし、決めなければなりません。神さまとの関係が親密になるかどうかは、実は私たちの心にかかっているのです。

なぜ罪を犯さないようにしないといけないのか。それは、罪を犯すと罰を受けるから、それが恐ろしいからしかたなく、ではありません。罪を犯すそのとき、私たちの心は神さまから離れているからです。罪だと分かっていること、すなわち神さまはこれを喜ばれない、悲しんでおられると自分で分かっていることを行ないながら、自分が神さまに特別扱いされているんだとは、私たちはなかなか思えません。

そしてそれは、私たちが神さまの愛と守りを信じて、ゆとりや平安を味わう機会を奪ってしまいます。ですからダビデは、今がどんなにつらくても、いやつらいからこそ、罪を犯してはならないと勧めます。

キリストという義のいけにえ

さて、罪を犯すなと勧めたダビデは、続けて「義のいけにえをささげ」なさいと勧めています(5節)。この言葉は、罪を犯した者の悔い改めを示す言葉です。

罪を犯すなと言われても、ついつい感情のままに神さまの喜ばれないことをしたり、言ったりしてしまうのが私たちです。いや、心の中で情欲を抱いただけで、それは姦淫だというのが神さまの基準であるならば、罪を犯さない人間など一人もいないことになります。

ダビデだって、結構罪深い男です。人妻と姦淫し、彼女が妊娠すると、事が発覚することを恐れて夫を戦場に送って戦死させました。アムノンやアブシャロムの例が示すように、家族の中で問題が起ると、怒ったり嘆いたりするばかりで、ちっとも主体的に関わろうとしません。

しかし、ダビデの優れているところは、罪を示されると、すぐに認めて悔い改めたことです。ここが、前の王であるサウルと違うところでした。神さまは二人とも愛しておられましたが、サウルは神さまとの愛の関係に戻ろうとせず、ダビデは図々しく戻ったということです。ゆえにサウルは神さまの祝福を失い、ダビデは祝福を失いませんでした。

ですから、できるだけ罪を犯さないように努力することはもちろんですが、それでも罪を犯したときに、素直にそれを認めて悔い改め、あきらめないで正しい行動を選び直して再チャレンジしなさいと、ダビデは言うのです。

ダビデは、この詩の冒頭で神さまに向かって「私の義なる神」と呼びかけました(1節)。これは「私を正しい者、完全な者として受け入れてくださる神」という意味です。罪人の一人に過ぎないダビデや私やあなたに、どうしてこんなことが言えるのでしょうか。どうして悔い改めるだけで赦されて、関係が修復するのでしょうか。図々しいにもほどがあるのではないでしょうか?

それは、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして死んでくださったからです。イエスさまは私たちのための義のいけにえとなって、その命を差し出してくださいました。そして、復活された後、天の父なる神さまのもとに昇られて、今この時、私たちのために取りなしをしてくださっています。イエスさまの尊い犠牲と取りなしのおかげで、私たちは神さまから罪を赦され、義と認められました。

ですから、私たちは悔い改めて神さまとの関係を修復することができます。こんなひどいことをして神さまを悲しませた自分だけれど、それでも神さまは私のことを愛し、守り、幸せへと導いてくださると信じることができます。

まとめ

あなたは、神さまのお気に入りです。その証拠はイエスさまの十字架です。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ8:32)

ですから、何があっても大丈夫。ダビデのように、問題のまっただ中にあっても、ゆとりを感じ、平安な眠りを得ることができます。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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