主にあって喜びなさい

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ピリピ人への手紙3章1〜9節

(2013.2.24)

参考資料

割礼とは、ユダヤ人の男性が、生まれて8日目に男性器の包皮を切り取られる儀式です。これは、アブラハム契約のしるしとして、ユダヤ人に行なうよう命ぜられました(創世記17:10-14)。また、モーセの律法にも規定があります(レビ12:3)。

アブラハム契約とは、神さまがユダヤ人の先祖アブラハムと結ばれた契約です。特に重要な約束が3つあります。
  1. 【子孫の約束】アブラハムにたくさんの子孫が与えられ、偉大な国家(イスラエル)ができ、他の国々もできる。
  2. 【土地の約束】アブラハムとその子孫であるユダヤ人に、カナンの地が与えられる。
  3. 【祝福の約束】アブラハムとユダヤ人は祝福される。そしてアブラハムやユダヤ人を祝福する者は祝福され、呪う者は呪われる。ユダヤ人以外の人々(異邦人)は、アブラハムとユダヤ人を通して祝福される。
5節の「ベニヤミンの分かれの者」とは、イスラエル十二部族の一つであるベニヤミン族の末裔だということ。そして、「ヘブル人」とは、ユダヤ人が異邦人に対して自分を紹介するときの言い方です。

聖書からのメッセージ

イントロ

パウロは、1節で「主にあって喜びなさい」と命じています。そして、それがあなた方の安全につながると言っています。どうしてでしょうか。

1.悪い働き人の教え

律法主義

この箇所でパウロが犬と呼び、悪い働き人、肉体だけの割礼の者と呼んでいるのは、いわゆる律法主義者と呼ばれる人たちです。

彼らは、イエス・キリストを信じる信仰だけでは不十分で、異邦人もユダヤ人のように割礼を受け、モーセの律法に従って生活しなければならないと教えました。

誇りを刺激する教え

この教えは、思いの外人気があって、これに惑わされる人たちがたくさん現れました。というのは、人間的な誇りを満足させてくれるからです。これだけのことをやったから神さまが認めてくれて、救ってくれたとなれば、私たちは自分自身のがんばり、正しさ、まじめさなどを誇ることができますね。

しかし、神さまの恵みによって一方的に赦していただくというイエスさまの福音は、人間的な誇りを全く満足させてくれません。私たちにできることは、「ありがとうございます」と、ただ受け取るだけですから。それについて、パウロは「人間的なものを頼みにしない私たち」と語っています。

信仰の邪魔をする誇り

特にユダヤ人の多くは、自分が神さまと契約を結んだアブラハムの子孫であり、そのしるしとして割礼を身に帯びていることを誇りとしました。そのため、イエスさまによって一方的に罪を赦されなければならないということを認めようとしませんでした。

私たちはユダヤ人ではありませんが、私たちそれぞれに誇りとするものがあることでしょう。あるいは、誇りにしたいとこだわっているものがあることでしょう。たとえば、人にほめられることであったり、何かを達成することであったり、地位を手に入れることだったり。

「神さま以外の幸せの種」という言い方もできるでしょう。誘惑に陥って罪を犯してしまうのは、それが自分を幸せにしてくれるんじゃないかと思い込んでしまうからです。

そういうものが強ければ強いほど、私たちは神さまの一方的な恵みを信じられなくなっていきます。

2.パウロの模範

いっさいが損

一方パウロは、神の選びの民であるユダヤ人であること、パリサイ派に属して専門的な聖書の訓練を受けたこと、そして正しい人間だという評価を受けていたことなど、かつては人間的な様々な誇りがあったけれど、今ではそれらのものいっさいを損と思うようになったと述べています(8節)。

この「損と思う」というのは、一方を極端に否定的に表現することで、もう一方を強く引き上げるユダヤの文学的表現です。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13)なども同じで、別に神さまはエサウを憎んでいたわけではなく、そう言えるくらいヤコブのことをむちゃくちゃ愛したという意味です。

ですから、「損と思う」というのも、パウロが「ユダヤ人なんかに生まれなきゃ良かった」と思っているということではなく、「イエスさまを知っていることのすばらしさ」に強調点があります。

パウロは、「キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望み」のことを考えると、うれしくてうれしくて、かつては大事だと思っていたもの、こだわっていたもの、どうしても手放せないと思っていたものから解放されたのでした。

主にあって喜びなさい

「主にあって」というのは、英語ではin the Lordで、主の中でということです。キリストの中にこそ、喜びの種、幸せの種、感動の種があります。イエスさまを信じた結果、お金が儲かるとか、健康になるとか、人間関係が良くなるとか、それらも幸せだし、喜びかもしれません。しかし、自分がイエスさまにつながっているということ、イエスさまのことを知っているということそのものが、パウロの喜びでした。

それほどにイエスさまはすばらしいお方だということです。そして、イエス・キリストを通して交わることができる、父なる神さまや聖霊さまはすばらしいお方だということです。

私たちは、そういう喜びを知っているでしょうか。知っているとしても、パウロが知っていたほど深くて大きい喜びを知っているでしょうか。

そういう喜びがあれば

もし、イエスさまを知っていて、イエスさまとつながっているそういう喜びがあれば、律法主義に陥ったり、つまらない欲望に走って罪を犯したりする危険から遠ざかることができます。

まとめ

神さまが何か与えてくださったとか、祈りが聞かれたという喜びだけでなく(もちろん、それを求めていいのですが)、今週は特に、「主にある喜び」を教えてくださいと強く祈りましょう。

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