系図に咲く5輪の花

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マタイによる福音書1章1〜16節

(2012.12.23)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

新約聖書の最初はマタイの福音書。初めて読む人は、しょっぱなから面食らいます。ずらずらとカタカナばかりの名前が並んでいるからです。これは、イエス・キリストの系図です。

クリスマスは、イエスさまの誕生をお祝いする日です。世界中がクリスマスをお祝いします。しかし、何がそんなにめでたいのでしょうね。それは、イエスさまが私たち一人一人にとって特別なお方だからです。

今日は、この系図から、イエスさまとはどういうお方なのか、どうして生まれたのか、そして、私たちのために何をしてくださったのかということをお話しさせていただきます。

1.不思議な系図

アブラハムの子孫、ダビデの子孫

キリストというのは、イエスさまの姓ではなくて、ギリシャ語で救い主という意味です。ヘブル語ではメシヤと言います。イエス・キリストという呼び名は、イエスさまは、私たち人類を救い、本当の幸せへと導いてくださる救い主ですよ、という意味です。

この系図の最初に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と書かれていますね。アブラハムというのはユダヤ人の先祖です。そして、ダビデというのは、イスラエルで最も尊敬され、愛されている王さまです。

旧約聖書には、人類を救う救い主は、アブラハムの子孫、またダビデの子孫として生まれるという預言がありました。ですからこの系図は、イエスという人物が、ただの立派な人間というだけのことではなく、昔から登場が約束されていた救い主だということを表しています。

女性が5人

しかし、今回はあまりその点は深く学びません。今回注目したいのは、この系図の中に女性が5人登場しているというところです。

タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節。バテ・シェバという名前です)、そしてイエスさまを産んだマリヤ(16節)の5人です。

古代中東の系図に女性が登場するのは、非常に珍しいことです。イエスさまがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であるということを示すためだけなら、わざわざ女性の名前を入れる必要はありません。

いわくつきの女性

しかも、この5人の女性たち、必ずしも「ぜひ系図に載せたい」と思うような人たちではありません。これについては後で詳しくお話ししますが、むしろいわくつきの女性たちです。

系図に載っている男性たちの中にも、道徳的に、あるいは宗教的に問題のある人たちがたくさん載っています。しかし、これはイエスさまがアブラハムやダビデの子孫であるということを示すためですから、ある意味仕方のないことです。

しかし、それだけの目的なら、わざわざこの5人の女性たちを系図に載せる必要はありません。ですから、マタイは明確な目的を持って、この5人の名前を系図に載せたと考えられます。

2.いわくつきの5人

この系図に出てきた5人の女性は、女性であるというだけでなく、いわくつきだったと申し上げました。 詳しく見ていきましょう。

タマル

タマル(3節)は、「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と書かれていますから、ユダの妻のように思えます。しかし、実はユダの嫁、すなわち息子の妻です。タマルは、最初ユダの長男の元に嫁ぎますが、子どもができる前に、夫が神のさばきによって死んでしまいます。

こういう場合、古代の中東では、弟が未亡人となった義姉を妻に迎え、子をなして、兄の家がつぶれないようにするという習慣がありました。ユダの時代のずっと後に与えられたモーセの律法にもそういう命令があります(申命記25:5-10)。そこで、ユダはタマルを次男の元に嫁がせます。ところが、この次男も神さまに逆らって死んでしまいました。

こうなると次は三男の番ですが、三男は未成年だったので、彼が成人するまで実家に帰って待っているようにと、ユダはタマルに言いました。そして、三男が成人しましたが、彼も死んでしまうことを恐れたユダは、いつまでたってもタマルを呼び戻そうとしません。

そこでタマルは、娼婦の格好をして、義父であるユダを誘惑します。ユダはまんまと引っかかり、そして双子を妊娠しました。それがパレスとザラです(創世記38章)。

マタイは、キリストの家系の中にこういう恥ずべき事を行なった人たちがいたということを、わざわざ読者が思い出すような書き方をしているわけですね。

ラハブ

ラハブ(5節)は、ヨシュア記の時代の人です。神さまはイスラエルにカナンの地を占領するように命じました。そこは、イスラエル人(ユダヤ人)の先祖アブラハムに与えると約束した土地だからです。

カナンの地には、すでに別の民族が住んでいました。彼らを総称してカナン人と言います。神さまは、カナン人が偶像礼拝とひどい不道徳の罪を犯し続け、400年間の猶予期間を与えても悔い改めなかったため、ヨシュア率いるイスラエルに対して彼らを攻め滅ぼすように命じます。

その最初のターゲットになったのがエリコの町でした。ヨシュアは、攻撃に先立って二人の偵察兵をエリコに派遣しました。この二人が旅人を装って泊めてもらったのが、ラハブの家です。

ところが、偵察兵がラハブの家に入ったことが、エリコ側にばれてしまいました。ラハブの家に兵士がやってきますが、ラハブはイスラエルの噂を聞いていて、イスラエルの神こそまことの神であるということを信じていました。そこで、町の兵士に、彼らはもういなくなってしまったと言って、偵察兵をかくまってくれました。そのためヨシュアは、エリコを攻撃したとき、ラハブとその家族の命は助け、イスラエルの民の中に住むすることを許しました。

ラハブ個人は信仰的な女性ですが、実は娼婦でした。そして、偶像礼拝を行なって神さまの呪いを招いたカナン人です(ちなみに、先に紹介したタマルもカナン人だと思われます)。そんな女性の血が救い主の家系に入ったという、どちらかと言うと隠しておきたいような事実も、マタイはわざわざ記しています。

ルツ

ルツ(5節)も、ユダヤ人ではなく、モアブ人です。モアブは、アブラハムの甥のロトから出た民族で、いわばイスラエルの親戚ですが、たびたびイスラエルに侵略してきましたし、彼らの偶像礼拝がイスラエルにひどい影響を与えもしました。

ルツ記を読むと、ルツが非常に信仰的な女性だということがわかりますが、マタイたちの時代のユダヤ人は、ことのほか異邦人が大嫌いでしたから、救い主の家系に異邦人の血が入っているというのは、やっぱり隠しておきたいような事実です。これもマタイはわざわざ書いています。

バテ・シェバ

4人目の女性は、バテ・シェバです。ここでは、ウリヤの妻と書かれています(6節)。彼女の夫ウリヤは、ダビデ王に仕える忠実な兵士でした。ウリヤはユダヤ人ではなくヘテ人でしたから、妻だったバテ・シェバもヘテ人、すなわち異邦人だったかもしれません。

ウリヤが戦いで家を空けていたとき、ダビデはバテ・シェバが美しいのを見て、王宮に呼びつけ、手込めにしてしまいます。そして彼女は妊娠してしまいました。

事の露見を恐れたダビデは、ウリヤを最前線に送り出すと、彼だけを残して味方を撤退させ、ウリヤを戦死させてしまいます。そして、未亡人となったバテ・シェバを王妃として迎えました。これで、ダビデの姦淫の罪は、誰にもばれないはずでした。

しかし、神さまに隠しごとはできません。ダビデは預言者ナタンによって罪を糾弾され、生まれてきた子どもも死んでしまいました。その後、再びバテ・シェバとの間に生まれたのがソロモンです。

ダビデは最も人気のある王さまですが、姦淫と殺人という恐ろしい罪を犯しました。マタイは、わざわざ読者がダビデの罪を思い出すような書き方をしています。

マリヤ

そしてイエスさまを産んだのがマリヤです(16節)。これまでの系図の形式からすると、「ヨセフに、マリヤによってイエスが生まれた」となるはずですが、マタイはいったんヨセフの話をぷっつりと終わらせてから、「キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」と書いています。不思議ですね。

この書き方には意味があります。イエスさまは、ヨセフとは血がつながっていないのです。ヨセフは、婚約者であるマリヤが別の男性と通じて妊娠したと思い(自分には覚えがないわけですから、当然ですね)、さりとて姦淫の罪で訴えて死刑にさせるのも忍びなくて、密かに離縁するしかないかと思い悩みました。

実は、その後を読むと分かりますが、マリヤは、聖霊なる神さまのお働きによって、すなわち奇跡によってイエスさまを身ごもりました。ヨセフは天使からそのことを教えられ、信じて、マリヤを妻として迎え入れました。

ただ、そんなことをわざわざ系図に書くと、それを信じないで、イエスは不倫の結果生まれた子であると誤解する人も出るでしょう。

3.罪の問題を解決してくださる方

罪の問題

この5人の女性だけがいわくつきなのではありません。この系図に出てくる男性たち、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、ユダも、ダビデも、ソロモンも、みんないわくつきの人たちです。決して、聖人君子ではありません。聖書の用語を使えば、「罪人」たちです。そして、私も、あなたも。

聖書は、人間の罪をごまかさないで、真っ正面から取り上げます。私たち人間の社会には、あるいは個人の生活の中には、様々な問題や矛盾や苦しみ、悩みがありますね。それらの根本原因は罪であると、聖書は教えています。

聖書が教える罪とは、法律や社会のルールを破るということではなく、人間が神さまを神さまとして敬ったり従ったりしないで、自分勝手に生きていることです。

自分勝手に生きる結果、人や自分を粗末にするような生き方をしたり、社会のルールを破ったり、欲望のままに自然を破壊したりするのです。

また、罪の結果、私たちは神さまと切り離されてしまいました。そして、神さまが本来私たちに与えようとしてくださっている、充実した、喜びに満ちた人生を味わうことができなくなっています。これを聖書は「死」と呼びます。神さまに対して罪を犯した私たちは、肉体は生きていても、魂は死んでいるのです。

罪の赦しと解決

しかし、イエスさまは、人間の根本問題である罪をさばき、人間を滅ぼすために来られたのではありません。罪を赦し、取り除くために来られました。そのことを、いわくつきの人々で満ちあふれている家系図が、私たちに教えてくれています。

イエスさまは、人としてこの地上に来られ、私たちの罪の罰を身代わりとして受けてくださり、十字架で死んでくださいました。それ故に、私たちの罪は赦されました。それどころか、私たちは神さまの子どもとなり、神さまに愛され、神さまに教育・訓練していただき、そして圧倒的に祝福されます。

信じることがかぎ

私たちの罪が赦され、神さまの子どもにしていただくのに必要なのは、信じることです。イエスさまが私たちのために十字架にかかって死んでくださったこと、そして葬られたけれど、3日目に復活して今も生きておられるのだということを信じることです(第1コリント15:1-8)。

ラハブやルツは、偶像礼拝を行なう民族の出身でしたが、聖書の神さまこそまことの神であると信じました。そして、神の民に加えられました。

ダビデは恐ろしい罪を犯しましたが、罪を指摘されたとき、素直にそれを認めて悔い改めました。ですから、神さまは彼を赦してくださいました。

あなたはどうでしょうか。あなたは、イエスさまがあなたの罪を赦してくださるお方だと信じていますか? もしそうなら、あなたは神さまの愛と祝福の中にあります。たとえ問題のまっただ中にいらっしゃるとしても、それは神さまがあなたのことを呪っているからではなく、あなたを訓練して、もっと素晴しい人生を与えようとしていらっしゃるのです。

また、これまでははっきりと「信じています」と神さまに告白してこなかった方。今日、それを信じますか? それとも今日も「別に、間に合ってます」と拒否なさいますか?

まとめ

イエスさまは、罪人である私たちを愛し、救うために来られました。これがクリスマスのメッセージです。

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