権威ある教え

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マルコによる福音書1章21〜22節

(2012.11.25)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまのカペナウムでの活動です。人々は、イエスさまの権威に満ちた教えに驚きました。イエスさまの権威と私たちの関係について学びましょう。

1.律法学者の教え

モーセの律法への回帰運動

「律法学者たちのようにではなく」と書かれています。当時の律法学者たちがどのようなことを教え、またどのような教え方をしていたのかということを知るために、イスラエルの歴史、特に旧約聖書と新約聖書の間の、沈黙の400年間(中間時代と言います)の歴史をひもといてみましょう。

神さまがモーセを通してイスラエルに与えた律法の中には、613の命令があると言われています。ところが、旧約聖書を読むと分かるとおり、ユダヤ人はこれらの律法を誠実に守ろうとしませんでした。

その結果、イスラエルは南北に分裂し、北王国はアッシリアに滅ぼされ、南王国はバビロンに滅ぼされてしまいます。

神さまのあわれみによって、バビロンから約束の地に戻ってきたユダヤ人は、律法をないがしろにしてきたことを反省して、エズラを中心として律法に戻ろうという運動を始めました。そして、そのために熱心に律法を研究し、何が勧められており、何が禁じられているのかということを詳しく学ぼうとしたのが、 律法学者です。

細則の追加

ところが、後の時代になると、次のように考える律法学者たちが出てきます。「モーセの律法そのものに違反すると、バビロン捕囚のような悲惨な刑罰が下る。だから、モーセの律法の回りに、垣根のように様々な細則を作って、これを守るようにユダヤ人を指導したらどうか。そうすれば、うっかり細則を破ったとしても、律法それ自体を破ったわけではないから安全だ」。

たとえば、土曜日(正確には、金曜日の日没から土曜日の日没まで)は安息日として聖なる日とし、この日は仕事をしないで休むようにと律法で定められています。安息日に休むのは、神さまが6日間かけて世界を創造なさり、7日目に休まれたということを記念し、創造主である神さまをほめたたえるためです。そして、エジプトで奴隷としてこき使われていたユダヤ人を、神さまが救い出して休みを与えてくださったことの記念として、感謝をささげるためです。

そして、休むための具体的な規定として、収穫や種まきなどの農作業の他に、火をおこすこと(出エジプト35:3)、薪を集めること(民数記15:32-36)、食事の用意をすること(出エジプト16:23-30)などが禁じられています。

律法学者たちは、ここに次々と新たな禁止事項を付け加えていきます。ユダヤ人が間違っても安息日に「仕事」をしないためです。その結果、安息日に禁止されていた「仕事」のリストは39にも上り、その細則にさらに細則がくっついて、最終的には安息日規定だけで1521もの細則のリストが作られました。

それらの細則によれば、安息日には、ひもを結んだりほどいたり、頭を洗ったり、髪の毛を編んだり、動物に乗ったり、紙を破ったり、子どもを運んだり、衣服のしわを伸ばしたり、牛乳1杯より重い以荷物を運んだり、頭の中で数を数えたりしてもダメでした。労働と見なされたからです。

また、草原を歩くことも禁じられました。なぜなら、万が一そこに麦などが生えていて、蹴飛ばして茎を切ってしまうと刈り取りに当たるし、踏んで籾殻と実が分離すると脱穀したことになるからです。そして、歩いていいのは、2000キュビト(約1キロ)までと定められていました。

大量のミシュナと律法学者

このように、モーセの律法の613の規定それぞれに、何個も、何十個も、場合によっては何百個も細かい規定が作られました。これらの細則は、紀元3世紀までにミシュナという形で文書化されます(現在のユダヤ教の教典であるタルムードは、ミシュナとその解説文を合わせたものです)。

イエスさまの時代には、ミシュナはまだ文書にはされておらず、口から口に伝えられていました。この口伝のミシュナを大切にしたのがパリサイ派の人々であり、膨大な数のミシュナを憶えて、人々に教えたのが、福音書に登場する律法学者たちでした。

2.口伝律法

主従の逆転

さて、元々はイスラエルの人々にモーセの律法を忠実に守らせるために、細かい規定であるミシュナが生まれました。ですから、最初はあくまでもモーセの律法が主であり、ミシュナは従だったのです。

ところが、時代が下るにつれ、ミシュナもまたモーセの律法と同じ重みを持つようになりました。神さまは文字に書かれたモーセの律法の他に、モーセやヨシュアや士師たちやそれ以降に現れる預言者たちを通して、口伝の律法(口から口に伝えられる律法)もイスラエルに与え、それがミシュナとして律法学者たちに伝えられてきたんだと。もちろん、聖書はそんなことを教えていません。

さらには、口伝律法であるミシュナの方が、モーセの律法そのものよりも重んじられるようになってしまいました。イエスさまの時代は、そういう時代でした。

この口伝律法、ミシュナのことを、新改訳聖書は「言い伝え」と訳しています(マタイ5:2-6、マルコ7:3-13)。イエスさまは、ユダヤ人の一人として、モーセの律法は完璧に行なわれました。誰もモーセの律法に違反したと、イエスさまを訴えることはできませんでした。しかし、口伝律法についてはまったく認めていませんでした。むしろ、わざと口伝律法に違反するような行為をすることもありました。そして、口伝律法を重んじ、かえってモーセの律法をないがしろにしているパリサイ派の人々と、激しい論争を繰り広げています。

律法の正しい解釈

口伝律法が生まれたのは、律法学者たちがモーセの律法の精神を理解せず、表面的に形だけ守ろうとしたからです。

マタイ7:28-29にも「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」と書かれています。

ここは、いわゆる山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれるイエスさまの教えが記録されている箇所です(マタイ5〜7章)。この箇所で、イエスさまは当時のユダヤ人に律法の本当の意味を教えようとしておられます。

「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」「『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います」というふうに。

神さまの心、神さまの意図を見失うと、聖書の様々な命令は、私たちを縛り付けるかせになってしまいます。

我々は律法学者を笑えるだろうか

私たちクリスチャンも、いつの間にか、聖書が教えていないような様々な掟に縛られて、楽しんだり喜んだりすることを極端に禁じるような生き方をしていないでしょうか。

私たち異邦人クリスチャンは、もともとモーセの律法にさえ縛られていないのに、聖書に書かれている様々な命令や禁止事項を間違って適用して、自由を失ってはいないでしょうか。

以前、別の教会で求道しておられる方から、メールでこのような相談を受けました。この方はサービス業についておられて、日曜日の朝はどうしても仕事で礼拝式に出席できません。それで、日曜日の夜の伝道会か、水曜日の夜の祈祷会を礼拝の代わりにしていいかどうかを牧師に確認したそうです。すると、それらの集会は礼拝じゃないから、仕事を辞めて、日曜朝の礼拝を守りなさいという答えでした。

理由は、「安息日を守るのが神を信じる者のつとめだから」。

でも、安息日とは昔も今も金曜日の日没から土曜日の日没までのことで、「イエスさまが復活したのが日曜日だから、安息日は日曜日に変更した」などとは、聖書のどこにも書いていません。そもそも、ユダヤの安息日は休む日であって、神殿に集まって礼拝する日ではありませんし。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と、ヘブル10:25で勧められています。ですから、クリスチャンが集まって神さまを礼拝し、互いに励まし合うことは正しいことです。それは、神さまが私たちとの交わりを求めておられ、神さまの大切な子どもである私たちがこの難しい時代にあって、信仰を守り通し、成長し続けていくことを望んでおられるからです。

が、いつ集まるかについては、イエスさまも使徒たちも命じていません。地域教会ごとに決めることができるということです。定期的に集まることができるなら、日曜日でもいいし、それ以外の日でもかまいません。開始時間も朝に限ったことではありません。

アルゼンチンには、火曜日の数時間を会堂掃除に宛てる以外は、24時間毎日礼拝式を行なっている教会があると聞いたことがあります。礼拝式に参加したいのにできない人がいるのなら、教会は、日曜日の朝以外にも公の礼拝式を行なう努力をすべきではないでしょうか。

結局その求道者の方は、日曜日以外の日にも礼拝式を行なっている教会に移って、そこで洗礼を受けられました。

私たちも、聖書の命令の形ではなく、その命令に込められた、私たちに対する神さまの愛を見失うと、パリサイ人の律法学者たちのように、罠にはまってがんじがらめになってしまいます。

3.イエスの教え

律法学者の教え方

このような背景の中で、聖書について教えるときの律法学者の教えというのは、口伝律法を作り上げてきた過去の学者たちの意見を引用して、「○○先生はこのように教えている。また、△△先生はこのような行為も避けるべきだと教えている」というようなものでした。

ところが、イエスさまの教えはそれとはまったく違っていました。山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる、マタイ5〜7章の説教を読んでみてください。

「この私が語る。このような生き方をしなさい」と、イエスさまは人々に命じました。それは、モーセの律法の中で神さまご自身が語っておられるのと同じような教え方でした。しかも、「わたしの言葉を聞いて、それにあなたがどのように応答するかによって、あなたの永遠の運命が決まる」とさえおっしゃっています。

これが、律法学者とは違う、権威ある教え方です。

決断を迫るイエスの権威

権威に満ちたイエスさまの言葉を聞いた人々は、決断を迫られました。このような語り方をするこの人は、まさに人となられた神であるキリスト(救い主、メシヤ)なのか、それとも神を冒涜する大悪人なのか。

そして、この方をキリストと信じて、この方に従って生きるのか、それともキリストであることを拒否して、従わないという道を選ぶのか。

私たちも、一瞬一瞬決断を迫られています。イエスさまのみこころに従うように、特に心に迫られていることがありませんか? 良い決断ができますように。

愛に裏打ちされた権威

さて、ご自分のことをキリストであると主張なさったイエスさまは、ご自分の権威についてこんな事もおっしゃっています。

「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」(ヨハネ10:18)

イエスさまはこの後十字架で殺されます。しかし、それは嫌々ながら無理矢理殺されたのではなく、ご自分で命をお捨てになったということです。そこには明確な目的があります。私たちの罪の赦し、私たちの救いです。

イエスさまの権威は、恐ろしい独裁者の権威と違い、私たちを縛り付け、私たちを苦しめるためではありません。私たちを救い、私たちを幸せにするためのものです。

聖書や祈りを通して与えられた神さまの命令が、表面的にはきついものだったけれど、実は自分に対するあふれる愛情に基づく、私のための命令だったと分かった、そんな経験が最近ありませんか?

まとめ

イエスさまは、権威に満ちておられます。そして、愛に基づいて私たちにお命じになります。イエスさまの愛を信じて、その権威に服しましょう。

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