洗足

トップページ聖書のメッセージ集2013年 > このページ


ヨハネによる福音書13章1〜17節

(2013.3.13)

参考資料

今回の出来事の背景になっている、いわゆる最後の晩餐は、過越(すぎこし)の祭りのための食事でした(マタイ26:27-29)。

過越の祭りとは、春に行なわれるユダヤの祭りです。昔、ユダヤ人はエジプトで奴隷状態にありましたが、神さまの助けにより、エジプトを脱出することができました。その時のことを忘れないため、神さまから守るように定められたのが過越の祭りです。

モーセの律法では、過越の祭りの日、1歳の雄の子羊を殺して、その血を門柱とかもいに塗り、その子羊を焼いた肉、パン種を入れないパン(急いで脱出したことを象徴)、苦菜(エジプトでの苦難を象徴)を旅装束で立ったまま急いで食べるよう指示されていました。

聖書からのメッセージ

イントロ

イースター(復活祭)直前の木曜日は、キリスト教会の暦で洗足木曜日と呼ばれます(ユダヤの一日は日没で切り替わりますから、ユダヤ暦ではすでに金曜日ですが)。それは、今回の記事に由来しています。

イエスさまが弟子たちの足を洗われたことが、今の私たちにとってどんな意味があるのか考えましょう。

1.ペテロとのやりとり

ペテロ断る

イエスさまが弟子たちの足を洗い始めたとき、ペテロはそれをやめさせようとしました。他人の足を洗うのは奴隷の仕事ですし、上着を脱いだイエスさまの姿も、まさに奴隷のような格好でした。弟子として、先生にそんなことをさせられないと考えるのは、至極当然でした。

ペテロ求める

ところが、イエスさまは「もしわたしが洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もありません」などとおっしゃいます。洗ってもらわないと破門されるとでもいうのでしょうか。驚いたペテロは、「じゃあ、全身洗ってください」とお願いします。

足以外は洗う必要なし

それに対するイエスさまの答えは、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」。

当時はサンダル履きですから、外を歩き回ると、土埃で足が汚れます。それで家に入るときには足を洗いました。イエスさまの答えは、そのような当時の習慣に基づいています。

2.洗足の意味

過越の祭り

今回の食事は、過越の祭りのための食事でした。過越は、出エジプトの出来事を記念するために定められた祭りです。当時、イスラエルの民は、エジプトで奴隷として苦しんでいました。神さまは、モーセをリーダーとして選び、彼を通して十の奇跡(エジプトにとっては災い)を起こして、ついに民をエジプトから脱出させます。

十の奇跡の最後にして最大の奇跡は、エジプトに住む人や家畜の初子(最初に生まれた男の子や雄)が、みんな死んでしまうというものでした。ただし、それだけだとイスラエル人の長男も死ぬことになりますから、神さまは彼らがさばきを逃れるための方法を教えます。

それは、1歳の雄の子羊を殺して、その血を自分の家の門柱とかもいに塗るというものでした。さばきをもたらすためにエジプトを行き巡る神さまは、血が塗られているのを見ると、その家を過ぎ越していくので、子どもも家畜も死なないというわけです。

さらに、この過越の奇跡が起こる夜、血を塗るために殺した子羊の肉を焼き、パン種を入れずに焼いたパンと苦菜を添えて食べます。しかも、家族みんなが旅装束で、立ったまま急いで食べました。これらは、急いで脱出したことと、エジプトでの苦しみを象徴しています。

後の時代のイスラエルの人々も、過越の祭りと過越の食事を行なうことによって、神さまがイスラエルを救い出してくださったことを思い起こしました。 昔々の先祖の体験ではなく、自分自身の体験としたのです。

洗足と過越と十字架

今回の洗足は、過越、さらにはイエスさまの十字架と関係があります。

過越では、子羊が殺されて血を流すことで、イスラエルの人々がさばきをまぬがれました。そして、イエスさまが十字架にかかって血を流されたことによって、私たちの罪が赦され、さばきを受けることがなくなりました。

イエスさまはペテロに、「水浴した者は、全身きよい」とおっしゃいました。イエスさまの十字架の血は、私たちのすべての罪、すなわち過去の罪も、現在の罪も、未来の罪も、すべて取り除ききよめます。

そして、いったん全身を洗ったら、もう二度と全身を洗ってもらう必要はありません。それと同じように、いったんイエスさまを信じてきよめられたら、救いは完了です。途中で救いが取り消しになって、永遠の滅びを招くということは決してありません。イエスさまの愛は、決してあなたを離れることはありません。

足は洗う

しかし、「足以外は洗う必要がない」ということは、足はたびたび洗ってもらう必要があるということですね。

私たちは救われてきよめられたといっても、救いが最終的に完成するのは天国に行って、栄光の体に変えられたときです。この地上ではまだ完全にされたわけではなく、罪の性質は残っていますから、たびたび失敗し、罪を犯してしまいます。

そんなときは、あらためてイエスさまの十字架を思い起こし、自分が赦されていることを確認しましょう。そして、イエスさまを悲しませる罪の行ないをやめることを決心しましょう。

これが、今の時代の私たちが、イエスさまに足を洗っていただくということです。

3.互いに足を洗い合え

赦しに基づく愛

イエスさまは、イエスさまが弟子たちにしたように、それを模範として、今度はお互いに足を洗い合うよう弟子たちに命じました。そして、今の時代の私たちにも命じておられます。

すでに学んだように、足を洗うという行為は、赦しを意味しています。私たちが互いに足を洗い合うというのは、お互いがそれぞれ不完全な発展途上人なのだということを認め、互いの不完全な部分を赦し、受け入れ、忍耐し、そしてじっくりと成長するのを待とうということです。

足を洗い合う理由

イエスさまは、どうして弟子たちが互いに赦し合い、受け入れ合わなければならないか、その理由もおっしゃいました。それは、主であり師であるイエスさまが、まず彼らの足を洗ったからです。

イエスさまは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。彼らが洗足の意味を本当に理解するのは、イエスさまが十字架にかかり、復活し、昇天し、代わりに聖霊が来られて心に住んでくださるようになってからです。

そのとき彼らは、イエスさまが十字架にかかって血を流してくださったのは、他でもないこの自分のためだったんだということを悟りました。彼らだけではありません。イエスさまは、私のためにも、そしてあなたためにも血を流してくださいました。

私たちは、イエスさまが命がけで自分のことを赦し、それだけ「残るところなく」(1節)深く愛してくれているということを知れば知るだけ、他の人を赦し、受け入れることができるようになっていきます。

まとめ

イエスさまに愛されていることをいつも確認して、他の人を赦し、受け入れることができるようになりましょう。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


Copyright(c) 2013 Nakadoori Community Church All Rights Reserved.