3つの愛

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コリント人への第一の手紙8章1〜13節

(2013.1.6)

該当の聖句を読んでみて、分からない単語や言い回し、複数の意味に取れる表現、疑問に思ったことなどはありませんか?

この聖句は、この書全体の中で、どういう位置を占めていますか? 前後を読んだり、参考書を調べたりして、記者の論理の流れをつかみましょう。また、この書の書かれた歴史的、地理的背景も調べましょう。

この箇所は、私たちにどんな教訓やチャレンジを与えていますか?

イントロ

今回は、偶像に備えた肉についてのパウロのアドバイスを通して、私たちの行動の指針は何なのかということを学びます。

1.神への愛

何をしてもいいし、何をしなくてもいい

パウロは言います。「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」(4節)。

「神々」などと呼ばれるものは、世の中にたくさんありますが、実際にはそのようなものは存在しません。仏も、元々は哲学的悟りを得た人間を指すのであって、神的・超越的な存在を指すのではありません。神社も木造の建物に過ぎません。

だから、そんなものにささげた肉はただの肉です。仏壇に供えられたバナナもただのバナナですし、お香もただの乾燥した葉っぱです。だから、「食べなくても損にはならないし、食べても益にはならなりません」(8節)とパウロは言うのです。

つまり、パウロは、何をしてもいいし、何をしなくてもいいことをここで確認しています。

キリスト教の中心は、「すべし・すべからず」の教えではありません。焼香するかしないか、お酒を飲むか飲まないか、たばこを吸うか吸わないか、カラオケに行くか行かないか……「そのこと自体」はいいも悪いもありません。

神を出し抜こうと思っていないか

じゃあ、何をやってもいいのか、罪なんてものはないというのか。そういう批判が出てくるかもしれません(ローマ6:15)。

この手の議論をする時に注意しなければならないことは、私たちの心のどこかに「隙あらば神を出し抜いてやろう」「どうにかして神を出し抜いて、自分の思い通りに生きてやろう」という動機が隠れていないか、ということです。

知り合いの牧師がこんな話をしてくださいました。ある人が彼に質問したそうです。「先生、不倫は罪ですよね?」「そうですね。結婚外の性的関係は罪ですね」「でも、不可抗力でそういう関係になった場合はどうですか? それでも神はその人をさばかれるでしょうか?」

この牧師は言いました。この人は「不可抗力ならしょうがないですね」という答えが欲しかったんだ。そして、きっと自分で不可抗力の状況とやらを作り出して、自分の行為を正当化するつもりだったんだ、と。

これでは、神さまは愛の対象ではなく、競争相手になってしまっていませんか?
それは信仰から出ているか
偶像にささげた肉を食べること自体は罪ではないと、聖書は確かに教えています。しかし、「これを食べるのは良くないのではないか」と思っている人が食べるのは罪になる、とも教えられています。

「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14:23)。

それは、客観的には問題のない行動であったとしても、その人が神さまのみこころではないと信じている方を選んでいるからです。行動はどうであれ、心が神さまを裏切っているということです。

結局のところ、食べる・食べないという実際の行動の背後にある、その人の心が問題にされているわけです。その行動が、「神さまを愛し、神さまに喜んで従いたい」という心から生まれたものなのかどうか、心が神さまの方を向いているかどうかが問題ということです。

神への愛が動機かどうか

私たち人間にとって最も大切なことは、神さまを愛することです。私たちが心から神さまを愛し、神さまのすばらしさをもっと知り、神さまのすばらしさをもっとほめたたえるようになり、周りの人々にもそれを伝えていくことです。

お酒よりも、たばこよりも、お金よりも、恋人や家族よりも、そして命よりも、あなたは神さまを愛していますか?

「はい。私は、神さまを愛しています」。そう告白しましょう。そして、もっともっとその愛を深め、もっともっと神さまへの愛を表現するためににはどうしたらいいか、それを考えて行動しましょう。これが、私たちの生きる指針です。

それは、「すべし・すべからず」を気にして生きることよりも、あるいはどうしたら神さまを出し抜いて、罰を受けないで済むかを考えて生きることよりも、もっと大切なことです。

私たちが神さまを愛するのはなぜでしょうか。それは、神さまが私たちのことを愛してくださったからです。神さまの命がけの愛を深く体験するならば、神さまを出し抜こうという動機は薄れていくはずです。

今年の中通りコミュニティ・チャーチのテーマ聖句は、詩篇115:1としました。「私たちにではなく、【主】よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」

イエス・キリストを通して現された神さまの深い愛は、神さまの栄光の一部です。今年一年かけて、神さまのすばらしさについて学び、それを体験しましょう。また礼拝や伝道などの様々な行動を通して、神さまの栄光をほめたたえていきましょう。

2.他者への愛

他者の信仰のつまづきにならないように

すべてのことはしてもいいということを確認しました。しかし、同時にパウロは、こうも教えています。

肉を食べること自体は罪でないし、権利でもあるけれど、もしもパウロが肉を食べているのを見た他のクリスチャンが、「いいのかなあ」と思いながらも、ついパウロに合わせて食べてしまったとしたらどうなるでしょう。それは信仰から出ていないので(心の中で神さまを裏切っているので)、罪になります。

ということは、パウロはその人に「罪を犯させた」ということになります。だからパウロは、そういう場合には、他の人のためにあえて自分の権利を放棄すると言うのです。

また、自分が何でも食べてよいと信じているからといって、食べない人のことを侮ってはいけないとも教えています。逆に、食べない人が食べる人のことをさばくこともいけないと教えています。それは、他の人の信仰の成長を邪魔することがないようにするためです。

動機は傲慢だろうか、愛だろうか

今回の箇所でも、パウロは言っています。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」(1節)。

人を非難したり、教えたりすること自体が問題なのではありません。パウロも、コリントの人たちを非難したり、教えたりしました。私たちが気をつけなければならないのは、人を非難したり、教えたりする行動の背後に、時々傲慢さが隠れていることがあるからです。

「あなたはダメ人間、あなたはダメなクリスチャン。だから、立派な人間であり、すばらしい信仰者であるこの私が、あなたを教え、導いてあげましょう。ほれ、私の教えを感謝して受け取り、私のすばらしさを認めて、ほめたたえなさい」という傲慢です。

このような傲慢さは、相手の信仰を成長させるのではなく、かえって反発心を育てたり、「自分はダメだ。どうせ何をやっても成長なんかできない」という自己卑下やあきらめの思いを育てたりしがちです。信仰のつまずきになるということですね。

私は、牧師として、あるいは心理カウンセラーとして、この傲慢さとはいつも戦わせられています。気がつくと、いつの間にか「教えてやる」「助けてやる」というような傲慢な態度で人に接してしまいます。傲慢の罪は、根深いですね。

しかし、聖霊さまが私の傲慢さにすぐに気がつかせてくださるようにと、いつも祈りたいと思いっています。そして、気がついたときには、すぐにイエスさまによる赦しを受け取って、もう一度やり直させていただきます。

他の人の霊的成長のために

大切なチェックポイントは、「自分の言動が、他の人の霊的成長にとって益になるか、それともじゃまになるか」ということです。そして、益になる方を選ぼうということです。

これは、「人目を気にして生きなさい」ということではありません。人目を気にするのは、結局自分のため、自己中心です。そして、喜びではなく、恐れが動機になっていますから、不自由です。

私たちの一挙手一投足が、他の人に神さまのすばらしさを伝えるものとなればいいですね。

3.自分への愛

自分を損なっていないかどうか

私たちは何をしてもいいし、何をしなくてもかまいません。問題にされているのは、行為そのものではなく、その行ないを生み出す私たちの心、動機だということを、ここまでずっと見てきました。

第1の判断基準は神への愛から出ているかどうか、第2は他の人への愛から出ているかどうかです。そして、第3の判断基準は、自分への本当の愛から出ているかどうか。

別の言い方をすると、知らない間に何かに支配されて、自分を損ねたりしていないかどうか、ということです。

自由のつもりと自由は違う

9章で、パウロは自分はだれに対しても自由だと語っています(9:19)。まさにその通りです。しかし、本人は自由のつもりでも、実はがんじがらめということがあります。

薬物でもお酒でもギャンブルでも、いつでもやめられると思いながら、実はやめられないとしたら、それに支配されています。そこに自由はありません。

それをすることによって、あなたや周りの人の体や心をむしばみ、傷つけているとしたら、そこに自由はありません。

いつの間にか心をとらわれ、もっと大切なこと(たとえば食事、仕事、家族、教会生活、祈りなど)ができなくなっているとしたら、そこに自由はありません。

先ほど私が告白した、いつの間にか他の人を見下げて、傲慢になってしまうということも、私が自由ではなくなっていることの証しです。 なぜなら、それがいけない態度だと知っているのに、自分ではやめられなくなっているからです。

自由を邪魔するものを手放そう

偶像にささげられた肉そのものに人を汚す力はありません。しかし、人が神さま以外のものにとらわれるならば、人は本当の自由を失っていき、その人の人生を損ねてしまいます。

神さま以外の何者にもとらわれないこと。別の言い方をすると、神さまへの愛、他の人への愛が豊かに成長し続けて、それを邪魔するものがないこと。それこそが私たちの本当の自由です。

あなたは、そんな自由を味わっていますか? あなたの生活の中にそれを邪魔するものがあるのなら、手放して自由を得ましょう。

パウロも、本当の自由を手にするために、痛みを伴うことがあったとしても、自由を邪魔するものを手放していきました。

「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」(9:27)。

今年は、何かを手に入れる一年ではなく、いらないものを手放し、そぎ落としていく一年でありたいですね。それこそが、私たちの人生を祝福で満ちあふれさせる道なのですから。

まとめ

いつも決断や行動の動機に心を配りましょう。それは、神さまへの愛、他の人への愛、自分自身への本当の愛を現すものですか?

あなたは、ここからどんなチャレンジを受けていますか? この箇所を読んで、生活や態度をどのように変えるよう示されていますか? 何を決心しましたか? 抽象化しないで、具体的に表現しましょう。


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