信仰の進歩と喜びとのために

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ピリピ人への手紙1章21〜30節

(2013.1.27)

参考資料

28節の「彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです」というのは、クリスチャンが「人は行ないではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、恵みにより一方的に救われる」という信仰をはっきりと告白すればするほど、「福音を信じれば救われ、信じなければ滅びるという2つの選択肢があるのだ」ということを明らかにすることになる、ということです。

聖書からのメッセージ

イントロ

今回の箇所は、信仰のための戦いは避けられないものであるということと、それを乗り越えるための処方箋が記されています。

1.生きる方を選んだパウロ

2つの良いものの間での葛藤

パウロは、2つのもののどちらを選ぶべきか悩んでいました。1つは死ぬことで、もう1つは生き長らえることです。

パウロは、行く先々で大変な迫害を受け、一部のクリスチャンたちからはいわれのない批判を浴びていました。実際、この時も裁判を控えて軟禁状態でした。死ねば天のイエスさまのみもとに行けて、この世の苦しみから解放され、天国の祝福を味わうことができます。ですから、本当はそちらの方がいいとパウロは言います。

しかし、この地上にとどまるならば、伝道者・牧師としての働きを続けることができ、たくさんの人が救われ、また成長していくのを見ることができます。こちらも捨てがたい。

パウロの選択

結局パウロは、生き続ける方を選択しました。25節(口語訳)「こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う」

生き続ける理由は、ピリピ教会(や他の教会)の人々の信仰の進歩と喜びのためです。

ピリピ教会への約束

皇帝による裁判を無事に乗り切り、釈放されたならば、自分はきっとピリピに赴くとパウロは語っています。そして、26節「そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」(新共同訳)。

パウロがさらにピリピ教会の人々を指導することで、「自分たちはイエスさまに結びついているんだ」という彼らの確信が深まるということです。それをパウロは「あなたがたの誇り」と表現しています。

これは、他の人に自慢できるような、自分自身のすばらしさのことではありません。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)

「誇る者は主を誇れ」(第1コリント1:31)

十字架によって自分を救ってくださったイエスさまのみわざに感動し、喜び、感謝すること。それによって、イエスさまのすばらしさがほめたたえられること。これがピリピ教会の人々の誇りであり、私たちの誇りです。

そのような誇りを増し加えるためには、イエス・キリストに対する信仰が深められなければなりません。パウロはその助けができるよう、何としても生き延びて、ピリピを訪問したいと語っているわけです。

2.ピリピ教会への願い

キリストの福音にふさわしく生活しなさい

この時パウロは囚われの身でしたから、まだ直接ピリピ教会の人たちを指導できません。しかし、手紙によって一足先に指導を始めます。彼がピリピ教会の人たちにまず求めたことは、「キリストの福音にふさわしい生活」でした。

その具体的な目標として、パウロは2つのことを挙げています。1つは「霊を一つにし、心を一つにする」こと。もう1つは、「福音の信仰のために奮闘し、たとえ反対者たちに脅されてもたじろがない」ことです。そして、この2つは関連しています。

まずは信仰のための戦いについて見ていきましょう。

信仰の戦い

具体的な事情はここには書かれていませんが、ピリピ教会は反対者の攻撃にさらされていました。

3:2には「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください」と書かれていますから、律法主義に立つ巡回伝道者がピリピ教会にやって来て、恵みと信仰による救いを否定し、モーセの律法を守らないと救われないという間違った教えを広めようとしていたのでしょう。

聖書は、人は行ないによって救われるのではなく、恵みの福音、すなわち「イエス・キリストが私の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということを信じることによって救われ、罪赦され、神さまの子どもになるのだと教えています。パウロは、この確信を守り通す戦いをするようにと、ピリピ教会の人たちに期待しました。

そして、私たちもそう期待されています。
恵みでないものによる救い
この世は、恵みでないものによって救われると私たちに教え込みます。お金が儲かれば、地位を手に入れれば、家を手に入れれば、良い学校には入れれば、玉の輿に乗れば、知識を手に入れれば、何かの修行をすれば、パワースポットを巡れば、何か金色のものを身につければ、何かスピリチュアルな体験をすれば……と、様々な幸せの条件を突きつけます。

そして、場合によっては、恵みの福音を信じるクリスチャンに対して、そうでない人たちからの迫害が起こります。歴史上、多くのクリスチャンたちが馬鹿にされたり、非難されたりして、精神的に、身体的に、経済的に、あるいは社会的にさまざまな攻撃を受け、殉教する人たちもたくさん出ました。

私たちは、様々な間違った教えや誘惑、迫害から、恵みの福音を信じる信仰を守り通す戦いをしなければなりません。
救いの苦しみの要素
この世が基本的に神さまを信じない世界である以上、そして、悪魔が全力で人の救いを妨害しようとしている以上、信仰の戦いとそれに伴う苦しみは避けられません。

パウロは、救いには喜びの要素だけでなく、苦しみの要素も含まれると教えています。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(29節)。

神さまが私たちを意地悪でいじめているという意味ではありません。イエス・キリストによる恵みの福音を信じる信仰、それを守り通す戦いをし、そのために苦しみを味わうことによって、私たちの信仰はますます成長し、救いの確信が深まります。神さまはそのために、救いの中に苦しみの要素も含ませたということです。

一致

そして、様々な苦しみを乗り越えて信仰の戦いを続けるのは、一人ではとうてい不可能なことです。同じイエスさまを信じる兄弟姉妹と、励まし合い、戒め合い、支え合う必要があります。パウロほどの人でさえ、バルナバやシラス、テモテやテトス、アクラとプリスキラ、ルカ、あるいはエパフロデトといった人たちと共に行動し、支え合っていました。

信仰のための苦しみは、パウロも経験していました。ピリピ教会の人たちが味わっている苦しみとは、具体的には異なります。しかし、どちらも信仰を守り通すための苦しみという点で同じです。

そして、どちらの苦しみも神さまからの賜物であり、より信仰が成長し、救いの確信を深めるというという点で同じです。

パウロは、同じ信仰の苦しみを味わっている者だからこそ、ピリピ教会の人々を慰め、励まし、引き上げることができました。私たちも、一人一人が味わっている苦しみは違います。しかし、同じ神から出た苦しみであり、同じ信仰を守るための苦しみですから、互いに支え合うことができます。

私たちは、一人一人が、自分の味わっている苦しみを教会の中で分かち合わなければなりません。そして、それぞれが味わっている苦しみは、単なる苦しみではなく、これによって信仰が深められ、救いがより確かなものになるためのものだということを確認して、お互いに励まし合わなければなりません。

まとめ

私たちは、互いに支え合うことによって、恵みの福音を信じる信仰、イエス・キリストを信じる信仰を守り通し、成長していきましょう。

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