仕える者となりなさい

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マルコによる福音書1章40〜45節

(2012.12.16)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

イエスさまはモーセの律法を終わらせました(ローマ10:4)。ですから、今の時代の私たちは、モーセの律法を守る義務はありません。そして、イエスさまや使徒たちを通して与えられているキリストの律法(第1コリント9:21)を守ろうとしています。

今日の箇所で、イエスさまは救われた私たちに対して、どのような指針を与えてくださっているでしょうか。

1.誰が一番偉いか

弟子たちの願い

弟子たちは、イエスさまこそ約束のメシヤ(キリスト、救い主)だと信じていました。聖書によれば、メシヤは神の敵をやっつけて王国(神の国、天の御国)を打ち立てます。その時が間近に迫っていると弟子たちは期待しました。

そして、当然のことながら、王であるメシヤを補佐する大臣たちは、自分たち十二弟子の中から選ばれるでしょう。では、総理大臣に選ばれるのは誰なのか、またその次に偉い地位に就くのは誰なのか、支配構造のヒエラルキーの中で、いったい自分はどのあたりに位置することができるのだろうか……それを論じていたというのがこの箇所です。

彼らは権力を求めていました。権力とは、人を動かす力です。権力者がやれと言えば、相手はそれを望んでいてもいなくてもやらなければなりません。そういう人を動かす力を、弟子たちは強く求めていました。

人には支配欲がある

弟子たちだけではなく、私たち人間には皆、他人やこの世の中を自分の思い通りに動かしたいという支配欲、コントロール欲求があります。それは、そうすることが自分の幸せだと思っているからです。

そして、支配欲、コントロール欲求を持つことそれ自体は、必ずしも不健全だというわけではありません。私たちは、自分たちの幸せのために、お互いに他の人を動かし、動かされながら社会生活を営んでいます。

たとえば休みの日に退屈だとします。そして、友だちを誘って映画とショッピングに出かけたら楽しいだろうと考えます。友だちに電話をかけて、一緒に出かけないかと誘います。これは、友だちを自分の思い通りに動かしているわけですが、決して不健全な行為ではありませんね。自分もハッピーだし、友だちもきっとハッピーです。

また買い物をするというのは、お店の側からすれば、お客に商品を買わせるという行動をするようにさせることですし、お客の側からすれば、自分の欲しい商品をお店に売らせるという行為をさせることです。しかし、これも問題ありません。お客もお店も、どちらもハッピーですから。

問題のある支配

問題なのは、相手の動かし方です。今申し上げたような例は、動かす方も動かされる方も、どちらもハッピーです。しかし、弟子たちが願っていたような権力、人を動かす力というのは、自分の幸せのことは考えているけれど、相手の幸せのことは度外視したようなものです。

相手の幸せを度外視した、こちらだけ優先の動かし方には、たとえばどんなものがあるでしょうか。
恐怖心を使う
まずは、恐怖心を使った方法。怖い顔や怒鳴り声や暴力などを使って、従わないと罰を与えるぞという脅しを使いながら命令します。相手は、罰が怖いので、嫌々ながらも従うでしょう。
羞恥心を使う
それから羞恥心を使う方法があります。「中学生にもなってこんなことができないのか」「主婦のくせに料理も満足にできないで」「隣の旦那さんは、たくさんボーナスもらえたのに、あなたは……」などと嫌みを言って、相手に恥ずかしい思いをさせ、「なにくそ」とやる気を引き出そうというやり方ですね。
罪責感を使う
罪責感を使う方法もあります。涙を流したり、弱々しい姿を見せつけたりして、相手の心に罪責感を引き起こし、それで「しょうがないから、この人の願うとおりにしてやろう」と思わせるという方法です。別に心から喜んでするわけではありません。罪責感を感じたくないから、嫌々ながら行なうのです。相手をこちらの思い通りに動かすという意味では、涙は暴力と同じです。
負い目を使う
そして、負い目を使う方法もあります。頼まれもしないのにあれこれと世話を焼きます。すると、相手は「ここまでしてもらったら悪いなあ」という負い目を抱きます。そして、「しょうがないから、この人の願うとおりにしてやろう」と思うようになるでしょう。これも、心から喜んでするわけではなく、嫌々ながらです。

このように、問題のある動かし方は、人の心に嫌な感情を引き起こすやり方です。こちらはハッピーでも、相手はハッピーではありません。また、こういうやり方では、相手は喜んで行動しません。時には反発して、むしろこちらが嫌がるようなことをするかも知れません。たとえこちらの思うとおりに行動したとしても、嫌々ながらやっていますという態度で行なうので、こちらもハッピーな気持ちになれないかも知れません。

人を思い通りに動かしたいと思うこと自体は不健全ではありませんが、やり方を間違えると、他の人だけでなく、自分自身も幸せになることができません。

では、イエスさまはどんな処方箋をお持ちでしょうか。

2.イエスの答え

仕える者となりなさい

支配者になることを願っている弟子たちに向かって、イエスさまはお答えになりました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」

仕える者とは、しもべ、すなわち奴隷のことです。しもべとして生きる態度について、イエスさまがこんなことを教えておられます(ルカ17:7-10)。

「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい」


このように、しもべは、主人が感謝しようがすまいが関係なく、自分ではなく主人の幸せを第一に考えて行動する責任があります。「みなに仕える者となる」とは、そういう生き方をすることです。

すなわち、こちらの幸せだけを考えて、相手をそのための道具として使うのではなく、他の人の幸せのために自分には何ができるかを考えて行動する、そういう生き方をしなさいということです。

自己主張してもいい

しもべとして仕えていくというのは、必ずしも他人の言いなりになって生きろということではありません。相手の幸せを考えて行動した結果、相手にとっては耳の痛いことを言ったり、嫌なことを行なったりすることもあるでしょう。

また、しもべとして生きるというのは、自分の願いは一切主張してはいけないということでもありません。しもべだって主人に何かを主張することがあります。ただし、その場合には、きちんと理由を説明して、頭を下げてお願いをしますね。脅しではなく、嫌みでもなく、お願いです。これが、しもべとしての自己主張の仕方です。

そして、お願いするというのは、この願いが受け入れられるのは当然だと思っていないということでもあります。やって当然のことをしてもらっても、感謝は生まれません。感謝は、当然ではないことをしてもらえたと思ったときに生まれます。

強制する生き方ではなくお願いする生き方は、実は感謝にあふれた幸せな生き方なのです。

イエスの模範

イエスさまは、ご自分がしもべの生き方の模範を見せてくださいました。イエスさまが神としてのあり方を捨てて、人となってこの地上に来られた(ピリピ2:6)のは、私たち人間がナメクジになる以上の落差であると、C・S・ルイスは語っています。そんなことをなさったのは、私たちを罪ののろいから救いだし、私たちを神さまの子どもとして、祝福された人生を永遠に送ることができるようにするためでした。

しかも、そのために十字架にかかって苦しみ、尊い命を投げ出して死んでくださったのです。

イエスさまは神です。ですから、この世のすべてのものを従わせる権威をお持ちです。それこそ、信じなかったら地獄の業火で滅ぼすぞと脅して、無理矢理人々を従わせることもおできになりました。

しかし、イエスさまがとられた方法は、十字架にかかり、「さあ、私があなたの罪をあがなった。あなたは罪が赦されて、神の子どもになった。それを信じるだけで、この祝福はあなたのものになる」と宣言なさるというものです。

脅して無理矢理信じさせるのではなく、人間に選択権を与え、「どうか信じておくれ」と頭を下げてお願いするという方法でした(第2コリント5:20)。

主であるイエスさまがしもべとして生きてくださったのですから、そしてそのおかげで私たちは救われたのですから、私たちもまた、しもべとして仕える生き方をしていかなければなりません。

3.仕える心を測るはかり

小さい者を受け入れるかどうか

イエスさまは、私たちがどれくらい仕える心を持っておられるかを測るはかりを示されました。その一つ目は「小さい者を受け入れるかどうか」です。

イエスさまは、子どもを呼び寄せ、抱きかかえてこうおっしゃいました。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです」

この当時の人たちは、もちろん子どもを愛して大切に育てました。しかし、同時に子どものことを不完全な人間だと考えていました。あまり労働の役に立たず、面倒ばかりかける、まだまだダメな存在だと考えていたのです。

誰かに対して、「しょうがないなあ、まったく」と否定的な気持ちになるとしたら、特に何か失敗をしてしまった人に対して否定的な気持ちになるということは、それは自分をその人よりも上に見ているということです。

また、誰かに対して怒りを感じるときは、相手が自分の幸せのために何もしてくれないとか、幸せの邪魔をしているとか感じて、不満を抱いているときです。すなわち、どこかで相手を自分の幸せのための道具としてみているということです。

もちろん、相手が自分の幸せにつながるようなことをしてくれたら嬉しいですが、それは当然のことではありません。当然のことをしてもらっても、それは感謝にはつながりませんが、当然ではないことをしてくれるから感謝が生まれます。

私たちは、他人に対してイライラしたり、見下げる思いを抱いたりしたとき、しもべとしての生き方を忘れていたなと気づくことができます。すぐに悔い改めましょう。そして、聖霊さまが、寛容な心を与えてくださるよう祈りましょう。

人の成功を喜べるかどうか

二つ目のはかりは、「人の成功を喜べるかどうか」です。

続くエピソードで、ヨハネがイエスさまにこう言いました。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました」。

ヨハネを含む十二弟子はイエスさまから悪霊を追い出す権威を与えられました。しかし、はっきりと弟子グループに加わっていない人が、イエスさまの名前を使って悪霊を追い出していたので、やめさせたというのです。しかし、イエスさまはやめさせる必要はないと言いました。

実は、今回の話の直前に、弟子たちが悪霊の追い出しに失敗した記事が書かれています。自分たちはうまくいかなかったのに、成功した人がいたわけです。弟子たちは嫉妬を感じ、ちょっと足を引っ張りたくなったのかも知れません。

ある聖者が荒野で隠遁生活を送っていました。下っ端悪魔が彼につきまとって、なんとか性的な罪を犯させようと誘惑しますが、聖者はちっとも惑わされません。そこに先輩悪魔が視察にやってきました。そして、下っ端悪魔に言いました。「君のやり方は露骨すぎる。いいかい、こんなふうにやるんだ」。

そして、聖者の耳元でこうささやきました。「あなたと同じ時に神学校を卒業したあの兄弟ね、今度アレキサンドリヤの教区全体を統括する司教に選ばれたよ」。すると、その聖者の顔に、みるみる嫉妬の表情が浮かんできました。先輩悪魔はにやりと笑って、「これに限る」。

自分がしもべとして生きているかどうかを測る第一のはかりは、すでに見たように、他人の失敗を寛容に受け入れられるかどうかです。そして、第二のはかりは、他の人の成功を心から喜べるかどうかです。

もしも嫉妬を自覚したら、これも直ちに悔い改めて、喜ぶ者と共に喜ぶ心が与えられるように、聖霊さまに求めましょう。

難しいけれど

今回の箇所で、イエスさまはしもべとして生きることの大切さを教えてくださいました。ところが、すぐ次の10章では、ヤコブとヨハネの兄弟が、イエスさまがメシヤの王国の位に就いた暁には、自分たちを左大臣、右大臣にしてくださいと願っています。すると、他の弟子たちはヤコブとヨハネの行為を怒りました。それは、彼らも同じことを願っていたからに他なりません。

私たちも十二弟子と同じです。しもべとして生きなさいというイエスさまの教えを実践するのは難しいですね。

しかし、私たちには、イエスさまの十字架という赦しの道が与えられています。そして、聖霊さまという助け主が内側に住んでいてくださっています。しもべとして生きていなかったなあ、傲慢にも人を見下げたり、人を無理矢理思い通りに動かそうとしたりしていたなあ、人が私の願い通りに行動するのは当然だと思い込んでいて、だからイライラしていたんだなあと気づかされたなら、そのたびごとに悔い改め、聖霊さまの助けを求めましょう。

まとめ

私たちには、しもべとして仕える生き方が求められています。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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