当たり前?

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ピリピ人への手紙4章10〜23節

(2013.4.14)

参考資料

マケドニヤ(15節)はギリシャの北部の地域で、ピリピやテサロニケといった町があります。一方、ギリシャ南部はアカヤと呼ばれ、アテネやコリントといった町がありました。パウロは、マケドニヤで伝道したときに大変な迫害を受けました(使徒16:12-17:14)。

エパフロデト(18節)は、ピリピ教会からローマ(またはカイザリヤ)で投獄されていたパウロの元に遣わされました。彼は教会からの贈り物を届けた後、パウロの身の回りの世話をしたり、伝道の手伝いをしていましたが、病気にかかって死にかけます。しかし、神さまが彼をいやしてくださったので、パウロは彼をピリピに帰すことにして、ついでにこの手紙を届けさせました。

聖書からのメッセージ

イントロ

12節でパウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と語っています。

貧しく、乏しく、飢えてしまうような状況でも心が不満や不安にさいなまれず、喜びや感動に満ちあふれて生きることができます。

そして、飽きるほどに豊かで、富んでいるような順風満帆な状態でも、傲慢になって信仰を失ってしまったり、萎縮してしまって居心地が悪くなったりしません。

こんな、どんな環境でも、喜び、感動し、感謝に満ちあふれて生きるための秘訣は何でしょうか。パウロの生き方から学びましょう。

1.神の働きを見る

あらゆる境遇に対処できる秘訣

パウロが、逆境でも順境でも、あらゆる境遇に対処できる秘訣は13節に書かれています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」。

私を強くしてくださる方、すなわち父なる神さま、イエスさま、聖霊さまと交わり、この方に守られ、導かれ、支えられていることを知り、どんな状況の中にも神さまの働いておられることを見出すとき、私たちはどんな境遇の中からも、喜びや感動の種を拾うことができます。

ピリピ教会という奇跡

パウロにとって、ピリピ教会の存在そのものが、神さまが働いておられることの証明でした。

ピリピやテサロニケなどがあるマケドニヤ地方は、クリスチャンに対する迫害が強く起こっていました。パウロ自身も、命を狙われたり、投獄されたりしました。そこで、テサロニケには3週間、ピリピにも数週間(ヘタをすると1週間ちょっと)しか滞在できませんでした。救われたばかりのクリスチャンたちを置いて、わずか1ヶ月足らずで牧師がいなくなってしまったのです。ですから、パウロはピリピ教会やテサロニケ教会のことをいつも心配していました。

ところが、これらの教会は、迫害に負けて信仰を失うどころか、世界でも指折りの信仰的な教会に成長したのです。テサロニケ教会は、再臨を待ち望むスピリットに満ちあふれ、ピリピ教会はささげるスピリットに満ちていました。

ピリピ教会は、経済的には決して豊かな教会ではありませんでしたが、誕生したばかりの頃から、何度もパウロに物を送って、その伝道活動を支えてきましたし(14-16節)、迫害のために困窮していたエルサレム教会のクリスチャンたちを助けるための募金も、率先して行なっていました(第2コリント8:1-5)。

パウロは、これは自分の働きによるのではなく、神さまの働きによるのだと強く感じたことでしょう。

問題のただ中で神の働きを見る

どんな境遇、どんな状況に置かれても、それでも喜び、楽しみ、前に進んでいくことができる。その秘密の第一は、その状況に働かれる神さまのみわざを期待し、神さまの働きを見ることです。

パウロは、様々な困難を経験しました。しかし、その問題のただ中で、神さまの働きを見ました。そして、これから先も神さまの働きが見られることを期待しました。ですから、牢獄の中であっても賛美し、喜び、これからますます素晴らしいことが起こるぞと期待し続けることができたのです。

では、問題のまっただ中で、神さまの働きに触れる秘密は何なのでしょうか。それは、「何事も当たり前だと思わない」ということです。

2.当たり前だと思わない

なくても不満に思わない

ピリピ人への手紙が書かれた目的の一つは、ピリピ教会がパウロに贈り物をしてくれたことに対する感謝を表すためでした。

ピリピ教会は、これまでも何度も物を送って、その伝道活動を支えてきました。ところが、何らかの理由で、しばらくサポートが途絶えていたようです。それが、今回また再開したのでした(10節)。

しかし、11節の前半には「乏しいからこう言うのではありません」と書かれています。すなわち、「ピリピの人たちよ。今までずっと献金してくれて大変助かっていた。しかし、どういうわけかしばらくサポートが途絶えていたね。ようやくまた再開してホッとしている。サポートが途絶えると大変困るから、こういうのは今度だけにしてくれよ、まってくもう」……という意味ではないということです。

ピリピからのサポートによって大変助かったというのは、その通りでしょう。しかし、パウロはサポートが途絶えたことを不満には思いませんでした。

今あるもので満足できる

人間の問題は、欲しいものが与えられないときに不満や不安にさいなまれるというだけではありません。たとえ欲しいものが願い通りに与えられたとしても、いつの間にかそれが当たり前になってしまい、満足できなくなってしまうということです。

伝道者の書は、「何かを手に入れることによって幸せになろうとすることの危険」を語っています。伝道者(ソロモン王がモデルになっているようです)は、多くの財産を手に入れ、誰よりも深い知恵を与えられ、社会的に成功し、大きな宮殿に住み(ソロモンの宮殿は、神殿よりも大きかったのです)、たくさんの女性を周りにはべらせ(ソロモンには、后や側室が1000人いたそうです)、たくさんの奴隷を持ち、音楽を楽しみ、おいしいものを食べ、世界中の珍しい宝物を目にしました。しかし、彼は「空の空。いっさいは空。何をしても、何を手に入れても、人生は空虚だ」と語っています。

人間の欲望には際限がありません。満たしても満たしても、尽きることなく欲望がわいてきます。そして、どこまで行ってもそれを満足させることはできません。いつも「何かが足りない」という欠乏感につきまとわれるのです。

しかし、パウロは無いなら無いなりに、あるならあるなりに、今与えられているもので満足し、そこに幸せを見出して喜ぶことができる人でした。

当たり前だと思わないから

パウロは、「自分はサポートをもらって当然」とは思っていませんでした。もらって当然ではないので、もらわなくても不満はない。もらって当然ではないから、もらえたら大変うれしい。これが、パウロがいつも喜んでいられた理由です。

私たちがどんな状況に置かれても喜び、感動できる秘訣は、「してもらって当たり前」という思いを捨てるということです。日本語で感謝を表す言葉は「ありがとう」です。これは「有り難し」という言葉からきています。滅多にないようなこと、ほとんどあり得ないようなこと、という意味です。

すなわち、ありがとうとは、「本来はあり得ないようなことなのに、私のためにわざわざしてくださった」という感動・感謝の言葉です。やってもらって当然と思うところに感動も感謝も生まれません。

あの人が私にこういうことをしてくれて当然、求めている物がすぐに私に与えられて当然。私たちの中に、こういう「当然思考」「当たり前思考」が働いていると、その当然のことが起きなかったとき、イライラしたり、落ち込んだり、苦しくなったりします。

そして、たとえその当然が満たされたとしても、当たり前のことが起こっただけですから、別にうれしくも感動することもありません。そして、いつも何か満たされない思いになります。

当たり前思考のチェック

当たり前思考の例を、いくつか挙げてみましょう。
  • 人はどんなことがあっても、絶対に私のことを良く評価するはずだ。当然、人から非難されたり無視されたりなんかされるはずがない。
  • 人は、どんな状況においても、私を公平に、正当に、親切に、思慮深く扱うべきだ。
  • 人は、私の依頼に対して、すぐに、喜んで対応するのが当然である。
  • 人は、たとえ私がはっきりと願いを口にしなくても、それを察知し、率先して親切にするのが当たり前である。
  • 私の人生では、当然のことながら、私の望むものが、私が望む時に与えられるはずだ。
  • 状況は、常に私に有利に働くはずだ。
  • 努力は、当然、100%願い通りに報いられるはずである。
  • 私が祈れば、常に私の祈った通りのことがすぐに起こるはずだ。
これらはすべて、私の中にある当たり前思考です。あなたには思い当たる物がありますか?

当たり前思考は、感動や感謝の息の根を止め、不平不満や虚しさの種を育てます。しかし、私たちに私たちの願う通りのことが起こるのは、当たり前ではない。そう思うことができたらどうでしょうか。

100が当たり前だと思えば、5や10もらっても納得できません。満足なんかできません。感謝も感動もありません。しかし、0が当たり前なんだと思えば、それにもかかわらず5もらえた、10の出来事が起こった。そうすれば感動し、感謝することができます。

当たり前ではない。そのことに気づくなら、私たちの周りには、いくらでも喜びの種、感動の種が転がっていることに気づきます。

そして、その感動や喜びの種は「転がっている」のではなく、神さまの緻密な計画と温かい配慮によって、そこに置かれているのだということにも気づくでしょう。普段の、当たり前の風景の中に、いや、不平不満を持って当然というようなひどい状況の中に、神さまのみわざを認めることができるでしょう。

では、どうしたら、私たちは「当たり前思考」を離れることができるでしょうか。それは、イエスさまの十字架を見上げることです。

3.十字架を見上げる

十字架が教えること

イエスさまの十字架は、大切ないくつかのことを教えてくれています。

第一に、私たちには罪があるという現実です。神さまはきよくて完全ですから、罪とは相容れません。罪は愛にあふれ、私たちを祝福しようとしておられる祝福の源である神さまと私たちとの間の隔てとなりました。その意味で、私たちは神さまから祝福されることは当然だとは言えないのです。

第二に、それでも神さまは私たちを祝福したいと願っておられるということです。私たちが罪を克服して神さまの所に行くのではなく、神さまの方が地上に来られ、私たちを救い出そうと計画してくださったということです。

そして、第三に、イエスさまが十字架で死に、私たちの罪の罰をすべて身代わりに負ってくださったので、神さまとの関係が回復したということです。

当たり前にもならず、卑屈にもならず

ですから、十字架を見上げる時、私たちは「自分の願い通りのことが起こるのが当たり前だ」という思いから離れると同時に、だからどうせ幸せになんかなれないのだと卑屈にもならなくて済みます。

神さまは、私たちを豊かに祝福しようとしてくださっています。大きなことを通しても、小さなことを通しても、とにかく神さまは皆さんを祝福しようとしてくださっているのです。十字架がその証拠です。この話をお読みください

恵みの「当たり前」を生きる

皆さん。人間が勝手に作り上げた「当たり前」を捨てて、イエスさまが教えてくださる恵みの「当たり前」を信じましょう。図々しく!

そして、神さまによってそこら中にちりばめられている幸せを見つけ出して、感動し、感謝し、喜んで生きていきましょう。あなたの幸せは、これからやってくるのではなく、今ここにあります。

まとめ

私たちは、どんな状況にあっても喜び、感動できます。そこに神さまの愛のみわざを見るからです。

あなた自身への適用のためのディスカッションガイド


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