福音を宣べ伝えなさい

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マルコによる福音書16章15〜20節

(2012.12.30)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今年最後の礼拝式です。この一年、私たちとイエスさまとの関係はどうだったでしょうか。もしかしたら、私たちの側では、イエスさまの喜ばれない思いを持ったり、行ないをしたりしたことがあったかも知れません。しかし、イエスさまの側では、決して私たちを裏切ったり、見捨てたりなさいません。

私たちは、イエスさまの愛と誠実さとを心に思い巡らせて、あらためてイエスさまの喜ばれる生き方をしたいと、ここに再決断しましょう。

今回取り上げたのは、大宣教命令と呼ばれている箇所です。この命令はイエスさまが当時の弟子たちに語られたものというだけではなく、今ここにいる私たち一人一人に語られたものでもあります。イエスさまに従っていこうと決意した私たちは、この命令にも従わなければなりません。

1.大宣教命令

福音を宣べ伝えなさい

マルコが記しているイエスさまの大宣教命令は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」です。

福音(良いニュース)とは、どんなニュースでしょうか。最近何度も確認していますが、大事な箇所ですからもう一度確認しましょう。第1コリント15:3-4です。

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」。

まとめると、以下の3つの内容です。
  • イエスは私たちの罪を赦すために死なれた
  • 葬られた
  • 3日目に復活した
この福音を信じるなら、私たちは救われます。すなわち、私たちがどんなに問題だらけでも、どんなに弱くても、どんなに醜くても、神さまとの関係が回復し、神さまに愛され、守られ、導かれ、たとえ死んでも復活し、永遠に続く祝福が与えられます。

この3つを信じる以外の条件はありません。聖書を何回通読するとか、一日何時間祈るとか、教会に何日通い続けるとか、献金をいくらささげるとか、何人に伝道して教会に連れてくるとか、どういう修行をするとか、何日断食するとか、一切条件はありません。

イエスさまが教えてくださった神さまの愛は、「恵み」として与えられるものです。恵みについての、フィリップ・ヤンシーの定義を思い出してください。「恵みとは、神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もないということであり、神さまにもっと愛されなくなるために私たちにできることも何もないということである」。

私たちは、自分が神さまに愛されるための条件、あるいは神さまに愛されなくなるための条件を、勝手に付け加えていませんでしたか?

あるいは人に伝道するときに、「救われるためには、これをしなければいけない」「これをやめなければならない」などと、勝手にハードルを高くしていませんでしたか?

私たちが宣べ伝えるように命ぜられているのは、恵みの福音です。倫理・道徳ではありません。禁止令ではありません。恵みの福音を伝えましょう。その方法については、後ほどお話しします。

全世界に出て行き

どこで福音を語るかというと、全世界です。この日本だけでなく、全世界。

私たちの教会は、残念ながらまだ外国に宣教師を送るだけの力が育っていません。いずれはそのような力を養いたいと願っていますが、今は献金と祈りという形で、海外宣教をしてくださっている働き人や団体を支援していきます。

そして、全世界というのは、別に外国のことだけを表しているわけではありません。要するに、私たちがいるすべての場所、私たちが接するすべての機会ということです。

家庭でも、職場でも、旅行先でも、チャンスがあればいつでも福音を伝えることができるように、準備しておく必要があります。

私がそのことを痛感させられたのは、クリスチャンになって2ヶ月後の夏に帰省したときです。帰りの飛行機の中で、私は聖書を読んでいました。そして、いつの間にか居眠りをしてしまいました。着陸直前になって目を覚ますと、隣の席の人が話しかけてきました。その人は私が聖書を読んでいる(正確には、開いていただけですが)のを見て、自分も聖書に興味があると言いました。

ところが、私は突然のことにあたふたしてしまい、福音についてお話しすることができませんでした。かろうじて別れ際に、教会でもらった「四つの福音」という小冊子を手渡しただけでした。

話しかけられてから到着まで、まだ少しは余裕があったので、その場で四つの福音を使って伝道することも可能でした。あとで、本当に惜しいことをしたと、自分のふがいなさにがっかりさせられたことです。

本当に、いつチャンスが飛び込んでくるか分かりません。いつでも対応できるように、心備えをしておかなければなりませんね。

すべての造られた者に

伝道の対象は、すべての造られた者、すなわちあらゆる人です。

私たちの側では、この人は救われるだろう、この人は無理っぽいなと、いろいろ勝手に評価するかも知れません。しかし、神さまはすべての人が救われることを望んでおられます。

救いを必要としていない人は一人もいません。そして、神さまの愛から漏れている人も一人もいません。

伝道しても、伝道しても、それでもイエスさまを信じようとしない人は、確かにいます。信仰とか救いとか、そういう話題そのものを受け付けない人は、確かにいます。それでも、私たちの側で、勝手に救いの可能性を決めてはいけません。あきらめないで祈り続け、チャンスがあれば救いについて語りましょう。

次に、大宣教命令をどのように実行するか、その方法を見ていきましょう。

2.方法

宣べ伝える

まずは、「宣べ伝えなさい」と命ぜられていますから、言葉で説明するということです。

飛行機の中での私のように慌てないために、あらかじめ何を伝えるか整理しておくといいですね。ペテロも勧めています。「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」(第1ペテロ3:15)。

もっとも簡単な伝道の方法は、証しです。自分がどうやって救われたのか、そして救われてどうなったかを話すということですね。以下の3つのポイントを自分なりに整理してみてください。
  1. 救われる前のあなたの状態
  2. 救われた後のあなたの状態
  3. どうしてそのように変わったのか
特に3番目のポイントについては、「イエスさまがあなたに何をしてくださったのか」ということについて話すようにします。あなたのことを知ってもらうのが目的ではなく、あなたを救い、変えてくださったイエスさまについて知ってもらい、自分もイエスさまによって変えてもらいたいと思ってもらうことが目的ですから。

救われる前後の変化については、たとえば人間関係が改善したとか、病気がいやされたとか、死に対する恐怖が和らいだとか、生きる目的を見出してむなしさから解放されたとか、何パターンも用意しておくといいです。すると、相手の抱えている問題に合わせた話ができます。

しるしを見せる

イエスさまは、伝道しようとする弟子たちに、しるしが伴うと約束なさいました。悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、毒蛇や毒薬も何のその、病気もいやすことができると。そして、その通りになったとマルコは記しています。

しるしとは、語られた言葉が本当だと分かるような証拠です。

今の時代も、神さまはクリスチャンを通して多くの奇跡を見せてくださっています。そして、そのために救われるのが難しいと思われた人たちが、どんどんクリスチャンになっています。

今年の6月、私たち夫婦はインドネシアの牧師先生たちの話を伺う機会を得ました。インドネシアは、76.5%の人々がイスラム教を信じています。ですから、ものすごく伝道の難しい地域です。ところが、2004年のスマトラ沖の地震と津波によって大打撃を受けた後、インドネシアの各地で、クリスチャンを通して奇跡が行なわれるようになりました。その結果、たくさんのイスラムの人々が、イエスさまを救い主と信じるようになっています。

日本ではそういうことは起こらないと、勝手に決めつけないようにしないといけません。期待して祈りましょう。

そして、しるしとは奇跡のことだけではありません。私たちの変えられた人生そのものが、福音が本物であるというしるしになります。

かつての弟子たちは、誰が一番かといがみ合っていました。しかし、イエスさまの十字架と復活を信じた後、彼らは愛し合うようになりました。生活がきよめられました。祈りが聞かれるようになりました。その結果、多くの人たちが彼らに憧れを抱き、自分たちもああなりたいと思うようになって、信仰を持ちました。「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:47)。

奇跡を期待しましょう。そして、神さまを喜ばせない生き方を捨て去り、神さまのみこころにかなう生き方をすると決意し、その力が与えられるよう祈りましょう。

それでは、どうして私たちは大宣教命令に従うのでしょうか。それはイエスさまの命令だからですが、その命令に従いたいと思う私たちの思いは、どこから来るのでしょうか。

3.動機

2つのまったく違う道

イエスさまはおっしゃいました。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」。

ここには人間の人生の結末が2つ語られています。一つは救われるという結末で、もう一つは罪に定められるという結末です。

神さまに救われるということがどんなに素晴しいことなのか、それに対して、神さまから罪に定められて罰を受けるということがどんなに恐ろしいことなのか、私たちは完全には知ることができません。

しかし、想像力をいっぱいに働かせてみましょう。私たちの普段の生活の中で味わうちょっとした幸せ、喜び。それをどんどん拡大していって、私たちの想像の限界まで大きくしていく。それよりも、救いの先にあるものは素晴しいのです。

そして、私たちが普段の生活の中で味わうちょっとした怒りや悲しみや苦しさやむなしさ、それをどんどん拡大していって、私たちの想像の限界まで大きくしていく。それよりも、罪に定められた先にあるものはひどいのです。

私たちの大切な人が、大変な喜びと大変な苦しみとの分かれ道に立っているとしたら、そして私たちがどちらの道を選んだらいいかを知っているとしたら、私たちが喜びに至る道を教えるのは当然のことですね。

条件は信じること

よく、「無条件の救い」と言います。しかし、イエスさまが与えてくださった救いは、厳密な意味での無条件ではありません。救いのためには、たった一つ、私たちがしなければならないことがあります。それは、「信じる」ということ。救われる道と罪に定められる道、それを分けるのは、私たちが福音を信じるかどうかです。

これは、アダムの時代から世の終わりの直前まで続く、聖書が教える祝福の原則です。時代によって信じる内容は違いますが、どの時代でも、その時信じるように神さまから示された内容を、人が信じるかどうかで、祝福の道か滅びの道かが分かれます。

私たちが救われるために必要なものは、全部イエスさまが用意してくださいました。それが十字架であり、復活です。私たちは、神さまの命令に完全に従うことのできない不完全な存在です。それでも、神さまは一方的に私たちを愛し、救おうとされました。

そして、その救いを受け取るかどうかは、私たちの選択に任されました。救いのプレゼントは目の前に置かれています。救いを信じて受け取るか、それとも信じないか。信じないということは、救われたくないと言っているのと同じですから、神さまはその通りになさいます。

ある意味、神さまは誰も人を天国や地獄に送ったりしません。人が自分で天国や地獄を選ぶのです。

私たちは人の心を変えることはできません。祈りましょう。祈り続けましょう。その人が福音を信じることができるようにと。

まとめ

私たちは福音を信じました。そして、祝福の道を歩み始めました。この地上では、悪魔やこの世の妨害があるし、神さまも私たちを訓練なさいますから、苦しいことやつらいこともあります。それでも、着実に永遠の喜びに向かって進んでいます。

それは、私たちに伝えてくれた人が会ったからです。私たちに言葉で説明し、それを普段の生き方を通して証明し、そして私たちが信じるように日々祈ってくれた人がいたからです。

今度は私たちの番です。信じるかどうかは、私たちの責任ではありません。私たちは私たちに与えられている責任を果たしましょう。すなわち、普段から十分準備して、福音を言葉で宣べ伝え、生活によって証しをし、そして祈りましょう。

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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