重い皮膚病のいやし

トップページ聖書のメッセージ集2012年 > このページ


マルコによる福音書1章40〜45節

(2012.12.2)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまがツァラアトをいやされた記事です。

1.力を信じよう

ツァラアトについての律法の規定

レビ記13-14章には、ツァラアトについての規定が載っています。ツァラアトかどうかをどういう基準で判定するのか、ツァラアトにかかった人や物をどう取り扱うか、ツァラアトがいやされたらどのような手順で社会復帰させるかということが詳しく書かれています。

ツァラアトかどうかを診断するのは、医者ではなく祭司の仕事でした。祭司は律法に則って患者の皮膚の様子を調べ、ツァラアトであると判断したら、その人が宗教的に「汚れている」と宣言します。

ツァラアトによって汚れていると宣言された人は、礼拝行事に参加できず、町の外に住まなければなりませんでした。それは、ツァラアトの患者に触った人は、その日一日汚れていると宣言されることになったからです。

ですから、イエスさまがこの患者に手を伸ばし、その体に触っていやされたというのは、当時のユダヤ人の感覚から言えば、考えられないような行為でした。

また、律法には、いやされた場合の規定も書かれています。診断するのはやはり祭司です。祭司は定められた手順で患部を調べて、確かにいやされたと判定したら、定められたきよめの儀式を行なって、「この人はきよい」と宣言します。すると、その人は元の生活に戻ることができました。

イエスさまがこのいやされた人に向かって、「祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい」とおっしゃっているのは、このような律法の規定があるためです。

メシヤのしるし

ユダヤ教の指導者たちが残した記録を見ると、イエスさまの時代には、いったんツァラアトにかかってしまうともう治ることはなく、ただメシヤ(救い主、キリスト)だけがそれをいやすことができると教えられていたようです。

ユダヤ人は、旧約聖書が約束しているとおり、人となって来られる神であるメシヤの到来を待ち望んでいました。メシヤが来ると、イスラエルの敵を打ち破って理想的な王国(千年王国のこと。福音書では神の国とか天の御国とか呼ばれています)を完成させ、ユダヤ人は民族的に救われます。

そのメシヤだけが行なうことができると信じられていたいやしは、ツァラアトのいやしの他には、生まれつき目が見えない人のいやし(ヨハネ9章)と、しゃべれなくする悪霊の追い出し(マタイ9:32-33など)があります。

このツァラアト患者が、イエスさまに向かって、「あなたは私をいやすことができます」と言ったのは、彼がイエスさまをメシヤだと信じたということを表しています。彼は、「イエスさまはメシヤだから、誰も直すことができなかったツァラアトでさえも、いやす力がある」と信じたのです。

ホントに信じている?

私たち福音派のクリスチャンは、「神さまはどんな奇跡も行なう事ができる力強いお方である」ということを信じています。

しかし、本音のところで、どれだけ神さまの力を信じているかというと、もしかしたらどこかで神さまの力の大きさを値引いているかも知れません。面と向かって「信じてないの?」と問われれば、「いや、神さまは何でもできると信じています」と言うのですが、本音のところで期待しているかと、正直に自分の心を探ってみると……。

私たちの小さな頭では、神さまの栄光のすべてを理解することはできません。ですから、「あ、神さまのすごさをいつの間にか値引いていた。神さまの力をなめていた」と示されたら、そのたびごとに悔い改めて、「神さま、信じます」と宣言しましょう。

それが私たちの信仰を大きく成長させていきます。そして、私たちの本音の信仰の大きさに従って、私たちの生活の中に祝福が満ちあふれていきます。

2.愛を信じよう

律法を超えた理解と差別

さて、律法がツァラアトにかかった人を町の外に住まわせたのは、差別のためではなく、おそらく感染の拡大を防ぐという衛生的な意味があったからでしょう。「汚れている」という宣言も、宗教的に通常の状態から分離されるという意味で、その人自身が人格的に極めて下劣であるとか、他の人と比べてことさら罪深いという意味ではありません。

ところが、イスラエルの歴史の中で、ツァラアトにかかるということは神さまの罰であって、ツァラアト患者は神さまに呪われているのだという考えられるようになっていきました。そして、患者に対して激しい差別的な扱いがなされるようになったのです。

たとえば、家族の縁は切られます。町を歩けば石が飛んできます。お前は神に呪われているのだという、心ない声が飛んできます。本来温かいあわれみやケアを必要としているツァラアト患者たちは、かえってひどい扱いを受けたのです。

ですから、ツァラアトにかかってしまった人は、肉体的な苦しみだけでなく、精神的・社会的・霊的な痛みまで抱えてしまうことになったのでした。

遠慮がちなお願い

「お心一つで、私はきよくしていただけます」と、今回登場した患者はイエスさまに言いました。彼は、イエスさまがツァラアトをいやす力があると信じていました。しかし、他のいやしの記事に登場している患者たちと比べると、どことなく遠慮がちです。

おそらく、人々からさんざん「お前は神に呪われているのだ」と言われ続け、ひどい目に遭わされ続けて、たとえイエスさまにツァラアトをいやす力があったとしても、呪われた自分なんかのためにその力を使ってくださるかどうか、今ひとつ確信がなかったのかも知れませんね。それだけ、彼が傷ついてきたということです。

イエスさまがこの患者に手を伸ばし、その体に触っていやされたというのは、当時のユダヤ人の感覚から言えば、考えられないような行為だったと申し上げました。イエスさまがそうなさったのは、明確な意図を持ってです。

イエスさまは、何十キロも離れたところにいる病人を、言葉一つでいやすことができました。ですから、今回のツァラアトの病人にも、触らずにいやすことができたはずです。しかし、わざわざ近づいて触られたのは、彼の体だけでなく、心も魂もいやそうとなさったからです。

「これがわたしの心だ」とイエスさまはおっしゃいました。「わたしはあなたのことを、神さまに呪われたダメな奴だとは思わない。わたしも神さまも、あなたのことを大切に思っている。わたしに力があるということだけでなく、わたしがあなたを愛していて、喜んであなたを幸せにしたいと思っているということも信じておくれ」。これがイエスさまの心です。

愛されていると信じていますか?

イエスさまの力だけでなく、イエスさまの愛についても考えてみましょう。神さまは、この私のことを愛してくださっていると、本音のところでうなずけますか?

これも、面と向かって、「神はあなたを愛していると信じているか?」と問われれば、聖書を信じる私たちは「はい」と答えるでしょう。しかし、本音のところで、「神さまは、私のことを心の底から愛しておられて、私が幸せになることを本気で願い、そのために何でもしてくださる用意がある」と信じているかというと……。

これまた、もしもイエスさまの愛をなめていたなと思い当たったら、悔い改めて「信じます」と宣言しましょう。

イエスさまの愛の深さを信じられるようになればなるほど、私たちはこの地上で安心かつ大胆に生きていくことができます。

まとめ

イエスさまの力と愛を、心の底から信じられるように祈り、また先取って「信じます」と宣言しましょう。

Copyright(c) 2012 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.