エルサレム入城

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ヨハネによる福音書12章12〜19節

(2013.3.17)

参考資料

BC167年、セレウコス朝シリアがエルサレムを占領し、異教の神への犠牲をささげたため、ハスモン家の人々が中心になってユダヤ人の反乱が起こります(マカバイ戦争)。BC164年には、マカバイと呼ばれたユダがエルサレムを奪還して聖所を聖めましたが(これがハヌカの祭りの起源)、その後もシリアとの戦いは続き、ユダも、次のリーダーである弟ヨナタンも戦死します。二人に続いてリーダーとなった弟シモンは、BC142年にシリア軍を打ち破って完全独立を獲得しました。この時、熱狂したエルサレム市民は、イエスさまのエルサレム入城と同様、「しゅろの木の枝を取って」(13節)、シモンを歓迎しました。

聖書からのメッセージ

イントロ

キリストの復活を祝うイースターの1週間前の日曜日のことを、キリスト教会の暦で「しゅろの日曜日」と呼びます(今年は来週3月24日に当たります)。その名称は今回の記事に由来します。

イエスさまは、エルサレムに入られる際、ロバの子に乗って行かれました。この出来事が、今の私たちにどんな意味を持っているのでしょうか。多くは、「ロバの子のように、私たちもイエスさまの働きをお手伝いしよう」というようなメッセージが語られますが、今回はちょっと違った側面から切り込んでみましょう。

1.ゼカリヤの預言

ゼカリヤ9:9-17

ヨハネは、イエスさまがロバの子に乗って入場なさったのは、旧約聖書の預言の成就だと語っています。具体的にはゼカリヤ書9:9です。以下、長いですが9:17まで引用します。

9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

10 わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。

11 あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。

12 望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。

13 わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。シオンよ。わたしはあなたの子らを奮い立たせる。ヤワンはあなたの子らを攻めるが、わたしはあなたを勇士の剣のようにする。

14 【主】は彼らの上に現れ、その矢はいなずまのように放たれる。神である主は角笛を吹き鳴らし、南の暴風の中を進まれる。

15 万軍の【主】が彼らをかばうので、彼らは石投げを使う者を滅ぼして踏みつけ、彼らの血をぶどう酒のように飲み、鉢のように、祭壇の四隅の角のように、満たされる。

16 その日、彼らの神、【主】は、彼らを主の民の群れとして救われる。彼らはその地で、きらめく王冠の宝石となる。

17 それは、なんとしあわせなことよ。それは、なんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、新しいぶどう酒は若い女たちを栄えさせる。

ゼカリヤ預言の用語解説

「シオン」(9節)とは、エルサレムのあった丘の名前です。

「シオンの娘」「エルサレムの娘」(9節)とは、エルサレムの住民のことです。

「エフライム」(10節)はイスラエルの北王国の代表的な部族で、ここでは北王国全体を指します。「エルサレム」はイスラエルの南王国の首都で、ここでは南王国全体を指します。すなわち、ユダヤ人全体に対する預言だということです。

「ヤワン」(13節)は、ノアの子であるヤペテの子です。そして、そこから生まれたギリシャ人のことを指しています。

「鉢のように、祭壇の四隅の角のように」(15節)の鉢は、動物犠牲の血を入れる入れ物で、その血を祭壇の四隅の角に振りかけました。敵に対するさばきの大きさを表しています。

ゼカリヤ預言の意味

やがて、「あなたの王」と呼ばれているイスラエルの王、すなわちメシヤ(救い主、キリスト)が現れます。

そのとき、イスラエルは敵の攻撃にさらされて、弱り切っています。

しかし、メシヤがイスラエルを守るので、イスラエルは敵に勝利することができます。こうして、イスラエルは救われます。

2.イエスのエルサレム入城

ホサナ

エルサレムの人々は、「ホサナ」と叫んでイエスさまを歓迎しました。これは「今救ってください」という意味のアラム語です。彼らの叫びの元ネタは詩篇118篇にあります。神さまがイスラエルを救われる日について、詩篇の記者はこのように歌っています。

21 私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。
22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
25 ああ、【主】よ。どうぞ救ってください。ああ、【主】よ。どうぞ栄えさせてください。
26 【主】の御名によって来る人に、祝福があるように。


「ホサナ」あるいは「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という叫びは、元々は、そのお方が約束のメシヤであり、まことの王であるという、信仰告白の言葉でした。

涙の入城と枯れたいちじく

人々に熱烈歓迎を受けたイエスさまでしたが、エルサレム入城直前のルカ19:41-44で、エルサレムを見ながら、彼らのために涙を流されました。

それは、最終的にエルサレムの人々がイエスさまをメシヤとして信じないで、かえって殺そうとするということ、そして、そのためにエルサレムが神のさばきを招き、徹底的に破壊されてしまうということを見抜いておられたからです。

そして、エルサレムに入られたイエスさまは、葉っぱばかり茂って実を結ばないいちじくを枯らしてしまわれました(マタイ21:18-19)。そのいちじくと同じように、表面的にはとても宗教的に見えるエルサレムですが、その中身は偽善に満ちていて、神さまに対する誠実さに欠けていました。

群衆は、一時はイエスさまを熱烈歓迎しましたが、それは神さまとの関係回復という霊的な救いを求めてのことではなく、あのハスモン家のシモンのような、ローマ帝国を追い出してくれる政治的・軍事的ヒーローを求めてのことでした。ですから、イエスさまが逮捕されたとき、手のひらを返したように「十字架につけろ!」と叫んだのです。

その結果、イエスさまの涙の預言が成就します。AD70年、ローマ軍がエルサレムを破壊し、ユダヤ人は全世界に離散してしまいます。そして、その後何世紀にもわたって苦難を味わうことになります。

3.神の約束

ゼカリヤ預言のポイント

今回引用されているゼカリヤ9:9-17の預言の中で、注目したいのは16節です。「その日、彼らの神、【主】は、彼らを主の民の群れとして救われる」。特に「主の民の群れとして」という言葉に注目しましょう。

この預言の中で、イスラエルは敵の攻撃にさらされて弱り切っています。まるで神さまに見捨てられ、「あなた方は私の民ではないから、どんなに苦しもうと知ったことではない」と言われているかのように見えます。これは、イエスさまが嘆かれたように、彼らの不信仰の故です。

預言者ホセアもこう預言しています。「主は仰せられた。『その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ』」(ホセア1:9)。ロ・アミとは、「私の民ではない」という意味です。なお、ロ・アミの姉はロ・ルハマ(愛されない者)と名付けられました。こちらもひどい名前ですね。

しかし、それでも決して神さまはイスラエルを見捨てず、ご自分の民として救います。ホセアは続けてこう預言しました。「あなたがたの兄弟には、『わたしの民』と言い、あなたがたの姉妹には、『愛される者』と言え」(ホセア2:1)

こうしてイスラエル民族全体がメシヤを信じて救われます(ローマ11:26-27)。

どうして救われるのか

度重なる失敗にもかかわらず、そしてメシアであるイエスさまを殺すという罪を犯したにもかかわらず、それでも神さまはイスラエルを見捨てず、赦して受け入れ、なおも神の民として救われます。

ゼカリヤ9:11には、その理由が書かれています。「あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ」

どうして度重なる失敗にもかかわらず、見捨てられず、赦され、救われるのか。それは、「イスラエルを救う」というのが神さまとイスラエルの契約だからです。その契約は、イエス・キリストの血によって確かなものになりました。

日本でも血判というのは厳粛なものとして守られました。それ以上に、当時の中東で結ばれた血の契約は、決して破ってはならない厳粛なものでした。

ですから、イスラエルの側の失敗にもかかわらず、神さまの側では約束を遂行なさいます。何ものも、その救いを邪魔することはできません。

私たちの救いの土台

私たち異邦人の救いも、契約によります。イエスさまがメシヤであり、私たちの罪のために血を流してくださった、だから私たちの罪はすべて赦されているのだと信じるとき、ユダヤ人ではない私たちも神さまの家族に加えられ、神さまの家族として祝福をいただくことができます。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマ8:32-29)


あなたの救いは、神さまとの契約に基づいています。気分や人の言葉に左右されないようにしましょう。

まとめ

イエスさまを救い主だと信じ、神さまの救いが確かなものだと確信して、心から「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と賛美しましょう。

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